冷遇妻だけど、夫に愛されていたようです。知るか。
勢いで書きました
レリアの母は、キヴェル王国の王女だった。
長くつややかな栗色の髪に春の野辺に咲くスミレのような淡い紫色の目を持つ絶世の美女として有名で、国王は娘を離宮に閉じ込めて蝶よ花よと可愛がって育てさせた。
国王は美しくて世間知らずな王女をとっておきの切り札にして、政略結婚の駒にするつもりなのだろう――そんなことは、誰もが知っていた。
そしてきっと母も、自分がなぜこれほどまで大切にされているのかの理由が分かっていたのだろう。
そうして国王が王女の結婚相手に選んだのは、大富豪の男性だった。年齢は、五十歳。
これから王家に莫大な資金を提供するという約束のもと、王女は自分の父よりも年上の男のもとに嫁がされることになった。
だがある日、王女は昼間に堂々と誘拐された。誘拐したのは、一般市民の青年だった。
彼は王女を森の奥にある自宅に連れて帰って真心を尽くして接し、美しいだけの人形状態だった彼女の心をゆっくり解きほぐした。それまではお上品に笑うことしか知らなかった王女は大きく口を開けて笑うことを知り、川遊びをする楽しさを知り、自分が育てた野菜のおいしさを知った。
小さな家で一緒に暮らすうちに、王女と青年は穏やかな愛情を育むようになった。やがて生まれた娘と三人で、静かに穏やかな日々を過ごした。
だが、ついに国王の手先が娘の居場所を突き止めた。
青年は殺され、王女と娘は城に連れ戻された。国王は今度こそ娘をどこかの権力者に嫁がせるつもりだったようだが、愛する人を殺された王女は泣き暮らし、やがてひっそりと息を引き取ってしまった。
残されたのは――王家の血筋ではあるが野育ちで、しかも見た目は父親似の娘。両親を喪って泣き叫び祖父の顔にも容赦なく拳を繰り出すようなお転婆娘に、国王はほとほと呆れた。
だが、年月を掛けて教育し直せばなんとか様にはなるだろう。そうなったら、娘の代わりにどこかに嫁がせよう……そう思っていたが、間もなく彼は息子によって王位を追われた。
両親を喪った娘――レリアに、新国王となった伯父は言った。
『おまえは、王家の血を継ぐ。妹の娘であるおまえを、解放することはできない。私は、おまえを利用する。だが、代わりに不自由ない生活は保障する』
当時十歳そこそこだったレリアは、なんてひどい伯父だ、これではあの国王と大差ないではないか、と反発して、近くにあった本を掴んで伯父の顔にぶん投げたりした。
伯父はレリアを離宮――かつて母が閉じ込められていた場所だ――に入れたが、ある程度の自由は与えてくれた。
父親の形見であるネックレスや母が着ていた質素なワンピースなどを抱きしめて寝ることなどを許されたし、庭を歩いたり馬に乗ったりすることもできた。勉強もさせられたし辛いこともあったが、かつての母のような雁字搦めの生活を送ることはなかった。
最初の頃は、両親が恋しくて泣くこともあった。お父さんを返して、お母さんを連れて行かないで、と泣きわめき、使用人たちを困らせた。
だがほどよく放置されたおかげで少しずつ、少しずつ心の傷は癒え、ある程度の年になると画家に頼んで描いてもらった両親の絵に毎日挨拶して、「私は負けません。頑張ります」と己を叱咤できるようになった。
かくしてレリアは、国王の姪でありながらそれなりに自由に育ち――十八歳の時に、結婚を打診された。
レリアは母のような美貌は持っていないし相変わらずどこかがさつな姫だったが、腐っても王家の娘。そんな彼女を妻に望む者はわりと多く、その中から伯父が選んだのはレリアの遠い親戚に当たる公爵だった。
ライランズ公爵である、アウグスト。黒髪に茶色の目を持つ麗しい青年で、以前夜会で見かけた際にレリアに一目惚れしたらしく、熱心に結婚を申し込んできているという。
濃い茶色の髪に黒い目を持つレリアは、美しい母には全く似ていなかった。両親はレリアのことを可愛い可愛いと褒めてくれたが、自分の顔が社交界で映えるものではないことには、早い段階で気づいた。
伯父は特に何も言わないが、既に隠居の身になった祖父からは「もう少しあやつに似てほしかった」とぼやかれたこともあるし、社交界でクスクス笑われたこともある。
だから……アウグストに見初められて驚いたが、純粋に嬉しかった。
