第24話:朱妃、思い出す。
宦官たちは朱妃の命に応じて糞を蹴散らして進む。
申し訳ないとは思う。だがもし糞が朱妃や輿、あるいは輿を担ぐ宦官に直接当たったりしたら?
新参者とはいえ、朱妃は序列二位の妃嬪である。輿を担ぐ宦官たち、特に先導の者は上位の宦官であろう。
国外からの朝貢の儀であり輿入りの儀でもあるのだ。それに参加する宦官が下位の者のはずがない。服は借りられるにしても、その所作や肉付きの良さから明らかである。糞を投げてきた者たちに錦を纏わせてもこうはならないのだ。
つまり、万一にも糞が当たれば、間違いなく処刑される。それを命じたものも処罰されるだろう。
––いや、違うわね。
下級の宦官たちはおそらく階上にいた女たちの命令によってやらされているのだろうが、女たちの余裕からして、自分たちには咎が及ばぬようなからくりがあるのだろう。
輿は嘲笑の声の下で道を左折し、ゆっくりと南へと進んだ。
ちなみに紫微城内はもちろん、玉京の都全体にいえることだが、城内の道路は全てが南北または東西方向に伸びている。これは自然にそうなるはずもなく、都市を築く際に一からそう計画されたということである。
中原の歴代の王朝の首都は龍河と南江の間の地にある。瓏帝国の初代皇帝が龍河の北にこの広大な都を築かせたということだ。これは北方遊牧民の侵略に対して睨みを効かせるためである。
朱妃はもちろんこれらのことを学んでいたが、この道に入って初めて、それを強く実感した。
つまり、玉京に入ってからはずっと都や城の巨大さに心打たれていたし、先ほどは糞を投げられてそれどころではなかったということだ。
真っ直ぐに伸びた道、石畳は整然として塵ひとつ落ちていない。両脇には黄色い甍の赤い壁が真っ直ぐに伸びている。その壁の奥には対称に配置された宮の屋根が覗く。
宮の主たる妃嬪たちは壁の門から姿を見せていた。女官や宦官たちを従え、自らの宮の側で新たな妃を歓迎する。
屋敷の中で奏でているのだろうか。楽の音が聞こえてくる。瓏の楽器の知識がない朱妃にはその名称がわからないが、心安らぐ音色であった。
「おお……」
朱妃は小さく感嘆の声を発した。
軽く頭を下げて謝意を示す。
もちろん、出迎えてくれる彼女たちの内心が本当に歓迎してくれているのかなどとはわかるはずもない。下級の妃嬪たちと同様にこちらを蔑んでいるのかもしれないし、本心から歓迎してくれているのかもしれない。
『商皇后には気をつけよ』
「あ……」
今更、癸氏の言葉が脳裏に思い起こされた。
朱妃は、あるいは他の嬪たちも、あの美しく、優しく、高貴な皇后に心奪われていた。光輝嬪は特にそうだったように見えた。
癸氏のその言葉は今まで完全に頭から抜けていた。
癸氏が何を思って、あるいはどういう背景があってその言葉を口にしたのか。商皇后が善なのか悪なのか。あるいは癸氏こそが悪なのか。それもやはりわからない。
––癸氏が私を騙しているとしたら。それは嫌だな。
ふと、そんなことが頭をよぎった。
ともあれ、これを思い出せたのは、間違いなく糞を投げられたお陰。朱妃はそう思った。もちろん感謝するような事柄ではないが、それでも糞を投げられたことは幸いであった。そう考えることにした。
そのようなことを考える間に輿は進み、最奥のひとつ手前の壁際で門を潜る。すると東西に伸びる道に入り、その北側に宮の中へと入るための門がある。
輿はここで止まった。先導の宦官が大きな声を上げる。
「内僕局は羣が朱妃様に言上仕ります。輿は永福宮に到着致しましたことを」
内僕とは乗り物を担当する宦官たちの役所である。
朱妃は顔を上げ、門の上に掲げられた扁額に記された宮の名を読んだ。それは確かに永福宮とあった。
––なるほど。こういう構造なのね。
四方を壁に囲われた正方形の敷地が一つ一つの妃嬪のための宮なのである。
朱妃は輿より降りて告げる。
「皆様、ご苦労様でした」
宦官たちは拱手し、腰を折って深々と頭を下げる。朱妃は言葉を続けた。
「貴方たちの足下を汚してしまいました」
糞を散らして進ませたことである。
羣なる宦官は顔を上げて大仰に手を横に振る。
「我ら、尊きお方々の足となりて汚れるが役目に御座います」
道理である。朱妃は謝罪ではなくこう言った。
「ではその勤めを果たされたことに感謝を」
「おお、なんと有難いお言葉。恐悦至極にございます」
宦官たちは去っていった。その中には涙を流す者さえいた。
大袈裟である。朱妃は思う。でもそういうものなのかもしれない。となんとなく感じるものであった。
さて、永福宮の門扉は開け放たれている。
羅羅と雨雨に視線をやれば二人は頷いてみせた。
朱妃は宮に向かって一歩踏み出す。
「おお……おぉ……?」
朱妃の口から感嘆と疑問の声が漏れた。





