77 魔女と主の願うこと 1
アントリュースの街は雪の朝だった。
「ザザ」
ギディオンは市庁舎の一室に運び込まれたザザを見舞った。肩にモスが乗っている。
「おはようございます。ギディオンさま」
ザザは大きな長椅子に横たわって外を見ていた。
辺りは一面真っ白になっている。
昨夜あれから降り出した雪が、街をすっぽりと覆ってしまったのだ。この時期特有の水っぽい雪は今も降り続き、窓の外はほとんど視界が効かない。時刻は昼を少し過ぎたくらいだろう。
「痛むか? 少しは眠れたか?」
ギディオンは気遣わしそうにザザを見つめた。
「はい」
ザザの傷は肩から胸にかけたものが一番大きかったが、傷自体は浅く出血はすでに止まっている。しかし、脹脛を貫通した氷の針の傷痕からはまだ血が滲み出していた。
「癒術を使わないのか?」
細い脛に巻かれた包帯から素足がはみ出しているのを見て、痛々しそうにギディオンが尋ねた。
「今はそんなことに魔力を使えません。それに痛みは大してないんです」
胸の石を握りしめてザザは言った。紐を付け替えて石はまた、ザザの胸に収まっている。
「結局巻き込んでしまったな。こんな大怪我までさせて……すまない」
「いいえ。並んで戦うとおっしゃったではないですか。ねぇモス」
モスが甘えて首を伸ばしてきたので、ザザは隼の艶やかな羽毛を撫でてやった。
「確かに。だが、惚れた女が傷ついているのを見て、苦しまない男はいない……俺が変わってやれたら」
ギディオンの言葉は自戒を込めたものだったが、ザザの頬が熱くなる。
ほれたおんな? ほれたって好きってこと? 女って私のこと?
「ザザ?」
「いっ、いえ、なんでも!」
「眠っていなくていいのか。魔法とは、体力を消費するものなのだろう?」
「それはそうです。でも夜明けから今まで眠りましたし、大丈夫です。外はどんな様子ですか?」
「城壁の外では騎馬軍が睨み合っているが、この雪のためにまともな戦闘にはなっていない。朝方、小競り合いがあったようだが、雪が激しくなって、両軍引かざるを得なかったようだ。今は少し距離を取って、丘を背にして雪避けにしている。これは補給が近い我が軍にとって、有利な状況だな。チャンドラ軍は雪が来る前に、一気にこの街を攻め落とす気だったのだから」
「街中はどうですか? 怪我をされた方が多いのでは?」
「この規模の戦闘にしては少ない方だ。市中に入り込んだ敵も半分は撤収し、あとは捕虜として繋いでいる。現在守備隊が残党を探索中だが、雪がやむまで大規模な戦闘はないとみていい」
「やはり、この度の襲撃は、あの者の後ろ盾があったればこその計画だったのですね」
秋から始まった不穏な動きは、水利水運を手に入れたいチャンドラの思惑と、スーリカの復讐心が合致して企てられたものである。
そこにザザという想定外の異分子が入り込んだことで、小さな分岐違いがどんどん大きくなっていったのだ。
「そうだな。だが、あの傷では当分引っ込むより他はないのじゃないか?」
「いいえ。あの者の執念を見くびってはなりません」
ザザは強く否定した。
「あの者のグランディルさまに対する執念は、尋常ではありません。今はその妄執がギディオンさまに向けられています。少し傷が癒えたらすぐに復讐しにやってくるでしょう」
「迷惑な! 大叔父と俺は会ったこともないのだぞ」
「私には少しだけわかるような気がするのです……」
ギディオンは心外な、という顔つきだが、主に対するどうしようもない慕わしさを止められないのは、同じ魔女として、ザザも理解できる気がした。
スーリカは主を自分だけのものにしたかったのだ。
主のためだけに働き、その愛を誰にも分けたくなかった。ザザだとて、もしギディオンがフェリアと結ばれる所を目の当たりにしたなら、上部は祝福できても心が凍り付いてしまったかもしれない。
でも……わたしは、わたしには、人を殺めたりできない。お側にいるだけで幸せだと思い込もうとするだろう。魔女とは耐えるものだから。
「ザザ、不安になるな。俺はここにいるから」
そう言ってギディオンは、傷に気をつけながらザザの肩を抱き、とんと口づけた。それは軽く触れるものが、ザザの頭を煮えさせるには十分な甘さだった。
「やっぱり少し眠ったほうがいいのではないか」