きっと彼なら両親と同じく、レリアのことをとても大切にしてくれる。もう愛する両親はいないが、その分アウグストに幸せにしてもらい、自分もまたアウグストに尽くそうと思った。
……だが、婚約者となったレリアにアウグストは冷たかった。
伯父の前で必死になってレリアとの結婚を願い出たそうなのに、レリアの前での彼はいつもむっつりとしており、笑顔の欠片も見せてくれない。何か話しかけても嫌そうに目を細め、顔を背けるばかり。
(……もしかしたら、本当に私と結婚できるとは思っていなくて、驚かれているのかもしれないわね……)
きっとそうだろう、と自分を納得させていたレリアは二十歳になった年に、アウグストと結婚した。
ライランズ公爵家の使用人たちは皆優しくて、初夜に臨むレリアを励ましてくれた。
「旦那様はきっと、奥様をとても大切にしてくださいますよ」
「奥様は笑顔がお可愛らしいので、微笑んで差し上げてくださいね」
「え、ええ。ありがとう、皆」
可愛らしい寝間着に着替えて化粧もしたレリアは、皆に声を掛けてもらえてほっとした。
レリアは、両親のような夫婦になりたい。始まりはどうであれ、両親の間には確かな愛情があった。互いを慈しみ尊重して助け合える、愛する両親のような関係をアウグストと築きたい。
……と思ったのだが。
「あの……旦那様?」
「……」
「夜のおつとめは、なさらないのですか?」
「私はあなたにそういうことをさせるつもりはない。早く寝ろ」
レリアが寝室に入ったとき、夫であるアウグストは既にベッドに寝てこちらに背を向けていた。
(……あ、あれ? 何もしないの?)
レリアは深窓の令嬢ではないので、結婚した夫婦が何をするのかとか子どもをどうやって作るのかとか、そういうことは普通に知っていた。さすがに口にするのは少々気恥ずかしいが、全くの無知ではない。
だから、明日は起きられなくなるかも……と不安のような期待のような気持ちがない交ぜになった状態だったのに、毒気を抜かれてしまった。
(……ま、まあ、そうよね。今日はいろいろあってお互い疲れたし、すぐにアレコレしないといけないわけでもないものね!)
少女時代前半を田舎でのびのびと暮らし、後半も離宮でわりと自由に過ごしたからか、レリアは図太くてさっぱりした性格だった。
だから、まあアウグストともいずれ夫婦としていろいろできればいいな、という楽天的な気持ちでベッドに入った。
……だが。
何日、何ヶ月経ってもアウグストはレリアに触れないどころか、やがて顔すらまともに合わせてくれないようになったのだった。
(……結婚してもう、半年ね)
公爵邸の窓から庭を眺めていたレリアは、ぼんやりと思った。
レリアがライランズ公爵夫人となって、半年。いまだにアウグストと触れあったことがないだけでなく、ここ数日は会話すらしていなかった。
決して、レリアが夫を避けているわけではない。むしろレリアは積極的にアウグストに声を掛けて、自分にできることを探そうとした。
だがアウグストは、レリアに何も求めなかった。むしろ、レリアが何かをすれば怖い顔で止めてくるし、使用人たちとおしゃべりをしていたら「公爵夫人として、使用人と近すぎるのはよくない」と説教をしてきたりする。
(……私、何のために結婚しているのかな?)
うーん、とレリアは首をひねる。
(この前は、勇気を出して夜のお誘いをしたのに怖い顔で断られたし……ということは、跡継ぎがほしいわけでもないのかな……?)
王家の血は、貴重だ。王家の娘が子を産んだというだけで、ライランズ公爵家の株は爆上がりする。
だがいまだに彼はレリアを求めないどころか、レリアがそれとなく誘っても「はしたないことをするな」と叱るだけだった。
(……さては、釣った魚には餌をやらないタイプとか? 昔隣に住んでいたおばさんが、そういう男もいるんだって言ってた……!)
レリアの父はむしろ母と結ばれてからいっそう溺愛するようになったと聞いていたから、おばさんが言うようなろくでなしが本当にいるものかと疑っていた。
だが、もしかするとアウグストは国王の姪を手に入れただけで満足して、レリアにはお飾りの妻としての立場だけを与えるつもりなのかもしれない。
事実、パーティーなどにはレリアもアウグストの妻として一緒に参加していた。皆の前でのアウグストはまさに完璧無欠な公爵閣下という立ち居振る舞いで、「お似合いの夫婦ですね」とよく言われた。
(お似合い……なのかなぁ?)
