泡沫【SS】
気付いた時には、少女の手首を掴んでいた。
汚れたままの美しい衣装を身にまとった彼女は驚きながらも微笑みをくれた。嬉しかった。特別なんだと思った。
多くの人間から「特別」だと扱われていた彼女にとって、自分だけが特別だと。そんなはずがないというのに。
この世界の人はみな、生まれ落ちるときに体の一部が欠けて胎から出てくる。人によってそれは様々で、腕だったり、眼球だったり、胸だったり、耳だったりする。
そんな中、彼女だけは異質だった。彼女は、体のどこも欠けずに生まれたのだった。
完璧な肉体を持った彼女は瞬く間に世界の注目を浴びるようになった。目もろくに開かない赤子の頃から、大勢の大人に囲まれて育った。
しかし、生まれた家が悪かった。彼女の生家は歴史を重んじる声楽家の家系だった。どこも欠けずに生まれた彼女は三歳になっても唸り声さえあげなかった。
いくら体が美しかろうと歌えない人間など家に要らないのだと言う。家の中で唯一母だけは大反対したが、幼児を抱きかかえて泣き喚くその女ごと勘当したのだそうだ。
何と言ってもこの話は、港一番の酒場を経営するおやじが客から聞いたものだという。だから、どこまでが本当でどこからが嘘なのか、はたまた全部嘘なのか、その逆か。俺には到底分かりえないことだ。
結局、どこも欠けずに生まれる人間なんていないのだと酒場の飲んだくれどもは大口を開けて笑っていた。
ただ、今、事実として言えることは彼女は巫女として毎日神に祈りを捧げ、踊り子として人々を楽しませる。そして夜には慰みものとしてその体を大人に差し出している、ということだけだ。
***
海沿いの大通りで立ち止まり配達用の大きなカバンを開いたとき、生ぬるい潮風が強く拭いて手紙をさらった。すぐに拾い集めはしたものの、ひとつだけ、近くにいた海鳥が咥えて飛んで行ってしまった。
急いで通り沿いに海鳥を追いかけ、何度も捕まえるのに失敗した。
海鳥にからかわれるように町の外れまできたとき、突然そのくちばしが開き、白い封筒を岩の隙間に落とした。
靴なんて海水でいくら汚れたって構わない。何度だって洗えばいい。しかし手紙はダメだ。それを届けるのが俺の仕事だ。俺の役割だ。誰かが預けてくれたんだ。しっかりとそのままの状態で届けないと、ほんとの気持ちが伝わらないかもしれない。
躊躇なく岩場に足をかけ、手指を大きく開いてその隙間を滑り降りる。幸いそこには海水はなく、封筒を拾ってほっと胸を撫で下ろした。
それを鞄にしまったとき、波の音に混じって微かに声が聞こえた。細く、しかし線の通った美しい声だった。おそらくは歌なのだろう音のする方へ足を向けた。大きな岩と岩の隙間、小さな講堂のようになっている場所があった。ひんやりとした空気が協会の礼拝堂を思わせる。
そこには、ごつごつとした岩肌に身を潜めて座り、声量を絞って歌う少女の姿があった。閉じられた瞼に金色の長い睫毛が映えていた。
もう少し近くにと踏み出した足元で砂利が音を立てた。体を強張らせて目を見開いた少女の顔に見覚えがあった。巫女様だ。見間違えるはずがない。
初めてその姿を近くにして、あまりの美しさに心臓が痛んだ。滑らかで柔らかそうな白い肌、透き通るような金の髪、少しくすんだ色をした薄い唇、切れ長で涼やかなヘーゼル色の瞳。思わず息をのむ。
しかし、だとすると大きな疑問点がある。
足を一歩踏み出すと彼女の両手が自らの体を抱いたので、それ以上は近づかないことにした。
「あの……」
当然彼女はこちらの出方をうかがっているのだ。この世界で、ましてやこの街で自分を知らぬものはないのだと幼い頃から身に染みて分かっている。
「あの、どうして歌えないなんて嘘を……」
