第21話:朱妃、皇后に会う。
辛家の商。と名乗る彼女の言葉は優しく、皇后殿下であるという強権的な圧力を何も感じさせぬものであった。だが、自ずと跪きたくなるような高貴さに溢れていた。
少なくとも朱妃や隣に立っていた南方の姫君もそう感じたようだ。
しかし北の姫はそうではなかったようだ。
「妹ぉ……?」
光輝嬪が首を傾げる。
「ええ、そうよ。わたくしたちは武甲皇帝陛下という同じ夫を持つ、一つの家族になるのですもの。貴女たちは時にわたくしと共に、あるいはわたくしに代わって、夫たる尊き方の御心や御体を慰め癒して差し上げるのですから。ねぇ」
商皇后は言葉の最後、確認するように朱妃ら四人を見渡した。
「はい」
皆が頭を垂れて肯定する。
朱妃は心打たれた。そして同時に舌を巻いた。
今、言葉が頭に染み込む前から頷かされていた。
語る言葉に異論があるわけではないし、その通りだとも思う。
––でもこの心地よさは不味いかもしれないわ。
彼女はまず一人称を本宮とし、光輝嬪が反発的なことを言うと直ちにそれをわたくしとして柔らかさと歩み寄りを演出してみせた。
落ち着いた口調による貴人の会話術か、その佇まいや所作が纏う雰囲気か。あるいはそれらを総称して徳というのかも知れない。
彼女はゆっくりと、その足で鶏頭の花の波をかき分けるようにこちらへと歩を進める。
宦官たちが動揺するのが視界の端に見える。彼らの腰には棒。後宮内部の護衛役であろう。
なるほど、光輝嬪は武人である。彼女がその気になれば、無手であっても彼らが駆け寄るまでに皇后殿下を落命させ得るであろう。
「貴女は光輝ね。勇敢なる遊牧民の一族、力強き"嵐"の娘。貴女自身の二つ名はあるのかしら?」
商皇后は光輝嬪の正面、手を前に出せば触れる位置に立ち、そう尋ねた。
「はい、"流星"と」
「まあ、素敵。貴女が馬を駆れば、金の髪が流れる星のように見えるのでしょうね」
商皇后は遊牧民の言葉もわかるのか、それとも予め情報を入れていたのか。これだけのやり取りで、光輝嬪を籠絡してみせた。
「ありがとうございます、商皇后」
「ふふ、姉と呼んでも良いのよ」
「商お姉様……」
商皇后は光輝嬪の身体を抱き、軽く彼女の背を幾度か叩く。光輝嬪の頬が赤く染まっていた。
身を離すと彼女は改めて朱妃らを見渡す。
「さて、順番が前後してしまったけども。朱緋蘭、朱妃」
「はい」
商皇后が朱妃の名を呼び、朱妃はそれに応じる。声をかける前に朱妃の方を見てから呼んだので、やはりちゃんと情報が入っているというべきだろう。
「范氏筍、筍嬪」
「はい」
そう呼ばれたアオザイを着た姫は被っていた蓑笠を脱いで頭を垂れた。
「冷泉楽、楽嬪」
「はい」
扶桑の姫はゆっくりとした動きで腰を折る。
「そして光輝、光輝嬪」
「はいっ」
商皇后は一人一人の前に立って彼女たちを順に抱きしめ、歓迎の意を示す。
彼女が左手を挙げて合図をすると、背後から女官たちが大きな包みを、男たち、いや宦官たちが卓と椅子を運び込んできた。
運ばれた円卓の周りには五つの椅子が並べられ、そのうちの四つの前には女官たちが包みを置いていく。
商皇后はそのうちの一つを解いた。ちょうど正面にいた楽嬪が息を呑む。
包みの中からは何反もの色鮮やかな錦が姿を表した。
「貴女たちの衣装はとても素敵だけど、わたくしたちが家族となった記念に、こちらからも布を贈らせてちょうだい」
朱妃は頭を下げて言う。
「感謝します。商……姉様」
朱妃も皇后とは呼ばず姉と呼んだ。そう呼ばれることを望んでいると感じたためである。
筍嬪も楽嬪も同じく頭を下げて感謝の言葉を告げ、姉と呼ぶ。
下げた頭の先で、彼女が満足している気配がする。そう朱妃は感じた。
「尚功局、服の作成を担当する女官たちに貴女たちの服を作ることを優先するように伝えてあるわ」
そう商皇后が言うと、彼女の背後に控えていた女官が一歩前に出て拱手し、辞儀をして下がった。
尚功局の長はそのまま尚功と呼ばれるが、彼女がそうなのだろう。
そうしている間にも布は脇に退けられ、茶器と菓子が運ばれてきた。
「さ、みなさんお掛けになって。お茶にしましょう。月餅も用意したわ」
「……これが月餅」
卓上の皿には丸く平たい菓子が置かれている。小麦色の皮に飴色の焼き目がついて真ん丸であり、月に見立てているのだとすぐに分かった。
思わず朱妃が呟けば、商皇后は、あら、と驚きを口にする。
「この時期の瓏のお菓子をご存じなのかしら?」
長い旅の間に季節も巡る。今は夏から秋に差し掛かる、陰暦の八月上旬である。
「いえ、食べたことも見たこともなかったのですが、今日紫微城に参る途中、月餅と書かれた幟や看板をたくさん見かけましたので」
商皇后は得心したと頷いた。
八月十五日の中秋節、瓏では満月を眺める風習がある。そこで月餅という菓子を食したり、贈り合う習慣があるのだ。
「中秋節には武甲皇帝陛下や妃嬪たち皆で月見の宴を行います。これはそこで供されるお菓子ですわ。ぜひ貴女たちにも試して貰いたいの」
つまり皇后殿下自ら、皇帝陛下のために菓子を試食しているということなのだろう。
朱妃たちが席につくと、目にきらりと光が入る。
真昼に月が昇っていた。