アウグストは皆からの評判がいいようだが、レリアには愛の言葉の一つすら囁いたことがない。きれいなドレスを着ても、化粧をしても、彼は凜々しい眉をぎゅっと寄せて顔を背けるだけだった。
では、せめて他の点で役に立てれば……と思って「慈善活動をしたい」などと公爵夫人ならやってもおかしくないだろう活動を提案しても、「そんなのはあなたのやるべき仕事ではない」と言われた。
どうしろと言うのだ。
(虚しいなぁ)
今、レリアの濃い茶色の髪には美しい髪飾りが挿されている。アウグストからの贈り物であるそれを身につけて今朝、夫を見送ったのだが、彼はちらっと髪飾りを見はしたが何も言わず出勤してしまった。
「……あっ! 奥様だ。奥様ー!」
ぼんやりとしていたレリアは、下の方から声が聞こえてきたため窓から身を乗り出した。
ここからは屋敷の庭園を見下ろせるのだが、こちらを見上げて大きく手を振る青年の姿があった。
「こんにちは、奥様!」
「こんにちは、ティム。今日も元気ね」
「はいっ! 奥様の素敵な姿を見られたので、いっそう元気でいられそうです!」
レリアの声かけにそう応えたのは、公爵家の私兵であるティムだった。
日の光を浴びてきらきら輝く金髪は少しツンツンしており、くるくるよく動く大きな目は青空の色。今年十八歳になったという彼は、レリアのことを慕ってくれる可愛らしい青年だ。
ぶんぶん手を振るティムの姿を見ていると、少しだけレリアの気持ちも浮上する。だから控えめに手を振ると、何かに気づいたらしいティムが「あっ!」と声を上げた。
「奥様、新しい髪飾りですね!」
「え? ええ、夫が贈ってくれたの」
「そうですか! 奥様にぴったりですよ!」
ティムの、何気ない一言に。
ふわり、とレリアの胸が温かくなった。
夫は、新しい髪飾りを着けたレリアに何も言わなかった。だがティムはすぐに気づき、「ぴったりです」と褒めてくれた。
(素直で、可愛い子ね)
「ありがとう。……ああ、ほら、向こうから隊長が来ているわよ?」
「おわっ、本当だ! では俺はここで!」
仕事中に奥様と話しているとばれたら、大目玉を食らう。ティムはにこやかに笑うとお辞儀をして、去って行った。
(女性の衣装の変化にすぐに気づいて褒めるなんて……ティムはとてもモテそうね)
黄色い頭がぴょこぴょこ揺れながら去って行くのを、レリアは微笑ましく見つめていた。
「息災だろうか、レリア」
「……おかげさまで、公爵邸で何不自由なく過ごさせていただいております」
レリアは、特に感情を込めることなく言った。
今日、レリアは伯父に呼ばれて久々に王城に帰ってきていた。といってもレリアにとっての実家は亡き両親と一緒に過ごしたあの小さな家なので、ここが実家だという認識は一切ない。
公務の合間に姪と茶を飲む時間を設けた伯父はティーカップを置き、レリアを見てきた。なるほど、絶世の美女と言われた母と血のつながりを感じさせる美しい中年男性だ。
「心地よく過ごせているのならば、よい。……あとは、子が生まれればますます喜ばしいな」
国王の言葉に、ぴくりとレリアの指先が震えた。
だが彼はその反応を別の方向で解釈したようで、軽く手を振った。
「いや、何も急かすつもりではない。だがおまえたちは仲睦まじいようだし、そう遠くない未来の話になるだろうからな」
(……仲睦まじい?)
「……私と公爵閣下のことは、どなたからお聞きになったのですか?」
「アウグスト・ライランズ本人からだが?」
国王が即答したため、石を飲み込んだかのようにレリアの胃が重くなった。
(……ああ、そう。あの人は、国王陛下をも欺いているのね)
まさか、自邸では妻を抱かないどころか目すら合わせない、話もしない、口を開けば説教ばかり、なんて、伯父は欠片も思っていないのだろう。
(ここで真実を言えば、どうなるかな?)
