3話
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昼までに終わらせておくはずだった仕事を夕方に回してしまった。ディアロにまだ作業が終わっていない事を伝えると、「真面目ちゃんのリコのくせになぁ」と意地悪くからかわれた。
「お前は適当すぎるんだよ」
「そんな頻繁に紛失するもんじゃないだろ、騎士団の備品って。点検なんて適当にやってこいよ」
「この前乾パンが一斤無いって騒いでただろ」
「いやぁネズミのせいになってよかったよ」
「お前!」
「はい隙アリーーーーっ!!」
「何をッンモグ……」
リコルトの口に無理やり突っ込んだのは、ふんわりとした食感のもの。
「ディアロ…モグ…お前…」
「はいはい共犯者くん、さっさと残りの仕事を終わらせて宴でもしようぜ」
「…本当に、お前と同室が運の尽きだったな」
「リコも最初の余所行き仮面は可愛げあって好きだったぜ」
「はぁ…」
もう一ヶ月が経つと思われるが、孤独と不安にならないのもディアロが居てくれたお影だと、リコルトは密かに感謝している。担当の団員はいるが、田舎であるため雑用も多く担う団長の方針で常に出払っている。まだ数回しか指導を受けていない。
確認帳を片手に、リコルトは一人日が傾く中倉庫へと向かった。到着後すぐ、黙々と作業を続けていくが最後の調理用ナイフが足りない事に気付く。鋭利で、その気になれば人を殺められる凶器にもなる。冷静に冷静にと思いながら、誰か団員に相談するために部屋を飛び出した。廊下を駆け、角を曲がった途端何かにぶつかり、床に身が投げ出された。
「いっ!」
「痛った…」
悲鳴は思ったよりも幼気で、ぶつかったのにも関わら尻から倒れる程度だった。だがそれが余計に不自然すぎる。慌てて視線を上げると、黒の布を被った人らしきもの。焦ったがすぐに構え直した。
「誰だ!!」
ビクリと震わせたそれは、知りもちをつきながらも咄嗟にフードを外し顔を晒した。
「き、騎士団所属のアスタリアだ!同僚!!」
「アスタリア…」
ああ、ディアロがずっと話していた人か。
ホッと息をついたのも束の間。手を差し伸べようと立ち上がった瞬間、視界の端に光るモノが。
命を簡単に奪える危険性の、例の調理用ナイフ。
「それ…」
指摘した時にはもう遅かった。瞳孔が縮こまり、アスタリアは素早くナイフを回収してリコルトを抜き去っていく。
「あっ待てっ!!」
まっしぐらに馬小屋に向かうアスタリア。一頭の馬に飛び乗った。
「ごめん、今はお願いだ!」
「ちょっ…おい!!」
何かを真っ直ぐ見つめたままのアスタリアは、吸い寄せられるように消えていく。
空は薄暗く恍惚とした星たちが藍の空を飾っていく。
そんな夜空の下、呆然とリコルトは遠くなるアスタリアの背を見ていた。
***
隣国に差し掛かる道は、宿舎周辺では一本しかない。
その大通りでの犯行、短時間での殺害。アスタリアは必死に馬を走らせた。
道沿いを駆け抜け、通りに入った。すると道端に落ちている布切れを発見する。周辺の草むらが変に荒れていた。全身の温度がぐっと下がるのが分かる。
明らかな異常地帯に馬から下りるアスタリア。滾々と立ち込める異様な雰囲気。
何かが暗闇で光り、黒い物体がアスタリア目掛け飛んできた。咄嗟に地に伏せる。馬は悲鳴を上げ、振り解こうと唸りを上げて大暴れを起こす。身を起こして助けようと見やった瞬間、黒い物体の禍々しい形相に全身が硬直してしまった。
紅い血のような目をギラギラさせ、狂ったようにヨダレを垂らしている。一度噛み付いた獲物は死ぬまで離さない。これが…黒魔獣。
心臓を食い潰されたような恐怖が身を包む。戦慄で悲鳴を上げられない。ぶつけられた殺意とドス黒いオーラに圧倒されてしまう。
目の合った一匹が、アスタリアに標準を定め襲ってきた。スローモーションになった眼前の光景。咄嗟に自身をを覆っていたマントを獣に殴り付けた。その瞬間糸が切れたように体が動き、腰に据えていた訓練用の剣を抜きながら雑木林に逃げるように駆け込んだ。
蔓延している濃度の高い霧。腐臭のような匂いに胃が折れそうな感覚になる。視界の悪い中、身を低くして様子を伺った。もう騎乗馬の悲鳴は聞こえてこず、代わりに何かが折れる音ばかりが森中を木霊していた。気を抜けば失神しそうな音。早く離れなければ、と足を一歩踏み出す。
