78 魔女と主の願うこと 2
雪は夜半に降り止んだ。
警戒していた夜襲も、恐ろしい大魔女の出現もなく、久しぶりの静かな夜を過ごしたアントリュースの街は、静まり返っていた。
人々は、ほんのいっときの休息をとることができたのだ。
ザザとギディオンは破壊された城門の上に立っていた。
今まさに太陽が昇ろうとしているが、周囲はまだ薄暗い。一日で真っ白になった荒野は静まり返っているが、両側に見える丘の麓には、チャンドラ軍とパージェス援軍が陣を敷いているのだ。
モスが楽しそうに高いところに浮かんでいる。彼の目からは、この平原がどのように映るのだろうか。
「……出来上がったのか? 上からはなにもわからないが」
「はい。雪が深い割に水っぽくて助かりました。水を凍らすだけならそんなに難しいことではないのです。何よりこの寒気ですから」
「そうか、ありがとう。ここからは俺の仕事だから、ザザは暖かいところで待っていてくれ」
「はい。ここで見守っています」
「……もう、止めはしないけれどもな」
ギディオンはそう言って、冷たい頬を撫でた。
「傷の具合は?」
「大丈夫です」
ザザの受け合いに、ギディオンは信じないというふうに僅かに首を振った。しかし彼はもう止めようとはしなかった。
「身を守ることだけは第一にしてほしい。ザザに何かあったら俺の命がないと思って」
「……はい! ギディオンさま、私は死にはしません!」
「俺もだ。では行ってくる」
ぐいと引き寄せられて重なった唇は、ほんの刹那の温もりをお互いに与えてすぐに離れた。
ギディオンは身軽に城壁を降りていく。下で待ち受けるのは、フリューゲルやデルス達先見部隊と、ホルバインらアントリュース守備隊の主な面々だ。
「準備は整っております!」
フリューゲルが敬礼した。ホルバインも頷いて自信を見せる。
「援軍との連絡も先ほどついた。守備は上々だ! いつでも行けるぞ!」
彼らの後ろにはザザが一夜で作った氷の回廊があった。
雪をうまく隠れ蓑にして外からはわからないが、味方の陣地まで続いているのだ。そしてそれは平原の両端にも平行に伸びている。馬は通れないものの、武装した騎士や兵士が通るには十分な広さと強度である。兵士たちの軍靴には滑り止め用に荒縄が巻かれていた。
「よし、行こう! この馬鹿げた戦いを終わらせるのだ!」
ギディオンは、先頭を切って青い氷の道へと進んでいった。
朝日が昇るにつれてギディオンの予想通り強い風が、平原に積もった雪を吹き飛ばし始めた。街の南に広がる平原の真ん中にうっすらと土の層が見え出す。
両軍、訓練されたき歩兵や騎兵、弓兵は一糸乱れぬ戦列を作り出す。これは自軍の威容を顕示し、敵を圧倒させるためでもある。それぞれの陣の後方に将がいるはずだ。
どちらからともなく角笛の音が響き渡った。風に乗って、余韻が遠くまで響き渡る。
戦闘開始の合図。
まず動いたのはパージェス軍だ。
歩兵はぬかるみで足が取られるので、特別製の装具を馬の足につけた騎馬隊が先陣を切る。迎え撃つチャンドラ軍も騎馬であるが、こちらは槍で得物が長い。
たちまち平原は男達の叫び声や、怒号に埋め尽くされた。
汚れた雪をさらに汚すように血が飛び散り、その上を馬の蹄が駆け抜ける。パージェス軍は斬り掛かってくる敵に対応しつつも無駄な戦闘はせずに、ひたすら平原を駆け抜けた。
両軍、一旦すれ違ったかに見えたその時。
硬いものが壊れる音がして、チャンドラ軍の両脇からアントリュース守備隊とパージェス軍が飛び出してきたのだ。ザザの作った氷の回廊が敵を取り囲んでいたのである。
驚いたチャンドラ軍が駆け抜けようにも、丘の麓は雪が深くて進み難い。勢い余って隊列は大いに乱れた。
完全に不意を突く攻撃に、チャンドラ軍に動揺が走る。騎馬軍は真横を突かれると弱い。混乱し、乱れ重なり合った隊列に、弓兵が弓を放ち、人馬は叫び声を放ちながら崩れていった。
一頻り続いた弓矢での攻撃が収まると次は歩兵である。
その先頭に立つのは、誰あろうギディオンだ。
彼は兜も被らず、髪を押さえる布を巻いただけで素顔を晒していた。
彼を知っている敵に、その姿をあえて見せているのだ。
「あいつだ!」
「あいつはギディオンだ! 取り囲め!」
「殺せ! 首をとれ!」
勇気あるチャンドラ兵が、おおうと鬨の声を上げて向かってくる。
ぬかるみで馬の勢いが出ないことを見越していたギディオンは、先頭の槍を払いざま、馬の腹を斬った。馬がどうと斃れ、続く二騎を巻き込む。