ふと思ったが、それが賭けであるのはレリアだって分かっている。
いまいちこの伯父も、信用ならない相手だ。レリアが暴露したとして、「ならば離縁して帰ってこい」と「それはおまえの努力不足だ」と言われる確率は、それぞれ半々くらいだろう。
(でも、国王陛下としても姪に離婚歴は付けたくないはず。だとしたら……色仕掛けをしてでも公爵を落とせ、と言われそうね……)
最初はレリア本人も望んでアウグストのもとに嫁いだのだし、伯父はレリアの存在を持て余している。たとえアウグストに非があったとしても、「出戻り姫」なんてお荷物にしかならないだろう。
(……暴力を受けたりご飯を抜かれたりしないだけ、いいと割り切るべきかな)
そう思い、レリアは苦い茶を飲んだ。
アウグストはレリアに何も求めないが、だからといってレリアは毎日暇にしているわけではない。
夫不在中は女主人として使用人たちに指示を出すし、貴婦人たちからティーパーティーに招かれたらそれに赴く。貴族の中には「元王女が卑しい男に生まされた娘」としてレリアを馬鹿にしてくる者もいるが、悠然と笑ってやる。
アウグストは社交界の人気者だったようで、「どうしてアウグスト様のような方が、あんなみすぼらしい女を」と噂されることもあった。レリアが微妙な立場であるためか礼儀を払わず、「せめて王女殿下の美貌を受け継いでいれば」「もう少し明るい髪の色をしていれば」と見目を馬鹿にされることもあった。
だが、夫に何を言っても意味がないというのは、もう分かっていた。
レリアが会話しようとしても顔を背けられ、何か行動を起こそうと相談しても「余計なことはするな」と叱られる。もちろん、体に触れてもらったこともない。
(……私は、お飾りの妻。餌を与えられることを望んではいけない)
「……でも、くじけない。私、頑張って生きるよ、お父さん、お母さん」
こっそり持ってきていた両親の絵に、レリアは誓った。
ある日、レリアは両親の絵を飾るための額縁を探していた。
絵は両手で収まる程度の大きさだが、これまでこっそり心の慰めにしていたこともありそろそろくたびれてきている。せめて、額縁などに入れてあげたい。
そう思ってアウグストに「絵を入れるための額縁がほしい」と言ったのだが、「勝手にしろ」と突き放された。お許しをもらえたのだから勝手に商人を屋敷に呼び、小さいながら素敵な額縁を購入した。
「……あっ、奥様。ごきげんようです!」
「ごきげんよう。ティム、休憩時間かしら?」
「ええ! ちょっとぶらぶらしようと思って……あれ? それ、絵ですか?」
庭のベンチに座って両親の絵を眺めていると、ティムがやってきた。彼がのぞき込んできたので微笑み、絵を見せてやる。
「ええ、両親の絵よ」
「そうですか! ……あ、ええと、俺が見ていいんですか?」
「別にいいわよ」
「ありがとうございます。……わぁ、仲のよさそうな素敵なご夫婦ですね!」
額縁をのぞき込んだティムは、嬉しそうに言う。
麗しい王女をかっさらって孕ませた父のことを悪く言う者は、王城にたくさんいた。だが使用人たちはレリアのことを思いそっとしてくれるし、ティムは純粋に褒めてくれる。
それが嬉しくて、レリアの笑みが深くなった。
「ありがとう。両親は、私の理想の夫婦なの」
「そうなんですね。奥様ならきっと……あ、いえ……」
言葉の途中で、ティムは黙ってしまった。
アウグストとレリアの夫婦仲がアレであることを、公爵家の使用人たちは知っている。使用人の中には「さすがに旦那様に申し上げます」と言ってくれた者もいるのだが――その者たちはしばらくすると、屋敷から姿を消した。メイド長は、「実家の都合らしいです」と言っていたが、その顔はどこかこわばっていた。
だからレリアは、アウグストに何も言わなくていいと皆に告げていた。あの男は……たとえ正当な指摘だとしても、自分のやり方に物申す者を容赦なく切り捨てるのだと、分かったから。
社交界では皆から羨望のまなざしを受けている夫が――実際は妻を冷遇して使用人を不当に解雇する暴君だったなんて言っても、誰が信じるだろうか。
「気にしないで。……さあ、そろそろ行った方がいいわ」
「……」
「……ティム?」
「……公爵閣下は、ひどい人です」
ざわり、と吹いた風が、レリアとティムの間を通っていく。
いつも陽気なティムが今は目つきを険しくして、唇をかみしめてレリアを見ている。
「奥様に、こんな……こんな仕打ちをするくらいだったら、結婚なんてしなければよかったのに……!」
「……おやめなさい、ティム」
「だって! 奥様が幸せな結婚生活を送れていないのは、皆気づいて……」
「お黙り!」
レリアの叱責に、ティムははっとしたようだ。
(ティムの気持ちは分かるし、私のことで怒ってくれるのも……すごく、嬉しい)
だが、彼がこんなことを言ったとアウグストにばれたら、間違いなくティムは罰を受ける。彼は地方都市出身で、公爵家の私兵だと家族へたくさん仕送りができるのでこの仕事が好きなのだ、と言っていたではないか。
ティムを帰らせてから、レリアは額縁を抱いて顔を上げた。
(……そろそろ、私から行動を起こさないといけない)
レリアがいても、何の役にも立たない。
それどころか、レリアのことを思ってくれる使用人たちを解雇させる羽目にもなりかねない。
今日、アウグストが帰宅したら話をしよう。
「旦那様、お話ししたいことがございます」
帰宅したアウグストにそう切り出すと、美貌の夫はすっと眉根を寄せた。
「……話?」
「はい。私たちの今後についてお話がしたくて」
「……私は特に、あなたと話すことは何もない」
(……はー!? あなたにあるんじゃなくて、私にあるんだと言っているでしょう!)
