第25話:朱妃、宮を探索する。
朱妃は自らが覚えた違和感について考え、すぐに思い至った。
永福宮の、少なくとも入口部分は綺麗に清掃され整えられている。しかし人の気配がないのだ。
「あー……、ねえ雨雨?」
「はい、朱妃様」
「新しい宮は無人で受け渡されるものなのかしら?」
「えっ。……ええっ⁉︎」
雨雨が朱妃を追い抜くように小走りで前に進んだ。
永福宮はじめ妃嬪の住む宮の形状は、四合院と呼ばれる中原の邸宅に特有の構造である。
院とは院子、中庭のことである。十文字の道のある中庭を中心に、その道の突き当たりに四棟の建物を配置する。
北が正房、宮で最も大きい建物で主人夫婦の住む建物であり、東西の東廂房、西廂房が主人の両親や子のための棟。南が倒坐房、厨房や厠が設けられる。
四棟は独立した建物であり、庭の十字の道を通じて行き来するのだ。
これら全体が正方形の壁に囲われ、南東の壁に門があるのが一般的だ。
「なんでっ!」
雨雨の声が響く。
朱妃と羅羅が彼女の後を追い、建物の間の通路を抜けて小さな門を潜って中庭へと出れば、そこには雨雨がただ一人立っていた。
その肩は落ち、愕然としているのが背中越しにも分かる。
「どうしたの?」
ゆっくりと雨雨は振り返る。その顔に色はなかった。
彼女は地に手と膝を突く。
「朱妃様、申し訳ございません!」
そう叫んで額を地につけ叩頭した。
朱妃は少々考え、ゆっくりと落ち着かせるように言った。
「先ほどの話から考えれば、あなたの謝罪はここに人がいないことに有るのだと思うのだけど……」
「是!」
おそらくは宮の門前かこの中庭で、新たな妃に仕えるべき宮女や宦官が皆で迎えることとなっている手筈なのだろう。
だが、ここには誰もおらず、館にも人の気配はない。
「雨雨に問います。それは貴女の責ですか?」
「い、いえっ。ですがっ!」
朱妃は屈み込んで、雨雨の肩に手をやり顔を上げさせた。
「では謝罪してはなりません」
「ですが……はいっ!」
「どうしてこの状態であるかは想像がつきますか?」
雨雨は考えこんだ。その間に朱妃は雨雨を立ち上がらせ、倒坐房の棟の前の段差に腰掛けさせる。
「朱妃様に悪意を持った誰かがここへの宦官や宮女の派遣を止めさせたのだと思います」
「何のためにでしょう?」
「朱妃様に頭を下げさせるためです」
今度は雨雨は即答した。そして続ける。
「誰もいない宮に困らせ、人を派遣させて下さいと言わせたい、馬鹿にしたい者がいるのです。ただ……」
「ただ?」
「ここまでの事は責任問題となるので、通常行われないはずです」
ふむ、と朱妃が考えれば羅羅が問うた。
「ですが実際には行われました。誰がやったのです?」
流石に口調が刺々しい。朱妃は僅かに眉をひそめ、羅羅を注意した。無論、彼女が主人のためわざとそう振るまったということは分かっているが。
「分かりません。ただ、後宮の中でも高位のお方が関わっているか……。それか相手に罰されない何らかの大義名分があるか、その両方かです」
朱妃より高位、あるいは同格と言えば数えられるほどしかいない。
商皇后殿下、それと太皇太后殿下、つまり先々代の皇帝陛下の皇后が一人存命という。そして貴妃が二名、朱妃以外の妃が三名である。
あるいは実権という意味では女官や宦官の上層部か。
「現状では誰とは分かりませんし、そもそもそれが分かっても意味はありませんね。まずは現実的に対処をせねばなりません」
朱妃は二人の顔を見る。
「是」
「是」
雨雨と羅羅はそう言って頭を下げた。
「雨雨は元々は癸昭様の配下ですね。彼か彼の信頼できる配下の方にこの現状をお伝えすることは可能ですか?」
「必ずや」
「羅羅は、私の護衛です」
「承知いたしました。まさか本当に箒とはたきで露払いを務めることになるとは思いませんでしたが」
二人は笑い合う。御座船に乗った時の彼女の台詞であった。
笑えるうちは問題ない。そして一食くらい抜いたところで何ということもない。朱妃は思う。
彼女がシュヘラ・ロプノールであった頃に受けていた仕打ちを思えば、手慣れたものであった。
こうして雨雨は一度、宮を出ることとなった。
残った二人は倒坐房に入ることとする。もちろん本来なら朱妃は北の本房に入らねばならない。だが大きな館であればあるほど、一人で住むのは困難になるのだ。
厨や厠があり、下働きの人間たちのための寝台もある倒坐房の方がよほど機能的であった。
「見事に何も無いわね!」
水瓶はあれど水はない。寝台はあれど布団はない。竈はあれど薪はない。燭台や灯篭はあれど蝋燭や油はない。立派な厨房はあれど食材はなかった。
家の機能としては全てが揃っているが、消耗品などの類は一切がないのである。
「朱妃様、どうしましょうか」
ふと、彼女は襟元を摘んで服の中を見る。
丁子色の肌の上、ダーダーは目を瞑って動かず、眠っているようだった。
「移動も疲れたし休みましょう」
「確かに、私も足が棒のようです」
そういえば朱妃は輿に揺られていたが、彼女たちは歩いていたのだった。
二人は寝台に並んで座った。
座るとどっと疲れがでてきたようだった。すぐに羅羅が眠りに落ちた。





