第13話:朱妃、遊牧民の姫に会うこととなる。
朱妃は部屋に戻って籠り、鬱々と丸一日を過ごした。
––彼女、ゲレルトヤーン姫は絶対に周囲の者から白い目で見られ、冷遇を受けていたはずよ。
朱妃は部屋に籠っていたが、羅羅から遊牧民の姫の名くらいは聞いている。
船には多くの草原の遊牧民の男たちが乗り込んでいた。
それは部族の姫を安全に帝国の首都、玉京まで送り届けるという意志のあらわれ。
『これを以て我らが部隊全員は、ロプノールへと帰還致します』
この船に乗った日、そう告げたロプノールの将タリムのことを思い出す。兵は誰一人としてここに残らなかった。
残ったのは使用人の羅羅一人だ。
「きー」
ダーダーが鳴き、寝台の上に転がる朱妃の頬をぺちぺちと叩いた。
––そう、それと、蜥蜴が一匹ね。
これを幸せと感じた日もある。一方でこうして鬱々とする日もある。どちらも本心であり、それは感情という札の表裏に過ぎない。
––分かっている、分かってはいるんだけど……。
「はいはい、朱妃様。起きてくださいね」
羅羅が朱妃の身体を起こす。
「うー……いいのよ。誰も来ないし……。どうせ癸氏だって向こうのお姫様のところよ」
––私に朱緋蘭と、朱妃と名付けたように、彼女にもそうしているはず。ゲレルトヤーン姫はなんと言う名になるのかしら。
「あら、姫様ったら癸昭様に恋してしまわれました?」
ぼーっとした頭を羅羅の言葉が通り過ぎていく。
文官とは思えない程格好良いですものね。そう続けられたところで朱妃が自分の言葉を理解した。
「ちっ……違うわ! 羅羅、違うのよ!」
朱妃は慌てて立ち上がる。突然の動きにダーダーが寝台の上を転がっていった。
「あら、違うのですか。残念ですね」
羅羅は笑う。
「いや、私は武甲帝の妃になって後宮に入るのよ⁉︎ そんなこと言ったら首が飛んでしまうわ」
揶揄われていると分かっていても、朱妃としてはここは否定しなくてはならないところだ。
そして羅羅の思う壺で、朱妃はもう立ち上がってしまっている。
「ふふ、失礼いたしました。さ、お食事にいたしましょう」
卓上には蘇油茶の用意がなされている。羅羅は朱妃の肌にも似た液体を茶器に注ぐと、部屋を後にする。朱妃がそれを喫している間に膳を運んでくるのだろう。
朱妃は溜息を一つ。そして蘇油茶を口に運んだ。肉桂の香りが鼻腔に、たっぷり入れられた糖の甘さが口に広がっていく。
彼女の心中には複雑なものが澱のように積み重なっている。自分が呪われた子であるということ。それ故に家族の愛を失ったことへの悲嘆、失望、怒り……。
『お前のせいで!』
『貴女がいたからこんなことに……!』
記憶の中の家族が幼いシュヘラを責める幻聴が聴こえてくる。
「違う、私は何も悪いことをしていない……」
誰もシュヘラを信じてはくれなかった。そして離宮に幽閉された。
それは王の娘でありながら民の為に動くことも叶わなかった不甲斐なさへと繋がり、逆にそれ故にこの朝貢において異国の皇帝に嫁ぐという役目を仰せつかることができたということでもある。
朝貢の旅に出ること、人質の姫であるということ。そういった苦難を背負わされているのは事実だ。それでも朱妃は故郷を離れ、自分を知るものがいない地に旅立つことに喜びを感じてもいた。喜びを覚えていることへの罪悪感と共に。
それらの感情は普段は朱妃の心の水底に沈澱しているものだ。だが、ゲレルトヤーン姫のような、自らの力でそれを跳ね除けたであろう存在にあてられると、ふわりと浮かび上がってきて心を乱すのであった。
溜息を一つ。そして茶をもう一口。
––単純なものよ。
そう自嘲する。
甘く、温かいものを口にすれば、それだけでもじわじわと不安は溶けていくから。何も、変わっていないのに。
その時、ばたりと扉が開き、羅羅が慌てて部屋に戻ってきた。
その手に膳はない。
「大変です、朱妃様!」
「どうしたの? そんなに慌てて」
「ゲ、ゲレルトヤーン姫がこちらに向かっていると!」
びくりと朱妃の身体が震えた。羅羅は一度ぎゅっと朱妃の手を握ると、急いで髪を梳り始めた。
「ああっ、寝転がっておられたから寝癖がっ……!」
背後から悲鳴が上がる。彼女は茶器の元へと向かい、薬缶からお湯を布に溢して絞って戻ってきては、髪に当てた。
横で慌てられていると、逆に心が落ち着いてくる気がするものだ。
朱妃は深く息を吐き、そして吸う。
––癸氏はこれをご存じなのかしら?
認めているなら問題ない。それは朱妃が対応すべきことということだ。認めていないのだとしたらこの扉の前の護衛が報告に行くだろう。朱妃はそう考えた。
手の震えは止まっていた。
扉が叩かれる音がする。
「失礼する」
女性の嗄れた声が扉の向こうから聞こえ、返答する間も無く扉が開かれた。