カチンとくるが怒りは抑え込み、レリアはゆったりと笑った。
「私が、旦那様に申し上げたいことがあるのです。お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「……手短にしてくれ」
断られる確率は七十パーセントくらいだろう、と思っていたが、アウグストは渋々ながら承諾してくれた。
善は急げということで、レリアはアウグストと一緒にリビングに移動し、使用人たちには茶を淹れた後で退室するよう言った。
それにも、アウグストは怪訝そうな目を向けてきた。
「……使用人たちの前では話せないようなことなのか」
「ええ、ひとまずは」
「……。……要件は、何だ」
「離縁しましょう」
レリアが単刀直入に言うと、ティーカップをつまもうとしていたアウグストの動きが止まった。
レリアを見るときに眉間に皺が寄っているのはもはやデフォルトだったが、今の彼はこれまでにないほど険しい顔をしていた。
「……何と言った?」
「離縁しましょう、と申しました」
「……。……なぜそうなる?」
「私たちがこのまま夫婦でいることの利点が、一切見当たらないからです」
レリアは夫のにらみに屈することなく、はっきりと言った。
アウグストは、「妻を愛するよい夫」として社交界で評価されてウハウハなのかもしれない。おまけに国王もだまして信頼を勝ち取っているので、このままレリアを手元に置いておきたがるだろう。
だが、レリアはそうではない。
自分にとってメリットのない結婚なんて続ける必要がないと思ったし……両親のいないレリアには、人質になるような存在もいなかった。
(結婚して、もうすぐ一年。もう、自由になってもいいよね)
レリアの言葉に、「利点?」とアウグストは心底不思議そうな顔になった。
「あなたは、ライランズ公爵夫人として何不自由ない生活ができているだろう」
「不自由はありませんが、全く満足できておりません。何もしない……させてもらえない私では、公爵家の財産を無駄に食い潰すだけで領民に還元することもできません。あなたは名誉を得るためだけに私に求婚したのでしょうが、そんなの迷惑――」
「今、何と言った」
いきなりドスのきいた声を出されて、レリアはビクッとした。
それまでは怪訝そうな顔をしつつも落ち着いていたアウグストが、怒っている。明らかに怒っている。
ここまで明らかな怒気を放たれたのは初めてで、レリアもまごついてしまった。
「え、ええ……ですから、あなたは名誉のために、美しくもない私を娶ったのではないのですか?」
「……」
アウグストは、何も言わない。
だがいきなり立ち上がると、大股でリビングを出て行ってしまった。
(……。……えーー!? なんでいなくなるの!?)
レリアは慌てて夫の後を追ったが、レリアより足が長くて歩く速度も速いアウグストの姿は既に、廊下にはなかった。
結局昨日の話し合いは、途中でアウグストが失踪したことで終わってしまった。
(夜になっても帰ってこなかったし……)
使用人たちに聞いても、「分かりません」と本当に分からない顔で言われるだけだった。
そして今日、アウグストは仕事が休みなのだが代わりにレリアは侯爵夫人が主催する音楽会に行かなければならなくて、彼を探す余裕もなかった。
そうして、夕方になって屋敷に帰ってきたレリアは――
「……あ、あれ?」
(額縁が、ない……?)
自室のデスクに置いていたはずの両親の絵がなくなっていることに気づき、真っ青になった。毎朝毎晩両親に挨拶をするのが日課で、額縁を買ってデスクに立てかけられるようになってからはよく見えるように置いていたのだが。
そこでレリアはメイド長に、いつも自分の部屋の掃除をするメイドを呼ばせたのだが。
(……明らかに何か知ってる顔ね)
部屋に来たときのメイドは真っ青になって震えており、尋ねるのがかわいそうなくらいだった。レリアが「ここにあった小さな額縁を知らない?」となるべく優しく問うても、最初はぷるぷる震えるだけだった。
だが何度も尋ねると、やがて彼女は口を開いた。
「……お、お渡ししました……」
「誰に?」
「旦那様に……。それを寄こせ、と言われたので……」
まさかのアウグストである。
(何のつもりなの、あの人は!?)