俺の言動に拍子抜けしたのか、恐怖で歪めた眉が僅かに上がった。
「……私、歌えないなんて言ってない」
その答えを受け、尚も見つめたままでいると、彼女は俺を一瞥して諦めたように肩を落とした。
何も促さずにただ黙っていると、少し時間を空けて小さな口からぽろぽろと言葉が滑り落ちた。
「普通の人より言葉を発するのが遅かったみたい。あの家の人はせっかちだから分からなかったのね」
でも、そんなに綺麗な声を持っているのなら、事情を知れば生家に帰れたんじゃなかろうか。家に戻れたのなら、彼女は声以外を売らなくてよかったはずだ。
「……どうして帰らなかったんです?」
問いに、少女は苦しそうに唇を引き結ぶと髪を揺らして頭を振った。その姿に驚いて、慌てて言葉を続ける。
「いや、あの。言いたくないことなら無理して言わなくても……」
いいですよ、と言おうとした途中で食い気味に言葉が被せられた。
「傷付いて壊れた母さんを一人にするわけにはいかない」
語気の強まった彼女の横顔が今にも泣きだしそうなほど儚げで、目を逸らせなかった。
彼女が再び息を吸い込んだのを見て、今度は俺が唇を引き結ぶ。
「母さんはもう長いこと、一人じゃ暮らせないの。だんだん自分の世話も出来なくなってきてる。出歩けるのは人が寝静まった夜だけ。それも私と一緒じゃないと行けない」
少女は抱えた膝を強く抱き、その間に顔をうずめた。
「昼間は寝てるから、何もない日はこうして歌ってるの」
顔を上げた少女は何かを諦めたような目をしていた。絶望とは違う、しかし何の希望も映さない瞳。
「……俺、また聞きに来てもいいですか?」
少女は妙に大人びた表情で薄く微笑んだ。
「うん、いいよ。もう、知られちゃったからね」
***
俺は配達の合間を縫って毎日あの岩場の礼拝堂に通った。彼女はいたりいなかったりまちまちだったけれど、いない時でも彼女のことを考えるだけで幸せな気分になれた。歌を聞けた日は言うまでもない。
ある日、夕方に行くと彼女は薄暗い中でしわしわになった新聞を広げ苦い顔をしていた。
声を掛けると曖昧に言葉を発し、集中したいようだったので読み終わるまで待った。
もともと独り身の人間にとっては時間を潰すなど造作もないことだ。
ガサガサと紙の触れ合う音がして顔を上げるとヘーゼルの瞳と視線がかち合った。
「歌って、観客がいないと意味ないらしいよ」
彼女は溜め息を吐いてぶっきらぼうに新聞を俺に向かって投げた。その開かれた紙面には彼女の生家、その現在の頭領である老婦人の写真が大きく載っていた。
「自分でも家族でもない、顔も知らない誰かのために心を込めて歌わないといけないんだって」
本来の家にいたころの記憶もないだろうに、どうして彼女はこれほどまでに家系に縛られているのだろう。歌えること自体を秘密にしているのだから、ここでくらいは好きに歌えばいいのに。
「心を込めるって、どうするんだろ……」
ららら、と音階を変えて、音量を変えて、違うメロディーを彼女がいくつも紡ぐ。
あなたを遠巻きに蔑ろにするやつらのために、「特別」という言葉を使って道具のように扱うやつらのために、どうしてあなたが変わらないといけないんだ。そのままのあなたを俺は見ていたいのに。その歌声を、俺だけが聞いていられればいいのに。
不安定に揺れる声を聞いているのに耐え切れなくなって思わず口を出す。
「俺はいつものあなたの歌を聞きたいです」
おそらく、彼女と母親だけのための歌。俺が入る余地なんて微塵もないあの隔たれた歌。あの突き放すような彼女の歌が好きなのだ。
俺の言葉を受けて、彼女はただ曖昧に笑うだけだった。
***
「君と話している時の私だけが本当の私だと思うの」
いつものように彼女の歌を聞いて、駄弁っていたときのことだった。唐突にそんなことを言われて狼狽える。