これ以上赤くなれないほど上気した頬を指の背で撫でながら、ギディオンは笑う。
「だ、大丈夫です!」
ザザは長椅子の上で居住まいを正した。
「あの者の執念は恐ろしいです。でもそうですね、明日ということはないでしょう。先日はフリューゲルさまに深傷を負わされ、昨日はかなりの魔力を使った上に、右手を失っています。多くの血も失ったはず。きっとあの者は、今までになく追い詰められていると思うのです。おそらく回復までには少し時間がかかる。言ったように、回復魔法にも体力が必要ですから。少なくとも二日は動けないと思います」
普通なら一月はかかる傷であるが、スーリカに限ってはそんな常識は通じない。
「敵を倒す絶好の機会というわけか」
ギディオンも頷き、窓の外を見つめる。
「では、魔女が復活する前に、武力で戦える戦には、我々でなんとかしないとな。この雪はおそらく今夜中には止む」
「そんなことがわかるのですか?」
ザザは驚いて尋ねた。天候を予測するのは、魔女の能力の一つだと思っていたのだ。
「ああ。エーリンク市長殿から天候記録を見せてもらった。この地方で毎年初めに降る雪は、長くとも二日で止むそうだ。水っぽいのですぐに溶け、地面が凍るのだと。それからはしばらく強い風の日が続くそうだ。その後本格的な雪の季節となる」
「そんな記録が……」
「ある。冬場の天候はその年の農作物を左右するから、北方では大切なことなのだろう。だから、決戦は明日以降になる」
「城壁外の方々は大丈夫でしょうか?」
「今夜さえ凌いで貰えばなんとかなる。陽が昇ったら補給や支援部隊を出す。あの騎馬部隊を押し戻せば、この街は救われる。だから今だけが休息の時間だ。敵も俺たちも」
「わたしがお助けします。雪の魔法は使ったことがありませんが、雪だって水の変化したものですし。他にもいくつか考えられる方法が……あ、止めたってだめですから」
「止めないよ。今やザザは貴重な戦力だ」
苦々しくギディオンは認めた。
「あんなに魔法を嫌っておきながら、ザザを頼るのも今更ムシがいい話だな……俺って男は、今も昔も情けない」
「だめ!」
ザザが男の口を両手で塞ぐ。
「それ以上言ったら、わたし怒ります」
「……ザザに怒られるのは嫌だな」
ギディオンは、ザザの手を外しながら言った。自分の半分くらいの厚さしかない掌にそっと唇を押し付ける。
「大丈夫です。もう怒りません」
「だからな。俺が大丈夫じゃないんだ」
ギディオンは頼りなげな最中に腕を回し、傷に障らぬように撫でた。体に掛けていた毛布が滑り落ちる。モスが静かに近くの椅子の背に飛び移った。彼は首を傾げて二人を見つめている。
「全く、こんなに小さいくせに、大の男を縮み上がらせる勇ましい戦いをするんだからな……痛くはないか?」
「いたく……ないです」
ザザは全身で背中を這いまわる熱い大きな掌を意識していた。
「俺にも魔法が使えたらいいのに。そうしたらザザを治してやれるのに」
「でもあの、もう……十分治してくださって、います」
ああ、体が熱い。でも絶対に傷のせいじゃないわ。
ギディオンさまの温かさがわたしに流れ込んでくるんだわ……。
「ザザ」
「はい」
「小さくとも、お前の体は柔らかいな」
首筋をかさかさした唇が滑っていく。
「いい匂いがする。ザザ」
「……っ!」
耳に吐息がかかって、ザザは思わず肩を竦ませた。
「すまん、痛かったのか?」
「いいえ、いいえ……あの、ギディオンさま」
「なに?」
「こうしていただくととっても心地がいいんです。なんだか傷まで治ってしまいそうで……もう少し、こうして触れていただけますか? あの……お嫌でなければ」
ザザは恥ずかしさで目をぎゅっと瞑りながら一気に言った。
「……」
ギディオンが何も言わないので恐る恐る目を開けると、呆れたような青い瞳とぶつかった。
「ごっ、ごめんなさい! わたしったら、なんてはしたないことを」
「お前なぁ……少しはマシになったと思っていたら、世間知らずにも程があるぞ」
「……ごめんなさい」
叱られたと思ったザザは、しゅんとなってしまう顎を捕らえられ、唇を覆われる。
それはさっきのようにすぐに離れて行かずに二枚の唇を塞ぐようにねぶり、吸いついた。驚いたところにするりと入ってくる塊がある。
え? え? え?
