第20話:朱妃、紫微城に入る。
「きー……」
ダーダーはもう一度小さく鳴く。その鳴き方にどこか弱々しさを感じた朱妃は声を顰めてそっと尋ねる。
「どうしたの? どこか調子が悪いのかしら?」
もちろん応えがあるわけではない。
しかし共に育った絆か、彼女の内に流れる巫覡の血が故か。何となくこの小さなものの気分が良くないことが伝わってくるのであった。
朱妃の側で輿の棒を担いでいた宦官がちらりと視線を向ける。
朱妃の呟きの内容までは聞き取れなくとも、何か言葉を放ったことは気付いたのであろう。
ダーダーはするりと襟元から朱妃の服の内側へと潜り込んだ。
「ひうっ……!」
朱妃は悲鳴をあげそうになり、それを噛み殺した。
数名の宦官の視線が集まる。咳払いを一つすると、彼らは視線を前へと戻した。
––ちょっと、こんなところで。もー……。
別に驚いている訳ではない。ダーダーが朱妃の服の下に潜り込んでくることは今までに何度もあった。
だがちょっと朱妃よりも体温の低い蜥蜴が急に潜り込んできたら、ひやっとするし擽ったくもあるのだ。
朱妃は服の上から軽くダーダーの潜り込んでいるあたりを叩いてから、尻をもぞもぞと動かして座り直した。輿が揺れたので驚いたのですよとでもいうように。
さて。朱妃は考える。どうしてダーダーが潜り込んできたのかということである。
砂漠の夜は寒い。特に冷える時など、ダーダーが潜り込んできたことは多いが、なぜここでなのか。
今は決して寒くはない。もちろんロプノールの昼に比べれば涼しいが、それであれば龍河で御座船の甲板にいた時の方が温度は低かった。
だが実のところ朱妃も玉京の城内に入ったあたりから、どこか空気の悪さを感じていた。
それは単純に人や動物の多く集まる都市の空気であるということかと考えていたが、どうもそうではないようだ。
なぜなら民衆が雑多に多く住む外城よりも、紫微城に近く高級官僚や宦官らの住まう内城の方がより空気の悪さを感じるからだ。
––これはどうしたことかしら?
景色を見るふりをして、ちらと背後を歩く羅羅に視線をやる。
彼女の足取りや顔色からは特にそのようなものを感じさせることはなかった。
他の誰が気づかなくとも、朱妃に流れる巫覡の血脈は強く発現し、玉京の気脈の乱れを知覚し、それを違和感として伝えているのだ。
––まあ、気のせいでしょう。
彼女が何らかの寺社にでも勤めるか、まともな道士・呪術師・卜占の元で修行でもしていれば、その才はすぐにでも開花していただろう。
だが、朱妃は姫であった。そして冷遇されてもいた。そのような術を人生において学ぶ機会はついぞなかったのである。
朱妃は壮大な紫微城を眺めながら揺られ続ける。
正面には朱色の城壁に三つの入り口が並ぶ。紫微城の正門たる午門である。
一行はその前で左に折れ、堀に沿って紫微城の周りを半周するように進んだ。
午門から先、城の南半分は前宮、そこは政治の場であり女人禁制である。
逆に城の北半分が後宮、こちらは男子禁制の場だ。
どちらも行き来できるのは、皇帝陛下と性を持たぬ宦官のみである。
城の北、堀にかかる橋を渡り、城の裏門にあたる子門より、いよいよ輿は紫微城の内へと進む。
「まあ……!」
朱妃は感嘆の声をあげた。
そこは城の内側でありながらも一面の花園であったのだ。後宮の最奥、最も北に位置する御花園。ここは歴代の皇帝と皇后や妃嬪たちが戯れ、宴を行なう場所であった。
花壇があるわけではない。植えられているのは木々であり、丹桂が橙の小花を咲き乱れさせていた。
あたりには芳しい香りが立ちこめている。
そしてここまでの地面は灰色の石畳であったが、この先は全く見ることができない。そこに花が敷き詰められているからだ。
赤や黄色、桃色の鶏頭の花房が色鮮やかに、そして見渡す限りに広がっていた。
花々の地面の手前で宦官たちは輿を地面にゆっくりと丁重に下ろす。そして彼らは素早く地面に両の膝と手をつき、深く頭を下げる。
叩頭という言葉の通り、額で石畳を叩く音が聞こえる程であった。
その頭が向く先は朱妃や他の嬪たちではなく、花園の中心を向いている。
輿から降りた朱妃や光輝嬪たちが顔を見合わせ、なぜか無言で並びながら、花の絨毯の中に足を踏み入れて花園の先へと向かう。
木々の合間から見えていた瑠璃色の甍の瀟洒な楼閣。その前には木漏れ日が優しく落ちる広場があり、そこに一人の女性が凛として佇んでいた。
美しき人だった。艶やかな黒髪は結い上げられ、絢爛豪華な衣を纏い、金環の腕輪や翡翠の耳飾りなどで装っている。
彼女はこちらを見ると、優しく心休まるような笑みを浮かべ、軽やかな鈴のような声で朱妃たちに話しかけた。
「妹たちよ。遠き地より遥々とよくいらっしゃいました」
彼女こそ、瓏帝国の女性の頂点。
「本宮は、辛商。武甲皇帝陛下の后です」