90 魔女の旅立ち
小鳥の声がする。
朝が来たのだ。
可愛らしい囀りに混じって、時折鋭い鳴き声がするのはモスだ。朝の餌を探しているのだろう。泉で魚でも獲ろうとしているのかもしれない。
こんなに素晴らしい朝は初めてだ。
ザザは、片流れの屋根に一つだけ空いた明かり取りの窓を見上げた。
二十一年生きて、こんな朝を迎えたことがなかった。
目を横に向ければ、穏やかに満ち足りた顔で眠る愛しい人がいる。
古ぼけた小さな寝台で窮屈そうにしているその人は、ザザの夫で主なのだ。
暖炉の熾火も消えて空気は冷えているのに、その人と触れているところはとても温かく安心できた。
これが夫婦になるということなのね。
ザザは満足の吐息をついた。
昨夜はうろたえることばかりだった。
裸になって愛し合うということが、あんなに泣きたくなるような痛みと、それ以上の喜びをもたらす行為だと初めて知ったのだった。
ギディオンはおろおろするばかりのザザに、辛抱強くゆっくり愛を与えてくれた。何度も愛を囁き、頬を撫でて涙を吸ってくれた。
わたしはただ、しがみつくしかできなかったのに。
自分がちゃんと愛を返せたかどうか、ザザにはわからない。
しかし、ギディオンはそんなザザを、全部包み込みながら言ってくれたのだ。
『お前のおかげで人生を再び始めることができた。ありがとう。愛している』
「……すきです」
声にならない囁きが聞こえたか、男のまぶたがゆっくりと持ち上がる。
泉の青い目がザザを捉えた。
「……おはよう」
「おはようございます」
すいと腕が伸びて、少し短くなった黒髪を撫でた。
「体は大丈夫か? 痛いところは?」
「へいき、です」
「……そうか」
「あの……」
微笑むギディオンに、ザザは気になっていたことを尋ねる。
「なに?」
「えっと、そのぅ……ゆうべの……あの、ああいうことをすれば、赤ちゃんができるのですか?」
「そうだな」
ギディオンは大真面目に答えた。
「……もしわたしに赤ちゃんができてしまったら……」
「そうなればいいと思っている」
「でも……」
「でも?」
「もし女の子だったら、魔女になるかもしれません。可能性は低いですが……」
思いきって言ってから、ザザはギデの様子を見つめた。
「……でも、皆無ではありません」
「いいじゃないか。そのほうが面白い。きっと母親に似て素敵な魔女になるだろう」
ギディオンは愉快そうに言った。
「いいのですか!? 魔女ですよ!」
「その魔女を妻にしているんだが」
「……それはそうですが」
敷布に目線を落としたザザを、ギディオンがその大きな体で包み込む。
「ザザが教えてくれたんだ。魔女でも、騎士でも、王太子でも、王女でも、生きているものは皆、尊いということを。ましてや愛で結びついたものなら尚更だろう?」
「……」
「俺はザザを選んだし、ザザも俺を選んでくれた。だから、俺たちの子どもも、きっと尊い。世界で一番尊い」
「は……い」
「泣いているのか?」
ギディオンは、自分の胸に顔を埋めて丸まった魔女を覗き込んだ。
「なんだか急にへいきじゃなくなって……すみません」
「可愛いな、ザザは」
「頑張ってもっときれいにします」
「いや今のままでいい……けど、なんなら今ここで、もう一度子づくりするか?」
そう言った途端、ギディオンの腹がくぅと鳴った。
がばりとザザは起き上がる。
するりと腕を抜け出して、そばにかけてあった魔女の服を着る。あっという間の早技だ。
「すぐに朝ごはんの用意をいたします!」
そう言うとザザは、呆然としているギディオンの前から姿を消したのだった。
──半刻後。
旅支度を整えた二人は、森の家の前に立った。
「すんだか?」
結界を張るザザの背中を見ていたギディオンが声をかけた。そこにあった古屋はもうない。
「はい。これでまたこの家は普通の人には見えません。やってくるのは動物くらいです」
「やっぱりザザは魔女なんだな」
「はい。魔女です!」
ザザは嬉しそうに答えた。
これから、二人で旅に出る。
いつか出会う人、再び巡り合う人、二度と会えない人が世界にいるだろう。
希望も困難も、二人でいるから二倍味わえる。
「南だな」
「楽しみです!」
「じゃあ行こうか」
そう言うと、ギディオンはザザを黒馬に乗せた。待つ間もなく、すぐに背中に頼もしい温もりに支えられる。
梢の上で隼が先導するように鳴いた。
ザザは魔女だ。
その魔力は大して強くはない。けれど、主を愛し、少しだけ人を助けることができる。
そして、そうすることで繋がる世界の鍵を握っている。
扉は既に開かれているのだ。
***** お し ま い *****
これにて完結です。
弱虫魔女ザザの物語。
思いがけず長くなってしまいましたが、最後までお付きあい頂き、ありがとうございました!
本日中に活動報告で、改めてお礼と考察などを述べさせていただきます。
よければ一言でいいので「読んだよ」と言っていただけると、作者はとっても嬉しいです。