第11話:朱妃、蜥蜴を紹介する。
癸氏は笑みを頬に残しつつ朱妃に言う。
「笑ってしまい失礼した。貴女の従者は間違っていない。それは聞香杯といい、まずは香りを楽しむためのに使うものだ」
癸氏は両手で器を持つようなふりをし、それを鼻の前で揺らす動作をした。
朱妃は顔を赤らめながら器を手に取り、その動作を真似る。
なるほど、高い杯の中に籠る馥郁たる香りが鼻の中に広がっていく。
「どのような香りを感じますか?」
「なんでしょう……あまり嗅いだことがないものですが、なぜか懐かしい。……果実のような良い香りです」
癸氏は朱妃が砂漠の国の出身ゆえに果実にもあまり詳しくはないかと得心した。実際のところはそれに加えて朱妃が冷遇されていて、ここ数年ほとんど果物を口にする機会がなかったからでもある。
「この茶は果香、特に桃の香りがすると言われますね。どうぞ、香りを楽しんだらそちらの茶杯を取ってお飲みなさい」
「桃の香り……」
記憶の奥深くから、浮かび上がってくる光景がある。熱を出して寝ている幼いシュヘラの口元に差し出される黄色く、甘い果実。差し出すのは心配そうな表情を浮かべた優しげな女性。母だ。瑞々しく甘い果実を乾いた口に含んだ時のあの香り。
おそらくは十年は前の記憶だろう。あの頃は……まだ父も母も優しかった。
「きー」
肩掛けのようにした紗の下で、蜥蜴のダーダーが心配するかのようにか細い声を上げた。朱妃は紗の上から大丈夫との意を込めてそっと撫でてから茶を喫した。
ふん、と陳氏が鼻を鳴らす。
「権威がために、やれ儀礼だ、やれ作法だと複雑になりすぎるんじゃ。奴才が若い頃には聞香杯などという器はなかったわい」
癸氏はその言葉に苦笑した。
確かに茶を飲んでいれば香りは当然感じる。朱妃としては香りのみを感じさせるための工夫と感じたが、この老爺の言うこともまた真実だろう。
不思議な人だ、あるいは不思議な関係の二人だと朱妃は思う。
陳氏は自分を奴才と謙っているが、その口調や態度からはそうとは思えない。癸氏の方が地位が上であるのは明らかであるが、年上であることへの尊重なのか、対等な関係であるようにも見える。
「ところで其奴を紹介してはくれぬかね?」
陳氏は自身の首元をとんとんと叩いた。
ダーダーの止まっているところだ。
「聞こえたのですか?」
先ほどの朱妃自身にも聞こえるかどうかという鳴き声が、離れたところにいる老爺に聞こえたのか、朱妃は驚きを露わにした。
陳氏はにやりと笑みを浮かべる。
「いや? だが感じる」
朱妃が紗を捲ると赤黒い蜥蜴があらわれる。陳氏は目を細め、癸氏は気付いていなかったのか驚いた様子だ。
「ダーダー、ご挨拶なさい」
「きー」
蜥蜴はぐいっと胸を張るように頭をもたげ、さっと左前足を上げて鳴いた。
「おうおう、賢いのう。陳じゃ、よろしくの」
陳氏は蜥蜴が好きなのか満面の笑みだ。一方の癸氏は驚きに固まっていたが、ゆっくりと言う。
「ああ、癸昭だ。なんとも賢い……家守か?」
ふふ、と笑みが漏れる。
「……真面目にご挨拶してくださるのが面白くて。どうなのでしょう、私は蜥蜴の種類には詳しくありませんの」
陳氏が応える。
「ただの家守のはずがあろうかよ。朱妃が生国より連れてきたのかね?」
「連れてきたのではなく、ついてきてしまったのです、ねえダーダー」
「きー」
朱妃たちの茶会の話題は、ダーダーが荷物に紛れていたという話や、そもそもどうやって会ったのかなどというものとなった。
茶を喫し終えた頃、文官が甲板をこちらに向って歩いてきた。
そして左手で右手を包むように拱手し、深々と腰を折り曲げた。
「癸大人、お時間でございます」
––大人、ええと、年長者や徳の高い人物、官僚や将に対する尊称……で合っていたかしら。
癸氏は残念そうな表情を浮かべ、すぐに向かうという旨を文官に伝えると、朱妃に向かって優しく微笑んだ。
「申し訳ありませんが、打ち合わせに向かわねばなりません。いや、楽しい時間は過ぎるのが早いものです」
朱妃は胸がとくりと跳ねるのを感じた。
彼は立ち上がりながら言葉を続ける。
「ああ、そうでした。そもそもこれを話すつもりだったのです」
「なんでしょうか」
「明日の昼、この船は停泊しますが、そこで別の妃嬪の方を迎えます」
––それ大事な話だったんじゃないかしら!
朱妃の内心での驚愕など知らぬというように癸氏は続ける。
「瓏国の北方に広がる大平原に住まう遊牧民を統べる一族。その王の娘、ゲレルトヤーン姫を迎えることとなります。同じ妃嬪として不和を生まぬようにお願いします」
––うわぁ……。
朱妃の心中に不安が湧き起こるが、癸氏の言葉は当然のことでもある。
彼女は立ち上がると、慣れぬ手つきで拱手して頭を下げた。
「畏まってございます」