混乱しきった頭で感情は言葉にならないが、感覚は鋭敏だった。
自分の舌を絡められるたびに肩が竦み、強く擦られるたびに腰が浮き上がる。こんなことは初めてだ。
なにこれ、なにこれ? わたしは罰せられているの?
「ザザ、大丈夫か?」
体を固くしたザザの様子にギディオンは体を離した。その唇が自分の唾液で濡れている。
「も、申し訳ありません」
「なぜ謝る?」
「だってこれは罰なのでしょう?」
「罰? 口づけが?」
「違うのですか?」
「そうか、お前はそう捉えるのだな」
ギディオンは深いため息をついた。
「そうだな。罰かもしれない。男に自分の体に触れて欲しいなどと、浮かれ女のようだ」
「うかれめ?」
「ザザ。これだけは言っておく」
「はい。ご命令ですか?」
真面目な魔女の顔つきが変わった。
「そう思っていい。いいか? 俺以外の男にそんな顔をして、体を触れなどと絶対に言うなよ」
「もっ、もちろんです! こんなことお願いするの、ギディオンさまだけです」
「だからな……そう煽られると、こっちが持たなくなる」
「え? どこかお辛いところが!?」
「こら! 魔力を使うな! 違う、これは違うから」
魔力を練り始めた魔女を、慌てて押しとどめてギディオンは言った。ギディオンも細かい傷だらけだが、癒して欲しいのは傷ではない。
「え?」
「男には男の事情がある。俺もな、もう久しくこんな風な気持ちにならなかったから、我ながらちょっと驚いている。しかもこの非常時に」
「はぁ」
「お前のためにも、俺はもう行くよ。ん……ほっぺは真っ赤だが、熱はないな。ゆっくり休みなさい」
「はい。なんだかさっきより、とても楽になったんです……あれ?」
「どうした?」
ザザは服の胸元を開いた。
「ほら、魔力も使ってないのに石が温かい。きっと、ギディオンさまがいるからです」
輝石の前の主は彼の大叔父グレンディルだ。
だから血を引くギディオンにも石は共鳴しているのかもしれない。そう思ってザザは言ったのだが、当のギディオンはものすごい勢いで、ザザの服の合わせを閉じた。包帯の上からささやかな谷間がのぞいていたのだ。
「くそ! この魔女め!」
「え?」
「覚えていろよ! この戦いが終わったら散々可愛がってやるからな!」
「は、はい!」
主の言葉の意味がわからず、ぽかんとしている魔女を残し、ギディオンは大股で様子で部屋を出て行った。
モスが小さく鳴いてその跡を追う。扉が閉まった。
ギディオンさまものすごく怒ってた? でも、可愛がるって言ってたし……。また今度お尋ねしてみよう。
わからないことを考えるよりも、今は体力の回復だ。
暖かくなった石を握りしめ、ザザは窓の外を眺めた。
雪はさっきより小止みになっているようだ。