すると腕を何かに掴まれた。
喉の奥がなる。
そのまま地面に叩きつけられる。息を殺して目を閉じた。
「馬鹿野郎、覚悟決めてどうする」
聞き覚えのある声だった。
「オー…!!」
「シッ」
唇にあてられた指は血がべったりとついていた。
そっと全身に視線を向ければ、傷と血でボロボロの騎士服のオーリオ。どれだけ悪戦苦闘したのか理解できた。
「助けに来た」
告げれば苦い顔して反応した。一瞬開口しようとするが、どうせ禄なものじゃないだろうと察したアスタリアは咄嗟にかがんだ。草むらに隠れながら剣を拾い、オーリオに手を伸ばす。
「帰ろう、オーリオ」
真っ直ぐ、アスタリアはオーリオを見つめた。
何か言いたげの表情からふと納得したような、硬い表情を緩ませた。
「…俺に考えがある」
それだけ言うと近場にあった自身の剣を探し、拾い上げた。
「もうそろそろ腕が限界だ。やれる範囲、頼む」
こくんとアスタリアは力強く頷く。その瞬間、頭上に影がかかった。
「ガァァァ!!!!」
「あ゛あッ!!」
オーリオの回し蹴りで獣が吹っ飛んだ。だが足音が増え、気付けばあっという間に四方を囲まれてしまう。
約一ヶ月の夜の訓練。とにかく視界の悪さを克服するために、気配を過敏に捉えることを鍛えた。高い枝先にロープを括り、先に大小長短様々な枝を括り付ける。大きく揺らし、それを同時に剣で捌く。無機物相手に精一杯の剣を振れるように特訓した。いくら獣でも姿を消すことなんて出来ない。駆ければ隙や気配は生まれる。
その一瞬を、とにかく感じるのだ。
アスタリアは体で覚えるタイプらしい。剣の筋も、注意された次の日には良いと褒められるほどに。
しかし、所詮はまだ子供。死角から飛びかかってきた爪に襲われ、よろけた隙を突かれ獣たちの餌食になる。
だがオーリオが身を挺して場から救出する。しかし爪はアスタリアの背を裂き、悲鳴と血が漏れた。
ジリジリと両者睨み合いが続く。ほぼオーリオが斬り殺しているが、アスタリアも負けじと自衛として一生懸命剣で捌いている。アスタリアの頬に血が流れた。
息を上げながら、集中力を切らさぬよう恐怖に負けぬよう、ただオーリオと生きることを指針に剣を構えていた。
すると、背後から一段と巨大な気配がする。
だが意識が朦朧とし、立っていることがやっとなオーリオはそれに気付いていなかった。獣から一切視線が逸れない。目すらも若干の濁りを見せていた。
刹那、気持ちの悪い何かがこちらへ迫る。
「オーリオ!!!」
アスタリアはオーリオを突き飛ばし、地に倒れ込む。
赤黒い閃光が、さっきまでの位置に向かって飛んできた。閃光が通った跡はこの世の物とは思えない程に腐乱し、液体となった元自然物は黒い煙を上げながら更に周囲を汚染していく。
閃光の発信源からはとてつもない気配をしていた。森に充満する霧の何倍もの濃さ。
それは、獣ではなく"人間の形"を成していた。
一瞬、飲み込まれかける。
だが庇っている人は、今まで自分に尽くし育ててくれた恩師がいる。
アスタリアを独りにしなかった師匠がいる。
「ああああああッ!!!」
ぬかるんだ足場の中、ソレに向かって太刀を横に振る。一線、単純な振り。
傍から追撃してくる獣に太刀を邪魔される。夢中になって牙を振り回す狂った獣。冷静に把握しながら腰に据えた調理ナイフを引き抜き、眼に向かって刺す。岩と岩が擦れるような、不快な呻き声上げながら激しく身をよじる。痛みで怒りを買ったのか、牙が腕に突き刺さった。
「離せぇぇぇぇっ!!!」
どうしてこんなにも必死に戦っているのか。
前世らしき記憶が蘇った事。それは一種のお告げだったのかもしれない。
ただ、孤児で本当にどうしようもなかった日々を、オーリオが変えてくれた。守ってくれた。ここが居場所でいいんだと教えてくれたのだ。
なのに、あの記憶だと死んでしまう。
知っていて見過ごすなんてあまりにも無常すぎる。どうせ乙女ゲームの<本編>でアスタリアが死ぬとしたら。それなら、今大切な人を守って死んだほうがずっといい。
「死」は、人生において何物にも変えられない刺激であるから。
何も以ても抗えない恐怖と孤独だから。
眼に刺さったままの刃を力の限り押し込める。溢れ続ける血、飛び散る肉片。すると力尽きたのかダランと動きを止めた。息を荒らげながら警戒し、牙を腕から引き抜いて剥がす。
