79 魔女と主の願うこと 3
「……お待ち申し上げておりましたぞえ。我が愛するグレンディル様」
黒い渦は凝縮し、白い顔が浮かび上がる。そこに滲み出る赤い唇から、ねばついた声が漏れた。その声はやや弱々しく聞こえる。
「お前は……スーリカ!」
「おお……! ようやっと我が名を呼んでくれやったな、主様……嬉しやのう」
見る間に女の禍々しい姿態が現れた。
額には黒星がべったり浮き上がっていたが、その形は歪んでいるようにも見えた。一昨夜、ギディオンが切り落とした右腕は黒い布で包まれている。
「このような見苦しい姿で申し訳ありませぬ。あなた様に受けた傷が苦しゅうてな、復元もできませんでした故。お許しくだされ」
滴るような憎悪と悲哀を声に乗せてスーリカは微笑んだ。
「閣下!」
「セルヴァンティース閣下!」
すぐに先を行きかけていたフリューゲルら、彼の直属の部下達が異常を察して戻ってくる。
「来るな!」
ギディオンは叫んだが、スーリカはゆっくりと彼らに振り向き、フリューゲルに目を止めた
「おや? この顔は知っておる。先日はようやってくれやったな。妾に一矢報いたことだけは褒めてやろう」
スーリカの言葉が終わらぬうちに、額の黒星が滲みだし、魔女の口角が不吉に上がった。
「なっ、なんだこれは!」
「足が! 足が!」
雪と泥でぬかるんだ地面が彼らの足を縫い付けていた。凍りついているのだ。
「妾と主の逢瀬を邪魔するでない。そこで見やれ。ただし、その氷はどんどん這い上って、おぬしらを凍りつかせていくがのう」
「くっ、くそっ!」
フリューゲル達は剣先で氷を砕こうとするが、ほとんど効果はない。悪意の氷なのだ。それはゆっくりと嵩を増やし、足首から膝を覆わんとしている。
「おのれスーリカ!」
ギディオンは部下を助けようと、再び大剣を振りかざした。
「勇ましや、グレンディル様。彼らに見守られながら、我がものとなられよ」
「ほざけ! 部下達を解放しろ!」
大剣がスーリカを薙ぎ払う。しかし、斬ったと思ったところにスーリカはいなかった。
「それ、その剣がいかぬ。主に斬られた傷は今も疼く」
「!」
耳元に冷たい息がかかって、ギディオンはあっと飛び退いた。
スーリカがすぐ後ろに立っていたのである。普通なら背後を取られることも、触れられるほど近くに寄られることもありえないはずだった。
「おのれ! 魔女」
再び振りかざした剣は、切っ先がぼろぼろになっていた。みるみる内に鋼の剣が真っ赤に錆び付いていく。
「こ、これは」
己の愛剣が鉄屑同様になっている。
「……これでよい。邪魔はもう要らぬ」
スーリカはどこか疲れたような顔で頷いた。
「グレンディル様」
「俺は大伯父ではないと、何度言えばわかる!」
ギディオンは無残な姿になった剣を放り投げた。
「いいえ。時空を超えてあなた様は蘇ってくださった。前世の記憶がないのは遺憾なことじゃが」
悲しげに言ってスーリカは残った左腕をギディオンに向けた。掌が頼りなげに揺れた。
「俺は誰でもない。ただの俺だ。諦めろ、俺はお前を縛るつもりはない。もういい加減、妄執から解放されろ!」
「解放など要らぬ」
そう言いながらスーリカは、ギディオンの背中から縋りついた。
「……っ!」
急に体が動かなくなった。そればかりか、痺れるような感覚がじわじわと広がる。
「おのれ、何を……した」
「ご安心を。毒ではありませぬ。ただほんの少し体の自由が効かなくなるだけの、優しい薬……」
さっきギディオンに向けた掌には、粒子状の薬が仕込まれていたのだ。わずかな風に乗って、それはギディオンの肺に入り込んだ。
「く……スーリカ」
どんどん体の自由が効かなくなる。ばかりか、視野がどんどん狭窄し、霞んでくるのだ。
「そう……そう。もっと我が名を呼んでくださいませ! おお、愛しやグレンディル様」
赤い唇がギディオンの首筋に触れた。右腕が胸や胴を撫でる。掌がないのに、ぞっとするような感覚がギディオンを襲った。
「このまま、二人で……時の狭間へ」
スーリカは伸び上がってギディオンに唇を押し付ける。
血のように赤いのに、それは身震いするほど冷たかった。ギディオンは必死で逃れようと首を振るが、既にほとんど体は動かない。膝を折ることすらできないのだ。
「や……め……」
体が、精神がどこかに引っ張られる。時の狭間とスーリカは言った。
生まれて初めてと言っていい恐怖を、ギディオンは感じていた。
「もうすぐじゃ。もうすぐに妾の術が発動する……参りましょう、グレンディル様。誰にも邪魔されない、我ら二人の楽園へ」
スーリカの青白い頬に汗が流れた。
「……グレンディル様!」
長い髪がギディオンに絡みついていく。どんどん体に密着するスーリカの体も、唇と同じように冷たかった。
そして、平原に彫像のように立つ二人の輪郭がわずかにぼやけ始める。
「く……」
自分を抱きしめるスーリカに必死で抗いながら、ギディオンは空を見上げた。濁った灰色の空に黒い鳥が見えた。モスだ。
いや、違う。それは──。
「……ザザーッ!!」
男の絶叫が平原に響いた。
ザザは城壁の上から、モスの目を借りてギディオンの戦いを見ていた。
勇猛果敢でありながら合理的な戦い。左手が少し不自由なことなど微塵も感じさせない。胸は高鳴り何度も吐きそうになったが、目を逸らすことはできなかった。
彼の戦いはザザの戦いでもある。
もし万が一、彼の身に何か起きようものなら、ザザも命をかけるつもりでいたが、ギディオンは常にぎりぎりではあるが勝利を得たのだ。大勢の兵士たちや馬が疲れた体を引きずって、城壁を目指して帰ってくる。
彼もザザの元に帰ってこようとしていた。
大きな距離を隔てて、二人の目線はしっかりとぶつかったのだ。
そこに彼女が現れた。
なぜ!?
あんなに大きな傷を受けて、魔力もほとんど使い果たして、回復にはまだ時間がかかると思っていたのに!
ザザは一瞬たりとも迷わなかった。
兵士たちが驚く中でザザは壁から飛び降りた。
雪が止んだら強い風が吹く。記録の通りだ。城壁にぶつかった風がザザを持ち上げてくれる。額が白く光り、ザザは一直線にギディオンの元へと飛んだ。
今こそザザは理解した。
魔女と主はひとつなのだと。
「ギディオンさま!」
ザザは叫んだ。
ギディオンは黒い魔女に絡めとられていた。何らかの邪悪な魔法か、薬を使われているのだ。苦しげに身を捩っている。スーリカが魔力を振り絞って、彼をどこかに連れて行こうとしている。二人の形がぼやけ始めた。
「ギディオンさまーっ!」
声が聞こえたかのようにギディオンが顔を上げた。二人の視線がぶつかる。
ザザには彼が声にならない声で自分を求めていることがわかった。
「今、参ります!」
ザザは黒い小鳥のように、主のもとに急降下する。
スーリカの話方が古くさくて、わかりにくくはございませんか?