82 魔女と愛する人 2
数日後、市庁舎の地下室に安置されていたスーリカの亡骸は、街の北にある洞窟の中に埋葬された。
それはかつて、彼女がグレンディルを繭に閉じ込めて眠らせた場所だった。
ザザの頼みでギディオンは氷を深く掘り、その中に魔女を寝かせた。
弔いは一人で行いたいと、ザザはギディオン達に洞窟の外まで出てもらう。
「お別れです、スーリカ」
ザザは母の形見でもあるグレンディルの輝石、半分になったモルアツァイトをその手に握らせてやった。魔鉱石はスーリカの最後の魔力を吸って力を失い、ただの綺麗な石となり果てている。
愛する人のもとへ行けないなら、せめてこの石を一緒に。
主を愛するあまり、大きく道を踏み外してしまったスーリカの気持ちが、ザザにはほんの少しだけわかるのだ。
さようなら。
偉大なる魔女スーリカ。純粋過ぎた人。
あなたは、わたしを最後の魔女と呼んだ。きっとそうなのだろう。
わたしが多分、この世界の最後の魔女。人として、魔女として顔を上げて生きていかないといけない。
あなたとは別の出会い方をしていれば、もっと教わることがあったはずなのに……。
ザザは額を両手で押さえて魔女の弔意を示し、祈りを捧げてから、心配そうにこちらを見ているギディオンに向かって頷いた。
「……終わりました。この場所を永遠に閉ざしてしまいましょう」
魔女には墓はない。
冷たい青い水は、その懐深くにかつての大魔女を沈め、やがて再び凍りつくだろう。
それが永遠の墓標だった。
「ザザ、ここは冷える。街に戻ろう」
ギディオンは足元を見つめるザザに声をかけた。彼の大きく分厚い外套を着せてやっても、その背中はひどく小さい。しかし、この包帯だらけの娘が命がけで自分とこの街を救ったのだ。
「ありがとうございます。こんなことまで手伝っていただいて」
洞窟を出て、愛馬ハーレイに乗せてもらいながらザザが言った。
「いや、こんなことではないよ、ザザ」
ギディオンは自分の中にザザが収まったことを確認して、馬を緩く進めた。一刻もあれば街に戻れる。陽はまだ高い。曇った冬空の下をモスがまるで案内するように高く飛んでいた。
「……急いで戻らなくてもいいのですか?」
街道沿いの平原は柔らかく、常足の衝撃が少ないので、馬に慣れていないザザでも楽に話すことができる。傷にも響かない。
「大丈夫だ。道すがら少し話そう。街に戻ればまた忙しくなる。冷えるな。最初の雪からしばらく経つから明日あたりから本格的に降り出すぞ」
「大丈夫です。この外套とギディオンさまのおかげで」
ザザは、すっぽりとギディオンの大きくて分厚い軍用の外套の中に収まっている。今にも雪が降り出しそうな空も、ザザに取っては青空の下にるのと同じ事だった。
「そうか。俺も暖かい」
「……忙しくなるのですか?」
「なに。もうほとんど片付いたさ。今忙しいのはエーリンク市長と、守備隊長のホルバイン殿だ。ただ、明日には王都から王太子殿下が来られる」
ギディオンは面倒そうだったが、ザザは素直に驚いた。
「レストレイさまが?」
「ああ。今朝使者がきた。チャンドラとの条約の結び直しなどがあるだろうから、王都から誰かが遣わされるとは思っていたが、王太子自ら来られるとは俺も意外だった」
「また護衛を?」
「いや。王都から来られるんだから、ちゃんとした衛兵をつけているさ。もう俺は関係ない、休暇を貰いたいくらいだ」
「……」
いくらザザでも、きっとそうはならないことは予測できた。
レストレイは絶対にギディオンに絡んでくるだろう。彼は聡明な王子であるが、同時に喰えない人物でもあるのだ。
「だが、今はそんなことを話したいのじゃない」
「……はい」
わかっていた。ギディオンは、ザザの体と気持ちが回復するまで待っていてくれたのだ。
「さっき、こんなこと、とザザは言ったが、決してこんな事じゃない。あの魔女、スーリカは、俺の大伯父、つまり祖父の兄を主としていたんだな」
「そうです。グレンディルさまです」
「俺はほとんど名前も聞いたことがなかった。伯爵家の系譜など興味もなかったし。だが、あの魔女はザザをグレンディルの娘と呼んだ」
「……」
「それは本当か?」
「はい」
ザザはギディオンの胸の中で頷いた。
「最初から知っていたのか?」
「いいえ。知ったのはあの時、フェリア様が襲われて刺客の人の心層に潜った後です」
「覚えている。ザザは疲れ果てていたな。そうか、あの折に……」
「はい。あの時、スーリカの術に取り込まれそうになってもがいていたら、母の形見の輝石が私を助けてくれたような気がして。後になってから母の手帳を見ようとしたんです」