立ち上がった兵士の胴に動けぬほどの斬撃を入れながら、ギディオンは前に進んだ。背後から、弓隊が援護する。
そのまま、更に数人を倒した後で、ギディオンは大音声で叫ぶ。
「貴軍の将はどなたか! このまま泥沼の戦いを所望ならば我らにも覚悟があるが、心ある将がおられるならば、この俺と尋常に勝負し給え!」
その声にチャンドラ兵達は顔を見合わせた。動揺が波のように広がる。その隙を突いて、ギディオンは主人をなくした馬の鞍に手を掛け、チャンドラ軍の意匠をつけた軍馬に飛び乗った。
「そら! 悪いが今からお前の主人は俺だ!」
一騎で中央突破する勢いでギディオンは馬を駆る。その後ろから同じように馬を掻っ払ったフリューゲルとデルス達が続いた。
いったん統制が乱れた軍の指揮系統は弱い。そして、チャンドラ軍を突き抜けた向こうには、味方たるパージェス騎馬隊がいる。そして更に奥にはチャンドラ軍の本隊がいるのだ。
「ギディオン殿!」
「おう!」
味方の騎馬がすぐに続く。このまま本隊に突進しようと言うのだった。
どどどどどどうっ!
ぬかるみを蹴立てて黒い一軍が、巨大な槍のように突き抜けていく。
どこだ!? 敵の大将はどこにいる!
やがて、向かい側の丘の麓に立派な陣が見えてきた。急ごしらえとは思えないほどの、頑丈そうな本陣である。城壁の上からその先端だけが見えていたものだ。そこにチャンドラの将がいる。
「お出ましあれ! チャンドラの将軍殿!」
ギディオンは先端を尖らせた馬防柵の前で叫んだ。
ややあって、敵の後方から三人の騎馬が進み出た。
先頭に二騎、中央後方に一騎。
その一騎がこの軍の将だ。チャンドラ特有の肩の跳ね上がった鎧をつけ、兜には房飾りがついている。ギディオンの肩と胴のみを覆った革の鎧と比べると、それはたいそう煌びやかに見えた。
彼らは馬防柵を挟んで睨み合う。
「馬上にて失礼致す。私は、パージェス国軍の一隊長、ギディオン・セルヴァンティースと申す者。身分さほど高くはないが、わずかばかりの軍功を認められ、ただいまこの場にまかり越した」
「存じておる」
敵将は唸るように言った。ギディオンと同じくらいか、やや年上の男の声だ。
「お前は三年前の戦いで我が軍に多大なる損壊を与えた男だ。俺はチャンドラ太守、ハーバーンの異母弟でタレンと言う。此度は水運を望む太守の命を受け、先達としてアントリュースの街を落とさんが為に参った。セルヴァンティースよ、お前が死ねばこの街は落ちるな」
「そうでもないだろうが、あなたが倒れたら、チャンドラ軍は成り立たぬな。これ以上余計な死傷者を出さずに決着をつけようではないか」
「……」
タレンはぐっと剣を振り上げた。それが合図だったのか、ギディオンの両脇から四人の兵士が殺到する。彼はものも言わずに二人を倒した。残りは背後に任せて、馬首を返すとギディオンは馬防柵の手前で馬を飛び降り、柵の横木に手を掛けて本陣内に飛び降りた。
そのまま目にも止まらぬ動きで、前に立つ二騎の左側の男を引きずり下ろして、利き腕と目星をつけた腕に一撃を入れる。
「ぐああああ!」
悶絶する男に目もくれず、ギディオンは再び馬上の人となった。
「次はどちらだ?」
「俺だ。ボーラムという。又の名を兜割りのボーラム!」
巨体を揺すって派手な出立の男が立ちはだかる。
「ボーラム殿。相手にとって不足なし! いざ!」
「せえええい!」
ボーラムは剣の代わりに巨大な戦斧を振り回した。なるほど、これで数々の兜を叩き割ってきたのだろう。だが、ギディオンの頭部には叩き割るべき兜すらない。
ボーラムが戦斧をぶん回す速さと正確さはなかなかのもので、この勢いを掻い潜って間合いに入るのは非常に難しかった。その後ろにタレンがいる。
ギディオンは慎重にボーラムとの距離を図った。周囲には本陣の兵士たちもいるが、追いついてきた味方の兵士たちも数を増し、次々に馬防柵の内側へと侵入している。外のチャンドラ軍の主部は総崩れだった。
戦はもう、そのほとんどを終えたのだ。
しかし、彼らは負け戦の将として帰るわけにはいかない。戦の終わりには何か象徴的な出来事が必要だ。それが負け戦の面目を立たせる。
それが今だった。
ボーラムが突進してくる。頭上で戦斧がぶんぶん旋回していた。角のついた馬用の兜を防御に使っている。技も度胸も一級品の男だ。
三……四……五……
ギディオンは数合の手合わせて、彼の攻撃の瞬間を予測していた。
六……七、来る!
