第12話:朱妃、遊牧民の姫を見る。
翌日である。御座船を停泊させ、陸には癸氏を始めとした官吏たちが居並んでいた。それは朱妃がこの船に乗った日と同じ光景である。
違うのは彼女がそれを船上から見下ろしていることだ。
甲板に出て、遊牧民の姫の訪れを待っているのである。
ここからは癸氏の後頭部と背中が見える。瓏人の男性が被る独特な形状の冠は黒を基調に金で縁取りがなされ、その下から覗くのはどこか緑か青みがかった黒髪、そしてすっきりとした項である。
ふと、朱妃は空気が変わったのを感じた。川の上にあり、水気に満ちた空気が吹き飛ばされたような。だがそれが何故なのかは彼女には言語化できなかった。彼女の人生で感じたことのないものであったためである。
「しゅ、シュヘラ様」
羅羅が背後から主人の名を呼ぶ。慌てているのか、以前の名で。
「あ、あの、ゆ、揺れが!」
ここは水上であり、御座船は常に僅かに揺れている。朱妃は少し当惑し、そしてすぐに悟った。
龍河の水面に波紋のような漣がたっているのだ。
「地震? いいえ、これは……」
彼女の耳が音を捉えた。
それは地響きである。それは連続し、遠くから近づいてくるものであり、漣と音はどんどんと大きくなっていく。
それが馬の駆ける音、それも無数の馬が駆けるものだと気付いた時、土手の裏から何旒かも数えられぬほどの旗が見え始めた。
それは片手で旗を掲げて馬を走らせている者を先頭に走らせる騎馬の軍団であると朱妃は気づいた。
軍を見たことはあった。遊牧民族も、騎馬も見たことはあった。だが、朱妃にとって、軍が正面から駆けてくるのを見るのは初めてであったのだ。
「ひっ……」
羅羅が小さく悲鳴を上げ、朱妃も息を呑んだ。
無論、彼らはこちらを攻めようとしているのではない。空気を切り裂くような力強い号令と共に、一糸乱れぬ動きで騎馬軍団は止まった。
朱妃の生国ロプノールは交易の中継都市でもある。遊牧民たちも重要な取引相手であり、街には彼らの姿も多く、その装束などについて学ぶ機会もあった。
立ち襟で裾が長い、デールと呼ばれる綿や毛皮の着物を帯で留めている。男は渋い色合いの茶や草色に染めたものを着込むが、格調高い正装は青である。
ロプノールの王城に招いた遊牧民がそれを着ていたのを見たことがあったのだ。
中央の集団だけが衣装を青で統一している。おそらくは、そこが今回瓏帝国に嫁いでくることとなった姫のいる部族なのだろう。
––ええと、女性は……?
女性の纏うデールは赤や鮮やかなものが好まれる。だが朱妃の目にそういった人物は映らなかった。
だが、下馬して前に歩み出る中に、一人だけ帽子の形状が違う人物がいた。
男性の帽子は鍔のなく頭頂の尖った形状。
女性のそれは頭頂や耳当ての部分から鮮やかな飾り紐を垂らしたものだ。
一人だけ、男物のデールを纏いながらも、女性の帽子を被る人物がいる。おそらくこれが遊牧民族の姫だ。目を凝らせば、彼女は金属や宝玉の飾りを多く身につけていて、それらが陽射しに煌めいていた。
しかし彼女は腰に剣を佩き、背には矢筒を負っている。そして男たちの中を堂々と歩きながら、癸氏の前に立ち、拱手礼を受けた。
朱妃には理解った。それは勘ではなく確信である。
遊牧民の姫である彼女は女でありながら、武人としてこの騎兵たちを纏めてきた英傑なのだと。
この時代、どこの国も政治や軍事は男が担うものだ。女は大切にされようともその地位は低く、自由はない。もちろん時には女王・女帝が立つこともあるが、稀なことである。
その中でも遊牧民の一族は男尊女卑の傾向が強いとされていた。尚武の気風が強く、馬に跨がれば千里を駆け抜け、弓を取れば飛ぶ鳥を落とすという彼らの兵の精強さは有名である。一方の女たちは織物や羊の世話、家事に育児と内向きの仕事についているという。実際、朱妃がロプノール王国で見たことのある遊牧民はほぼ全てが男性であった。
朱妃はなにもそれが不幸であると思っている訳ではない。男には男の、女には女の幸せがあるというのは歴とした事実である。
だが、例えば女が学問や武術を修めようと望んだとすれば、ほとんどの場合において門前払いされるのもまた事実であろう。
声は聞こえないが、癸氏に対して遊牧民の姫は堂々とした態度で言葉を交わしているのが見える。
––ああも力強く女性が振る舞えるなんて……。
癸氏が御座船を示した。どうやら船に乗り込んでくるのであろう。
遊牧民の姫が船を、いや、こちらを見上げた。
そして見上げる蒼の瞳が朱妃の瞳を射抜いた気がした。
蒼と翡翠の視線が交わったのは刹那のことだ。
向こうが興味なさそうに視線をすぐに外したからである。
だが朱妃は雷に撃たれたかの如き衝撃を受けた。
口を開けるが思うように声が出ない。朱妃は幾度か口元を震わせ、声を絞り出す。
「……少し、身体が冷えたわ。部屋に戻ります」
掠れた声が羅羅に届いたようだ。羅羅は軽く頭を下げ、手にしていた布を一枚朱妃に羽織らせた。
その布の下で、心配そうにダーダーが「きー」と鳴いた。