「ああ! あの開かずの手帳か!」
ギディオンは懐かしそうに言った。それはザザと出会った日に見たものだった。あの頃のギディオンはザザを疑い、ひどく冷たい態度だったのだ。
「あの時は、本当にすまなかった。突き飛ばしたりして、恥知らずな男だった」
ギディオンは切なそうに呟いて、片腕でザザを抱きしめた。
「いいえ。でもその時、開かなかった手帳が開いたのです。それは母の残した手記でした。これです」
ザザは小さな鞄から母の手帳を取り出した。
「俺が見ていいものなのか?」
「はい。私が説明するよりも伝わると思いますので」
「……」
ギディオンは、街道の傍の樹木の下に馬を止めてザザを下ろした。
「ちょうどいい。少し休憩しよう。茶と弁当があったろう?」
「はい。すぐお食べになりますか?」
ザザは敷物を広げながら尋ねた。
「先に食べていてくれ。俺はこの手帳を早く読みたい。だが、本当にいいか?」
「はい。ぜひ見ていただきたいです」
ザザは小さな手帳をギディオンに手渡した。上空の風は強いのか、雲が渦を巻いている。
「そうだったのか……」
しばらくしてギディオンは顔を上げた。ザザを見つめるその目には、不思議な色合いがあった。
「ギディオンさま」
「すまん。少し混乱している」
ギディオンは口元を覆って目を閉じた。ザザはその様子を息を詰めて見つめている。昨日も思ったが、彼の睫毛は濃くて長い。
「こんなことってあるんだな……」
やがて目を開けたギディオンは、つくづく感じ行った様子で言った。
「俺は……まだ少し混乱しているようだ」
「黙っていて申し訳ありません……私も、混乱していました。どう伝えたらいいのか、伝えてもいいものなのかもわからなかった……のです」
「そうか……そうだろうな」
ザザを抱きしめる腕に力が込められた。
「……つまり、ザザと俺の血は繋がっているんだな」
「そう……なるのですか? 私のお父さんがギディオンさまの大伯父さま。でも、じゃあ、わたしとギディオンさまは、どういう間柄になるのでしょうか?」
「わからん。いとこでもないだろうし……ま、遠い親戚ってことになるのかな?」
「しんせき」
言葉としては知っていたが、自分とギディオンがそんな関係になるとは、手帳を読んだザザにも思いもよらなかった。
「大伯父……グレンディルがもし何十年も眠らされていなかったら、ザザの母上と出会うことはなかっただろう。そしたらザザは生まれていなかった。これは奇跡に近いことだ。俺はもしかしたらスーリカに感謝せねばならないのかもな」
そう言ってギディオンは、小さな黒い頭に自分の顎を乗せた。それは優しすぎる重さで、ザザは不意に泣きたくなる。
「母上はよくぞ、この手記を封印してくださった。以前の俺が見ていれば、馬鹿げた妄想だと思って、燃やしていたかもしれない。だが、待てよ……あれ?」
「どうかしましたか?」
ザザはギディオンの手元を覗き込んだ。
「最後の項だけまだめくれない」
「あ、そうなんです。前に見たときも……え?」
前回めくれなかった最後の項が、ザザの指が触れるか触れないうちに、ゆっくりと開いていく。
母の文字は語っていた。
『なぜなら、魔女と主は──』
「同じ望みを持つものだからです」
ザザの声は震えた。
「おなじ……のぞみを」
そして頁は、最後の文字へと続く。
『多くを望まぬ魔女は正しい主を見つけ、その主もまた魔女に多くを望まない。そして魔女と主は一緒に、同じ方向へと歩いていけるのです。生きている限りずっと』
『私、魔女ユージェは、愛する娘ザーリアザにこの言葉を残します。あなたが良き主を見つけ、幸せであるように』
日記はそこで終わっていた。
そして、前述の通り、地図が示されている。それは父の墓のあるところだった。どうやら、ここから正反対の南西の地方にあるようだ。
「……そうか」
ザザの指を追って最後の頁を読み終えたギディオンは、その指に自分の手を重ねた。
「ありがとう、ユージェ殿。あなたの言葉はどれも真実だ」
「ギデ……オンさま……」
ギディオンは手帳を丁寧にザザの鞄に入れると、ぐっと身を起こした。肩が寒くなったザザは不安そうに彼を見上げる。ギディオンは握ったままのザザの手を取った。
「俺はあなたの娘を一生愛することを誓う」
「……」
戸惑うザザの手に唇が触れる。小さな、しかし勇敢で優しい、傷だらけの手。
「ザザ……いや、ザーリアザ嬢。どうか共に生きて欲しい……私の妻になってください」
そうして魔女の頬に一粒の涙がこぼれたのだった。
この項を書くにあたり、67話を少し修正しています。