怒りと焦りで頭の中が大混乱のレリアは、アウグストが私兵団の詰め所にいると聞いてそちらに足を進めた。使用人には、「奥様が行かれるような場所ではありません」と言われたが、止まらない。
「旦那様! 絵を――」
バァン、とドアを叩き開けると、詰め所の入り口付近にいたアウグストが驚いた顔で振り返った。彼の足下には――うつ伏せになって倒れる、金髪の青年が。
その有様から、青年――ティムがアウグストの持っている杖で殴られ靴で蹴られたことがわかり、頭にカッと血が上った。
「っ……ティム!?」
「下がりなさい、レリア」
「あ、あなたまさか、ティムを――」
思わず駆け寄ろうとしたらアウグストに止められたため、レリアは夫をにらんだ。
「どうしてこんなことを!? ああ、大丈夫なの、ティム――」
「その男は、あなたを誑かそうとした。先ほど解雇を命じたから、もううちの私兵ではない」
アウグストが冷静に言ったため、レリアは自分の腕を掴む男を驚いて見つめた。
(誑かす……? 解雇……!?)
「ど、どういうことですか!?」
「……あなたにあらぬことを吹き込んだのは、この男だろう? 前々からあなたに馴れ馴れしく接している無礼な私兵がいるとは聞いていたが、まさかここまでとは」
「意味分からない! 何が言いたいのよ!」
ついに丁寧な言葉遣いも態度もかなぐり捨てて怒鳴ると、アウグストは少しだけ目を丸くした後に、倒れ伏すティムを冷めた目で見た。
「……私が名誉のためにあなたを娶ったと吹聴したのは、この男だろう?」
「えっ、違うし」
「……何? ではなぜ、あなたは昨日、あんなことを――」
「……一年間、触れもしないし会話もしない、何か言っても顔をしかめるだけなのだから、そう思って当然でしょう!?」
そう吐き捨てるとレリアは全力で夫の腕を払い、小さくうめくティムの前にしゃがんだ。
「ティム、しっかりして! ……ごめんなさい、私のせいであなたをこんな目に――」
「ううぅ……あ、あれ、奥様?」
「ええ、私よ!」
「……すみません、俺、とんでもないことを――」
「……レリア。その男は、あなたが悲しそうな顔をするのは私のせいだから早くレリアを解放しろ、と言ってきた無礼者だ。恩情を掛ける必要はない」
アウグストが言ったため、レリアはきっと振り返って夫をにらみ上げた
「ええ、ええ、そうじゃないの! 私が悲しそうな顔をするとしたらそれは間違いなく、あなたのせいでしょう!?」
「……な、なぜだ?」
「えっ、分からないの?」
ここまで言えばアウグストも反省するだろうと思いきや、本気で分かっていないようで戸惑っている。
(……えっ? だって私は一年近く経っても、この人に愛されることはなくて……ということは、私は最初から求められていなかったんじゃないの……?)
「……私、あなたのお飾りの妻でしょう?」
「まさか!」
「……ろくに話もしない、顔も合わせない、そして私のしたいことを全部否定して阻止してくるくせに?」
「それは……」
レリアの指摘にアウグストは口ごもった後に、顔を背けた。よく見ると……その頬や耳が、真っ赤に染まっている。
「……緊張、して」
「……何?」
「あなたを前にすると……すごく、緊張して。うまく話せないが、せめて大切にはしようと思って接してきた」
「…………どこが?」
「ど、どこがって、それは……あなたが労働しなくていいようにして、屋敷で自由にさせて……こ、子どものこともまだ先でいいから、まずは公爵夫人としての生活に慣れてもらおうと……」
「……」
(え、ごめん。ちょっと意味が分からないんだけど?)
大混乱中のレリアの横で、もぞもぞとティムが動いた。少しは痛みもましになったらしい彼は顔を上げると、大きな目を瞬かせた。
「……えぇと。それってつまり……公爵閣下は、本当は奥様のことがすごーく好きだったってことですか?」
「黙れ。元私兵ごときが私に物申すな」
「そういうの、やめてくれる? ……それじゃあ、私から聞くわ。あなたは本当は私のことが好きだったけれど、照れて恥ずかしかったから素っ気なくしていただけということなの?」
レリアが問うと、ティムに対しては横柄だったアウグストはこちらを見るともじもじとうなずいた。
「そ、そうだ。二年ほど前の夜会であなたを見てから、ずっと心惹かれていて……妻にしたら一生大切にしようと思っていた」
「…………」
レリアは、思った。
この、照れてもじもじするクソ旦那を、ぶっ飛ばしてやりたいと。
つまるところ、アウグストは最初からレリアに恋愛感情を抱いていたが、彼は照れ屋で不器用なのでうまく愛情を言葉や態度にできなかっただけだという。
国王に対する報告も……彼本人はレリアとうまくやっていると思っているのだから、嘘をついている自覚はなかったのだ。