「それ、は……喜んでいいことですよね?」
「君がそう思ってくれるなら」
それは肯定と同義だった。
「いずれにせよ……。俺は、ここにいるあなたが好きです」
そう言うと、彼女は嬉しそうに歯を見せた。その表情が愛しくて、だからつい以前から考えていたことが口をついて出た。
「思いっきり歌いませんか?」
目を見開いて俺をまっすぐ見据える彼女の顔からは隠しきれない嬉しさが滲みだしていた。
「うん!」
その次の日から、早朝も彼女と過ごす時間になった。
まだ白みがかった水平線に彼女の歌が美しく伸びていく。軽やかで、しなやかで、だけど少し寂しい、彼女の歌。それを毎朝特等席で聞けるのだからこんなに嬉しいことはないだろう。
しかしそんな穏やかな日々も長くは続かない。ひと月は経っただろうか。彼女の歌を聞いた朝の帰り道、砂浜を歩き回る男たちを見た。海の方を見て、何かを探しているようだった。それが日を追うごとに数が増えて行き、町の外れにまでも迫る勢いだった。
***
「おや坊主、知らねぇのか? 最近噂になってるじゃねぇか。朝方に海の方から女の歌声が聞こえるってな」
え、と顔が引きつった。それを恐怖に由来するものと思ったのか、おやじは笑う。
「セイレーンじゃねぇかって専らの噂だぜ」
そりゃ怖いな、とカウンターの男たちがケヒヒと笑った。相変わらず口角が片方上がったままでおやじの話の続きを聞く。どうやら、岩場まではまだ捜索の手は伸びていないようだった。彼女に一刻も早く伝えなければ。
「怖いもの見たさに探しまわってる血気盛んな輩もいるからなぁ。信用できるやつらばかりじゃない。お前も配達気を付けろよ」
頭をぐしゃりと撫でられ、それも彼なりの心配の仕方なのだと思わず笑みがこぼれた。
「ご心配ドーモ」
酒場の勘定を急いで済ませ店を飛び出した。
小さな講堂に着くと取り乱した様子の彼女がぶつかってきた。
「話題になってるの! 私のことが!」
はい、と重苦しい返事をして、彼女の肩に置いた右手が震えていることに気付いた。
「どうしよう、もう歌えないかもしれない」
どうしよう、どうしよう、どうしたら……。みるみる青くなっていくその顔を見ていられなくて抱きしめた。左腕の肘を右手でしっかりと掴む。反対は同じようには出来ない。
ああ、あなたのせいじゃない。元はと言えば俺のせいなんだ。
「すみません……! 俺が思いっきり歌えなんて、早朝にあなたを連れ出したりなんかしなければ……」
「違うっ! 私が、気を付けていればこんなことには……」
そんな押し問答をいくらか続けて、それが何の意味もないことだと分かり切っているから重ねて謝るのをやめた。
「大丈夫、大丈夫です。噂なんてすぐになくなります。大丈夫です。ただ、当分の間は歌うのはやめましょうか」
胸の中で何度も頷く彼女を壊さないように、気を付けて背中をさすった。何度も、何度も。
いつかまた、彼女が伸びやかに歌えますように。
暫くはお互いに岩場にも近づかないでおこう、と念を押した。もし巫女様が男と二人きりでいるところを見られたらどんな風に吹聴されるか分からない。
ただ、彼女を守りたかった。
彼女を守るために彼女を忘れるくらい忙しく働いた。そうこうしているうちに、何か月も経っていたらしい。気が付くと季節は冬に近づいていた。海辺の通りを走ると心なしかあたたかかった。それでも早朝は手袋をした方がいいかもしれない。そう思って、外套のポケットに手を突っ込んだ時だった。久しぶりにその呼び名を聞いた。
「巫女様の母親が死んだらしい」
町行く人の話を耳が拾った。あっという間に、駆ける人々に流されて海に張り出した崖へと体が向かっていた。
