第15話:朱妃、問い詰められる。
––ほら、やっぱりすぐに問題になったじゃない。もう!
朱妃は脳内で癸氏に文句を言う。
「私の意思ではありませんので、問われても答えかねます」
「へぇ?」
ゲレルトヤーン姫、光輝嬪からの視線がさらに鋭くなった。
「というより、……私も困惑しているのです」
朱妃はあえてゆっくりと、困惑を全面に押し出して言う。
「癸って野郎から言い出されたのか?」
野郎って……。朱妃はそう思いながら肯定する。
「ええ」
「断らなかったのか?」
「断れなかったのです」
「ふむ?」
「癸氏は勅令であると仰り、取り付く島もありませんでした」
光輝嬪はふん、と不満げに鼻を鳴らす。視線の圧が僅かに弱まった。
彼女は少し考えてから言葉を発する。
「皇帝陛下の命令だから覆せねえ、そもそも陛下はここにはいねえから撤回もさせられねえってことか」
朱妃は頷く。光輝嬪は吐き捨てるように言った。
「だがなぜ朱妃、あんたなんだ?」
再び鋭い視線と共にそう問われ、会話が止まる。誰もその解答は持っていないからだ。
––そう、それが分からないのよね。
勅令であるということは癸氏がこの船に乗る前に、いや早馬で出航した後に届けられたのかもしれないが、とにかく朱妃を出迎えるより前に武甲帝が朱妃を他の民族の姫たちよりも上に置くと決めていたということである。
もちろん、癸氏が嘘をついているという可能性がないわけではない。
だが、二つの面でそれはないと朱妃は思う。
まず、嘘をつく意味がないということ。癸氏がここで朱妃を騙して何の利得があるというのか。瓏国人の商人は嘘吐きばかりだとロプノールの商人は言うが、それは利益を貪ろうとしているからである。また虚言癖のように日常的に意味のない嘘をつく人間も存在するが、そんな者が上級の役人になれるはずもない。
次に危険性が高すぎること。異国人である朱妃ですら知っている。勅令、皇帝の命であると謀ったのを知られれば間違いなく死罪であると。もし嘘だったとして、朱妃が玉京についた後、ふとした時にこの話をしてしまったら? 流石にそんな愚は犯さぬであろう。
「あたしたちより西戎を重視するってのか?」
「北狄の方が帝国にとってより脅威であり、結び付きを強めるならそちらを選ぶと思いますが」
侮蔑には即座に侮蔑で返した。北狄、南蛮、東夷、そして西戎。これらは中原の民が四方を取り囲む、皇帝の権威にまつろわぬ異民族を蔑んで呼ぶ時の表現である。
ふん、と光輝嬪は鼻で笑う。だが、口元には笑みが浮かんでいた。
朱妃の言うことは歴史的事実として正しい。そう彼女も考えるからだ。
帝国は古代よりしばしば遊牧民と衝突してきた。実のところ、中原を支配していた帝国のうち、瓏帝国の二代前の王朝は遊牧民たちの王朝ですらあった。
帝国がより強く懐柔すべきは北方遊牧民だろう。あるいはせめて対等に扱うだろう。そう光輝嬪も考えていたのだ。故に思わず朱妃のところに押し掛けたのだった。
「胆力はあるようだ。機転もきく」
「お褒め頂き光栄ですわ」
「だがあんたじゃ、あたしが天辺とる敵にゃあならんな」
光輝嬪は自然に朱妃を下に見ているようであった。しかし朱妃はそれに怒りを覚える前に、その言葉に驚きを感じ、またそれを言える彼女に感嘆すらした。
「天辺を目指しますか」
「後宮に入るなんていうつまんねえ話でもよ。それでも入ったなら天辺取らなきゃならねえだろうが」
「しかし、私たち異民族では天辺、つまり皇后にはなれないでしょう」
これもまた歴史的な事実である。ロプノール王国よりもさらに西方の国家群では王族は他国の王族と婚姻を結ぶものという。一方で中原の皇帝は一人である。故に異国の姫ではなく、自国の有力者の娘で容姿や教養、礼法などに卓越したものを選ぶのだと。
少なくとも中原の王朝が瓏となってから、異国の姫を皇后としたことも、異国から嫁いだ妃嬪の子が皇帝となったこともない。
だが、光輝嬪は顔の前で手を振って言った。
「なれるかなれないかじゃあない。なるんだよ」
根拠もなければ論理もない発言である。だが朱妃はそこに小気味良さを感じた。そして、同時に劣等感がちくりと胸を刺した。自分には自信がないし、こう振舞うことはできないと。
「ま、いいや」
そう言って光輝嬪は立ち上がる。自室に戻るのだろう。朱妃も見送ろうと立ち上がった。
「あんたが癸ってのを誑かして位階を妃に上げさせたのかと思ったんだが、違ったようだ。すまない」
「誤解が解けてなによりです」
蒼の視線が朱妃の頭頂から足元まで降り、再び上がって正面に戻る。
「ああ、あんたどう見ても傾国って身体つきじゃあない。邪魔したな」
光輝嬪は護衛を従えて部屋を出て行った。
朱妃、その身は小柄で、胸は慎ましやかであった。