地に足を付けた瞬間、ピクと耳が、動いた。
気付いた時はもう遅く、今度は明確に殺す意志を持って飛びかかってきた。あまりの形相に目を閉じる。
だが痛みが体を貫くことはなく脇からオーリオの剣が伸びていた。弧を描き、死骸を地に落とす。
オーリオはアスタリアの背後に立つと、呟いた。
「一番魔力の高いところに力を一点集中させる。コントロールは任せろ。いいか、力を抜け」
「ま、待って、今から何を」
「イメージだ。湧いてくるものを液体から個体に変化するイメージ。大丈夫お前なら出来る」
目の前に有る、人影の黒い靄がより一層濃さを増す。
ごうっと不気味な風がオーリオ達めがけて吹き荒れた。
「負けるな、大丈夫だ」
オーリオ自身震えが抑えらぬまま、所持していた剣をアスタリアに握らせる。装飾は隊長を担っているオーリオ専用に作られた特注品。この国の伝統であるのだ。それをゆっくりと持ち上げると、剣先を源に標準を定めているようだった。
「お陰でちゃんと蓄積出来た」
「何を?」
「お前の魔力を、俺の魔力で引き出す」
「魔力…?」
人生で初めて聞いた言葉だった。
今までのオーリオからはそんな類の単語を耳にしたことはなかったから。
「前見ろ」
いつの間にか出ていた涙で視界がぼやけながらも、禍々しい何かを見据える。
いつも振れると冷たいオーリオの手が、段々熱を帯びていった。
肌触りの悪い風が一層強くなる。
「我ら光の君よ。我ら水の精霊よ。此処に奇跡を迎え」
ぼんやりと光の筋が剣先に現れ、空中に描いていく小さな魔法陣。
「守護の戦士、乙女と死して尚____。 輝きを、永久に」
最後に紋を取り囲む円が繋がれた時、剣先から魔法陣へ光と水で織り成された一直線の波動が勢いよく放射される。森一帯を光の粉が囲み、邪悪な霧を散漫させた。水は淡い光を発しながら大地に溶け込む。煮えくり返りそうだった不快感が消え去り、光に包まれた空間は居心地が良かった。今まで見たことのない眩しい発光をしばらく続けた後、放射していた光線は段々と消息していく。同時に、絶えていた衝撃も緩くなっていった。
体内に満ちていた何かがぬるりと消えていく感覚。それと一緒に活力も失っている。初体験のことばかりで困惑が抑えられない。
「オーリ…」
覆ってくれていた手が無くなった。
最後の力を振り絞っていたオーリオの体力がとうとう底をつき、砂埃を上げながら倒れる。
「オーリオ、オーリオ!!」
恐怖一色に染まっていく。だが今発狂するわけにはいかない。なんとか宿舎まで運ぼうと必死に背負った。ずるずると道に出、一歩ずつ進み始める。辺りには死骸が散漫しており、まさに惨状だった。それが何の死体か分からないのが余計に恐怖を煽る。線を描くように垂れる血液は一帯どっちの、どこからのものなのか。アスタリアは全身の痛みに耐え、泣きながら森の先の灯火へと向かう。
「も…、いい…」
力無くオーリオは呟いた。
「ヤダっ…嫌だ…!!」
必死で否定する。だが彼の言っている事は決してマイナス要素を含んでいない。
アスタリアは完全に冷静さを欠け、気付いていなかった。
「良い…てば、離せ…」
「嫌ぁっ!!」
あの光を目撃した団員たちが、こちらに向かってきている事に。
「なんだあれは!!」
馬の蹄の音すら聞こえていなかったのだ。大勢の団員の姿が見え、声が耳に入ったところでもう全てが終わったことにアスタリアはやっと理解した。すると足の力が抜け、オーリオ諸共倒れる。頭を打ったオーリオが「う、」と声を上げ、アスタリアの緊張の糸が切れた。
大勢の団員の中に子供がいた。何やら騒がしい団員から事情を聞き、もしかしてと頼み込んで一緒にやってきたのだ。リコルトはボロボロのアスタリアを見つけ、すぐさま駆け寄る。
「アスタリア!」
混濁する意識の中、名を呼ばれて少し覚醒した。
「…リコルト」
「アスタリア、なんで此処に」
「オーリオ…は…」
「もう団長が。お前は僕の馬に!」
「…ありがとう」
勝負道具、もとい他の武器…なんてものは効かなかった。
オーリオは最後の力、あの魔力を残していたのだ。助けに行った方が良かったなんてただの杞憂だったのかもしれない。なんてことを考えていても色んな出来事に脳が追いつかず、少し下手なリコルトの乗馬のリズムを感じていた。