向かう先からは、何やら叫び声がいくつも聞こえた。覆いかぶさるように太い怒鳴り声。人々のざわめきを一蹴するほどの金切り声もあった。
人の体に押されながら近づいて行くと、叫んでいたのは聞いたことのある声だった。
そこには大きな人垣ができていた。つま先立ちで騒動の中心をなんとか捉えると、やはり彼女がいた。
金色の髪を地面に擦らせて何かを叫んでいる。感情的なその声からは何を言っているのか分からなかった。
「何を言っているのか」を知ろうと耳を傾けていると、周りの声が先に届いた。ああ、そうだ。彼らは知らない。彼女が本当は声を持っているのだということを。本当になにも欠けずに生まれ落ちたのだということを。
状況を理解しようと、もう一度人垣と崖とに挟まれた人物を注視する。地面に這いつくばっている金髪の少女。その髪を引っ張ってヒステリックに声をあげる綺麗な白髪の老婦人。少女に掴まれた足首を何とかして解放しようと、その小さな体を痛めつける大柄な男。
一番最初に理解できたのは老婦人の言葉だった。なんで黙っていたんだ、お前のせいで、汚らわしい、一族の恥だ。そんなことを言っていた。
大柄の男は周りの目が恐ろしいのか弁解するように少女を怒鳴りつけていた。お前がいない間の面倒は全て見てやっていただろう、家族でもない人間の死体をどうして俺の土地に埋めなきゃならない、お前が払っていたのは当然の対価だ。
吐き気がした。彼女を直接痛めつけている彼らには当然だが、一定の距離を置いて人垣を保っている多くの人たちに。強く下唇を噛んで耐えていると、口の中で血の味がした。ああ、でもやっぱりダメだ、と今にも周りの連中を押しのけて人垣を崩そうかとした瞬間だった。悲痛な言葉の意味を脳が理解した。
「か、ぁ……さんっ」
彼女はただその一言だけをずっと繰り返していたのだ。どんな言葉を浴びせられようとも、どんなに体を痛めつけられようとも。母さん、とただその人だけを呼んでいた。
舞の途中だったのか、美しい装飾を施された衣装は既に砂と水で汚れ、化粧をしていたのだろう顔はぐちゃぐちゃに彩が飛び散っている。
「ああもう! いい加減にしてくれ!」
男が急に人垣の奥を睨みつけた。つられて振り返ると大きな棺を抱えた男たちがおどおどしながら人垣を割った。恐らく下男であろう彼らが崖の縁まで棺を運ぶと、男は力強く腕を振り下ろした。
それを合図に彼らが棺を一斉に押した。ズルズルと地面を擦ってあっという間に半分が崖から突き出た。
棺に腕を伸ばして空を割らんばかりの声で叫ぶ少女はあまりに痛々しく、老婦人にいともたやすく取り押さえられている姿は弱々しいものだった。
ギ、と小さな抵抗の音がしたあとで棺は視界から消えた。すぐに水面にぶつかる音が聞こえてざわめきだっていた人々から言葉が消えた。
その音に一瞬遅れて彼女が駆けだした。祖母の拘束を解いて崖の縁に膝をつくと、下を覗き込み、民衆を振り返る。止めどなく頬を流れ落ちる涙が陽に照らされて鈍く光った。
その涙に、その場にいた誰もが縫い留められたように動けなかった。そんな群衆どもを見下すように彼女は海へと向き直り、立ち上がった。確かな意志を持った一歩を踏み出そうとしていた。
気付いた時には、少女の手首を掴んでいた。いつの間に周りの奴らを押し退けたんだろう。
汚れたままの美しい衣装を身にまとった彼女は驚きながらも、俺を認識すると微笑みをくれた。
「……あの時、好きだって言ってくれて、本当に嬉しかったよ」
そして掠れた声で一節を歌った。聞いたことのない言語で、聞いたことのないメロディーだった。しかし、なぜか妙に懐かしさがこみあげて来た。
歌い終わると彼女は手首を軽く振って俺の手のひらを遠ざけた。
そして、俺の目を見ながら後ろ向きに崖から飛び出したのだった。