第23話:朱妃、後宮の洗礼を受ける。
紫微城の構造を大まかに言えば南北方向に長い長方形であり、その中央にあるのが太極殿である。
幅三十二丈、奥行十六丈。四段に積み上げられた石製の台座の上に世界最大の木造建築が鎮座している。その屋根は赤みを帯びた黄色とも茶色ともいえる、大地を想起させる瑠璃瓦に覆われている。これは皇帝のみが使用できる特別のもので、城内のどこからでも見ることができた。
太極殿よりも北が後宮、皇帝の私的な空間になる。その中央を南北に貫くように三つの建物が並んでいて、それが皇帝陛下や皇后殿下の住まうところである。
今、朱妃らが商皇后に迎えられた御花園はその真北に位置していた。そして東西には数多の建築物が並んでいる。
それらが妃嬪たちの住まう宮である。
より高位のものが南側に位置する大きな宮を利用でき、下位の嬪ほど北側の小さめの宮を利用するという。つまり東の南端と西の南端にあるのが序列一位の妃嬪である貴妃の宮であり、朱妃が住むことになる永福宮はその一つ北に位置するのだ。
そのような旨を朱妃は雨雨から説明を受けていた。それを思い返しつつ彼女は揺られていた。
––よもや城内に入ってからまた輿に揺られることとなるなんて……。
つまり遠いのである。御花園から永福宮まで二里以上もある。朱妃としては散歩がてら歩いていきたい気分であったが、これもしきたりと言われてしまえば反対もできない。
そして輿が西八宮という、小さめの宮が集まる場所の前を通った時だった。
どさり、という湿った音と共に道になにやら茶色いものが降ってきた。
輿が止まる。
「何でしょう」
朱妃が呟けば輿を先導する宦官が答えた。
「……馬糞が飛んできたようでございます」
––馬の糞が飛んでくる?
そんなものが飛んでくるはずはない。
輿の周囲にさらにどさどさと茶色いものが降ってきた。輿そのものに当たることはなかったが、飛沫が飛んだか輿を担ぐ宦官の数名が避けようとし、輿が一度大きく揺れた。
周囲に悪臭が立ち込める。朱妃は口元に手をやって顔を上げた。
「何が……」
「鳥よ、鳥」
そう呟けば、大きな声が掛けられる。
––いや、鳥の糞はあんなに大きくはないわ。
声を掛けてきたのは女であった。
周囲の楼や宮の二階の窓から数多の女たちがこちらを見下ろしている。
誰かはわからないがそのうちの一人がそう言ったらしかった。
彼女たちは誰もが美しい顔をしている。だがそこに浮かぶ表情は侮蔑と敵意、嘲笑。彼女たちは顔を醜く歪ませていた。
建物の陰には桶を携えた宦官たちの姿。
手にしているのは肥桶か。彼らが糞を投げつけてきたのだろう。
朱妃は驚いた。彼らの姿の見窄らしさに。
彼女が見てきた宦官は船の上で手を取られた直なる者もそうだったし、いま輿を担いでいる者たちもそうだが、誰もが上衣下裳にきちんと染物のされたものを纏い、刺繍入りの帯を締めている。
皇后殿下の宦官、例えば先ほど月を模した盤を掲げていた者に至っては、瓏国で吉祥とされる紋様が極彩色で縫い込まれた錦を着ていたのであった。
しかし、いま肥桶を抱える者たちはどうだ。
髪はざんばら、頬は痩せこけ、纏う衣は染めも漂白もされぬ生形のもので、それが汗と汚れに茶ばんでいる。
「貴方たちが……」
これをしたのか。そう告げようとした途端、二階からの声に遮られる。
「まあまあ、本宮たちがいるのにそれを無視し、下賤の者に声をかけるだなんて! なんて礼儀がなってないのかしら!」
む。と朱妃は喉の奥で唸るが、確かにこれは礼を失してはいるとも思う。
そもそも糞を投げることを命じたのであろう側、名乗りも上げずに声を掛けてくる側に言われる筋合いもないが、揚げ足を取られるようなことは慎むべきであった。
次々と周囲から声が掛けられる。誰が発言しているか分からぬように視線を向けていない側の女たちから声が発せられるのであった。
「四夷の娘どもが妃嬪となるとは」
「その中でも西戎の汝のみ妃とは」
「賄賂に何を贈った、金子か錦か」
「あるいは宦官に股座を開いたか」
そして嘲笑が唱和され大きく響く。
殿方の象徴なき宦官と交わる、あるいは宦官の妻となるということは後宮において実際のところ良くある事である。この後宮全体に男は皇帝陛下一人しかいないのである。当然と言えば当然であった。
だが、それは皇帝との子をなすことが期待される上位の妃嬪に対して言って良い言葉ではない。最大の侮辱とも言えよう。
朱妃は瓏の後宮の文化を知らない。だがそうであろうと想像はつく。しかしあまり怒りや悲しみを感じはしなかった。この時浮かんだ感情は『またか』という諦念に近い。
それは彼女がロプノールの王宮で冷遇されていたからに他ならない。罵声や悪意には慣れていた。
口許を覆っていた手を退けると、真っ直ぐ座り直し、凛として告げた。
「進みなさい」
「是」
宦官たちは馬糞を蹴散らしながら前へと進んだ。