ごう、と風を裂きながら、重い戦斧が背後から頭部を狙う。前から狙わないのが恐ろしいところだ。ギディオンはその瞬間に馬の背に身を伏せる。空を切った斧が頭上を通り過ぎた瞬間、短剣を後ろに投げる。それは通り過ぎるボーラムの馬の尻に突き立った。
驚いた馬が棒立ちになり、思い斧を旋回させていたボーラムはバランスを崩し、どうと落馬する。それを捨て置いて、ギディオンはそのまま奥のタレンに迫った。
そのタレンも、ボーラムの敗退を見て長槍を構えて身構えている。彼は大きく拍車をくれると、ギディオンに向かって走り出した。タレンを援護しようとする兵士が数人出ようとしたが、背後からパージェス兵士に威嚇されて押し止められた。
タレンの馬の助走距離が短く、大した速度が出ていないことをギディオンはすぐに見切った。騎馬での一騎討ちは一瞬の勝負である。
勝負はやはり一瞬だった。
迫りくる槍の穂先を大剣で受け流す。鉄が擦れ合って火花が飛んだ。ギディオンは、そのまま剣の柄を絡めて槍を捻り上げる。タレンは落馬こそしなかったが、馬上で大きく体勢を崩した。すかさず馬首を巡らしたギディオンは、タレンの背後から鎧のつなぎ目を深く突いた。
「うおおっ!」
脾腹を挿し貫かれ、たまらずにタレンも馬から転がり落ちた。
敵味方の兵士が一気に息をつく気配があった。皆、ギディオンの剣技と馬術に見惚れていたのだ。
「命までは取らぬ。しかし、拘束はさせていただく。間もなく双方の国から使者が来るだろう」
ギディオンは肩で息をしながら言った。彼の腕からも血が流れている。小さな傷に至ってはそれこそ無数にある。頬や額からも血が滲んでいた。
「チャンドラの勇士諸君! 武器を捨てよ! もはやこの戦は終わった! お主らの将はこれ以上の戦意はない!」
ギディオンの合図でパージェス兵たちがタレンの手当てに走る。ボーラムに至っては落馬の衝撃で気を失っていた。
それを見たチャンドラ兵たちが、次々に武器を捨てていく。引き際を心得ているのだ。後は国同士の交渉だった。
かくして、アントリュース攻街戦は終わった。
チャンドラ軍の陣は解体され、分断されていった。将官たちは繋がれて城壁内の地下牢へと連行される。
明け方の白い雪はすっかり汚され、血と泥によって溶かされていた。
ギディオンは五百サールほど向こうの城壁を見つめた。
期待した通りの小さなな姿が立っているのが見える。ザザは約束通り、彼が戻ってくることを信じて待っていてくれているのだ。
空はどんよりと曇っていたが、そろそろ薄暮の頃合いだろう。
捕虜たちが城壁の中に入り、守備隊が武装を解いたチャンドラ軍を掌握したことを見届けたギディオンが
ようやく街へと帆を進めた時。
一塊の風が黒い渦となって、彼の行手に出現した。
渦は女の形をとった。
戦闘描写は力が入ります。
どうでしたか?