わなわな震えるレリアとあっけにとられた様子のティムを見てどう思ったのか、なぜかすっきりした顔のアウグストは咳払いをすると、レリアに向かって手を差し出してきた。
「……思っていることは言わないければ、伝わらないのだな。そのことを教えてくれてありがとう、レリア。これからよろしく」
「え、無理。ちょっとこっち来ないで」
「……何?」
差し出された手から逃げるように後退して、レリアは正直に言った。
「つまりあなたは、これまで私に対して冷たかったのは照れちゃっていたからですって言いたいのね?」
「まあ……そういうことだな」
「いや、そんなすっきりした顔で言わないでくれる? それで今さらよりを戻そうとか、無理よ、無理。もう私からあなたへの好感度は地の底に埋まっているから」
「…………何だって?」
どうやら彼は、レリアが自分の気持ちを受け止めてくれると思い込んでいるようだ。
だが、ここで「あらそうなの、それじゃあ改めてこれからよろしく」と言えるほどレリアはのんきではないし――そもそも、アウグストに対する恋情どころか敬愛の気持ちすら一滴たりと残っていなかった。
「あ、あなたも望んで私の妻になってくれたのではないのか?」
「ええ、一年前はね。でも一年間もあなたに無視されてきて、さすがに愛想も尽きたわ。だから離縁したいの」
「だから、これまではうまく言葉にできなかっただけで……」
「だから、そういうの無理なの。不器用だか照れ屋だか知らないけれど、一度無理だと思ったらもう無理」
「しかし……」
「じゃあ、こうする?」
なおも食い下がろうとするしつこい男をにらみ、レリアは人差し指を立てた。
「これまでのことを全て、国王陛下や重鎮たちに報告する。離縁するかどうかは、彼らの反応を見て決めるというのは?」
「ああ、それなら構わない」
明らかにほっとした様子のこの男は、「国王たちも自分の気持ちが分かってくれるはず」と信じて疑っていないようだ。
(……あほらしい)
つばを吐きたい気持ちをこらえていると、床に座っていたティムが「そういえば」とつぶやいた。
「奥様、ここに来たときに何か言われていませんでしたか?」
「……あ、ああ、そうだわ。絵よ、絵!」
ティムに言われて思い出したレリアは、ずいっとアウグストに詰め寄った。妻が近づいてきたからかアウグストは少し嬉しそうな顔をするが、鬱陶しいだけなのでやめてほしい。
「私の両親の絵、返してくれる?」
「絵? ……ああ、あれなら捨てた」
「………………はい?」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
だがアウグストはなぜレリアが愕然としているのか分からないようで、首をひねっている。
「そもそも私は、あの絵をあなたとそこにいる元私兵が一緒に見ていると聞いたことで、あなたたちの関係を疑ったのだ。だから、余計な火種になりかねないものは捨てておいた」
「……。……あれ、私の両親の絵なのよ?」
「そうだったのか? あまりに汚いから、古い落書きだと思っていた。だが元王女殿下の絵なら、いくらでも王城にあるだろう。代わりのものを――ぐっ!?」
アウグストの声は、そこで止まった。
レリアが振り上げた拳がアウグストの胸に決まり、そこまでがっしりしていない彼がよろめいたからだ。
どさっと床に倒れ込んだ夫の腹に、レリアのブーツが乗っかる。彼女の手には、先ほどまでアウグストが持っていた杖が。
「……」
「レ、レリア? どうした、可愛い顔が……」
「このっ…………クソ野郎がぁぁぁぁぁぁ!」
夕暮れ時の公爵邸に、公爵夫人が夫を殴る鈍い音と公爵の悲鳴が響いていった。
なお、例の絵は焼却処分される直前に使用人が拾い上げており、周りが少し焼け焦げていたが両親の姿自体は無事だった。
絵を取り戻した安堵で泣き崩れるレリアを使用人たちは優しく受け止めてくれたし、満身創痍のティムもきちんとした手当を受けられた。
一方、私兵団の詰め所で伸びていた公爵を進んで助け出す者は、誰もいなかったという。
翌日、レリアは顔面ボコボコの夫を引きずって王城に行き、伯父をはじめとした王族や重鎮たちを前に、この一年間の結婚生活についての真実を報告した。
最初は怪訝そうな顔だった伯父たちだが、レリアの報告を聞くに連れて驚愕のまなざしになっていった。
そして、レリアの隣にいる公爵に事の真偽を尋ねたところ、「そうですが、私は悪くはありませんよね?」と言わんばかりの態度だったため、皆あきれかえってしまった。
その場で、レリアとアウグストの離縁が許可された。アウグストは「なぜだ!?」「私はこんなにも、あなたを愛しているのに!」とごねていたが、誰も彼に同意してくれなかった。
さしもの伯父も、公爵の本性を見抜けず姪を託してしまった己の失態を後悔して、レリアに謝ってきた。だがアウグストの外面だけは完璧でだまされていたのはレリアも同じなので、伯父一人が反省することではないと言っておいた。
かくしてレリアは自由の身になり、伯父たちの厚意で離宮に戻ることになったのだが――間もなく、アウグストが失脚した。
彼が王家の姫にどんなことをしてきたのかの噂は一瞬で広まったものの、「あのアウグスト様が……」と最初は信じられなかった。だが当の本人に反省の色が全くないことから、皆も真実が見えてきたようだ。
しかもライランズ公爵家の使用人たちも総ストライキを起こし、領民たちの間にも不信感が募り、アウグストは公爵としてやっていけなくなった。
そうして彼は最終的に自ら公爵位を降り、使節団という名目で外国に追いやられることになったのだった。
レリアはしばらく離宮で過ごしたが、やがて王領にある小さな屋敷を賜りそこで暮らすことになった。彼女の周りにいるのは、かつて離宮やライランズ公爵家で世話をしてくれた使用人や兵士たちだ。
その中にはもちろん、一度公爵家の私兵団から解雇されてアウグストから暴行を受けたティムの姿もあった。
「レリア様! 今日も手紙がたくさん届きました!」
「あら、ありがとう」
庭師たちと一緒に花の手入れをしていたレリアは顔を上げて、額を伝う汗を拭った。
たくさんの手紙を抱えて駆けてくるのは、今はレリアの従者になったティム。私兵団の制服も似合っていたが、今のパリッとしたお仕着せも彼にぴったりだった。前は髪を短くしていたのだが、今は伸ばして紐でくくっている姿もなかなか様になっている。
「あちこちの奥方が、レリア様をお招きしたがっているんですね」
「それもこれも、レリア様の人徳のたまものですよ!」
「ふふ、やめてちょうだい」
ティムや庭師に言われて、レリアは微笑んだ。
アウグストと離縁して、早くも一年。
二十二歳になったレリアは屋敷でのんびり過ごしつつ、パーティーなどにも顔を出す日々を送っていた。
レリアは伯父と、「王族としての最低限の仕事はする」という約束を交わした上で、のんびり生活を送っていた。王族女性というのはあちこちで引っ張りだこになるので、私生活に支障を来さない程度にはレリアも茶会などに参加するようにしていた。
庭師に後を任せて、レリアは手を洗ってからティムを伴って屋敷に入った。廊下を歩いていると使用人たちが、「おかえりなさいませ」「すぐに冷たいお飲み物を準備しますね」と笑顔で声を掛けてくれる。
「さて、今回はどれとどれに出席しようかしら……」
「さすがに全部に参加するわけにはいきませんからね」
リビングのソファに座ったレリアがつぶやくと、ティムもうなずいた。
「……あ、ここの令息、レリア様に求婚してきていますよね」
「ああ、そうね。何度お断りしても引かなくて……」
「……レリア様は、再婚のおつもりは?」
「ないわけではないわ。でも……ほら。私、社交界では一応お上品にしているけれど実際はがさつで乱暴だし、素性を知った相手の方がびっくりしてしまうかもしれないじゃない?」
「……まあ、それはそうですね」
ティムに微笑みかけ、レリアは彼が封を開けていく手紙を手に取った。
「だから、再婚するなら……そうね。私のそういうところを知っても笑って受け入れてくれる人がいいわ。それからもちろん、考えていることをきちんと口にしてくれる人ね」
「ああー、それはいろいろな意味で、最重要事項ですね!」
……おそらく今のレリアとティムの頭の中には、全く同じ男の顔が浮かんでいるだろう。
一年前に使節団員として隣国に向かってから音沙汰なしだが、少しは自分のことを客観的に見つめられるようになっただろうか。
そんなことを考えながら手紙を見ていると、ふいにティムが咳払いをした。
「ええと……つまりレリア様は、レリア様のことをよく分かっていてなおかつきちんと話をしてくれる男なら、再婚相手候補になさるのですね?」
「まあ、そうね」
「相手の年齢や、身分についてはいかがですか?」
「うーん……年齢の上限は私の年齢足す十歳まででお願いしたいわ。身分は……どうせ私は厳密には貴族でも何でもないし、私を大切にしてくれる人なら身分は問わないわ」
「そ、そうですか! それじゃあ……」
「……ティム?」
何かの予感を察したレリアは手紙を置き、ティムを見た。
忠実な従者は微笑むと――お仕着せの胸元に、手を入れた。
暖かな陽光降り注ぐリビングにて。
若い男の方が何かを言って小さなものを差し出し――年上の女の方が驚きの声を上げた後、嬉しそうに微笑んだ。
そんな二人の姿を、棚に飾られている絵に描かれた男女が、柔らかい笑顔で見守っていた。
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