76 魔女と大魔女の魔法 3
「お会いしとうございましたぞ、グレンディル様」
闘気を微塵も乱さないギディオンに向かって、スーリカは恭しく魔女の礼を取った。
「気がつくのが遅れて申し訳こざいません。私の視力はほとんど失われてしもうたのです。おお、それも貴方様によりて、でしたな」
スーリカは懐かしそうに言った、
「知らんな。黒い魔女、俺がお前に会ったのはこれが初めてだ」
ギディオンはザザの傷が気になっていたが、今は緊張を緩める時ではないと判断して魔女に尋ねた。
「お前の言う、グレンディル・セルヴァンティースとは俺の大叔父だろう? 俺とお前とはなんお関係もない」
「これは異なことを。あなたはグレンディル様に間違いございませぬ。何十年の時を経て、私の前に生まれ変わってくださった。その血はセルヴァンティース伯爵の香りじゃ」
スーリカは、ギディオンの腕から流れる血をうっとりと眺めている。無意識に魔女は彼に向かって一歩踏み出した。
「残念ながら俺の母親は旅芸人だ。伯爵家の血は半分しか流れておらん。黒い魔女殿は長い年月の間に嗅覚も衰えられたと見える」
「妾が主を間違えることなどありえぬ」
ギディオンの嘲りにも魔女は少しも動じない。
「あの折は邪魔な女がおったが、今は問題ない。我が主、グレンディル様。スーリカが生涯お側でお仕えいたしまずぞえ。この身も、魔力も、全てあなた様のものじゃ。おお、慕わしや!」
そう言ってスーリカは、着ている黒衣の身ごろを寛げた。夜目にも鮮やかに豊かな白い乳房がまろびでる。
「私を使役していただければ、この国の王となることも容易うございまする。そして、閨では今まで味おうたことのない愉悦、悦楽をお約束いたしますぞえ」
ギディオンに見せつけるように、自分で乳房を掴んで揉みしだきながら婉然と魔女は微笑む。それは幾人もの男達を魔性の魅力で虜にしてきた女の自信だった。
「年上の女は好みではない」
滴るほどに艶かしい挑発に対するギディオンの答えは冷淡なものだった。
「俺は好みにうるさいのだ」
「ダメ! ギディオンさま! そんなの見ないで!」
飛び出していたのは彼の小さい魔女だ。
胸の傷には即席の癒術を施したのか、裂けた服からは何やら葉っぱのようなものが張り付いているのが見えた。しかし、ただの応急処置のようで血は完全には止まっていないようだった。
「こんなこと間違ってます! スーリカ、恥を知りなさい!」
「退くがいい、お前の貧弱な体では主を満足させられまい」
「あなたこそ偽物でしょう! 本当はおばあさんなのに、ギディオンさまを惑わそうとするのはやめて!」
「なんじゃと!?」
スーリカの見えぬ目が、怒りでくわっと広がった。
「妾を侮辱するか! 小娘!」
「するんです!わたしは、わたしのあるじを守る!」
ザザは大声で宣言した。それを押し除けるようにギディオンが再び前に出る。
「ザザ、俺はあんなものに一向に惑わされてないからな。誤解するな」
「え? そうでしたか? でもあんな……」
ザザの目から見ても、胸をはだけたスーリカの肢体と曲線は蠱惑的なものだった。
「とにかく、見ないでください!」
ザザはギディオンの視界からスーリカを隠すように手を広げた。
「……これはまた微笑ましい見せ物じゃ」
ややあって、スーリカは歪んだ微笑みを浮かべた。
「つなぎの印を持つとはいえ、妾から見ればまだ、赤子のようなお前に私の邪魔ができるか?」
「いたします」
そう言って、ザザはギディを振り返った。
「ギディオンさま、これからは魔女の戦いです。どうぞ、お手出しになりませぬよう」
「できることか!」
ギディオンがザザに並ぶ。ザザは抗議しようとしたが、スーリカの勝ち誇った声がそれを遮る。
「グレンディル様、少しの間ご辛抱を。この小さな魔女を殺したら、すぐに妾の寝床にお連れしましょうほどに」
「ほざけ!」
ザザは魔力を集めるため、両手の指を揃えて額に触れている。そしてスーリカも、ザザの石を握りしめたまま、複雑な呪文を唱え始めた。
その時。
「おおっ! スーリカ様だ! スーリカ様がいらっしゃったぞ!」
広場に雪崩れ込んできたのはチャンドラ軍の一部隊だった。ついに街の防御を突破したものだろう。全部で二十人程度だが、これからもっと増えるだろう。
「これで俺たちの勝利だ! スーリカ様を護衛しろ!」
「させるか!」
躍り込んできたのはフリューゲルとデルス達である。ギディオンが最初に街へと率いてきた部隊だが、こちらは六人しかいない。
「おお! お前達! 無事だったか!」
「はい。ホルバイン殿も、近くで戦っておられるかと」
「そうか。街中戦闘状態というわけか」
周囲をチャンドラ兵に取り囲まれながら、ギディオンは笑った。
「閣下、お怪我を!」
「かすり傷だ、奴らを魔女に近づけるな! 俺はザザを……」
ぐるりとギディオンが振り返った時、二人の魔女は上で睨み合っていた。
ザザは屋根の上、スーリカは中に浮いている。双方、額の印がくっきり浮かび上がっている。他者の干渉を受けぬよう、魔力で移動したのだろう。
「ザザ!」
ギディオンの叫びに、ザザは正面を見据えたまま微かに頷いた。
「これが最後と思うが良い」
「思います」
スーリカはふと暗い空を見上げた。暗い空には星の一つも見えない。空は曇っているのだ。
「冷えるの。温めてやろう。そら!」
スーリカはチャンドラ兵が持っていたよく燃える松明を、自分の周りに呼んだ。魔女は両手で輪を作っている。
「これは妾が作った油で燃やしている。この油はよく燃えての。妾を解放してくれた礼にチャンドラに教えてやったのじゃ。太守にはいたく感謝されたわ。そなたにもどうじゃ!」
言い終わらないうちに、炎が輪になってザザを囲む。それは意思があるように縮んだり広がったりしながら、燃え盛った。
「どうじゃ! 暖かろう!」
炎の輪は五つに分かれてザザを包んだ。一つ一つの輪は細くなったが、頭から足の先まで包まれて逃れられない。
「そら! 骨も残さず燃え落ちるがいい!」
スーリカの両手の輪が狭まると炎の輪も縮む。その直径は二サールもなくなった。
「ザザ!」
下方からギディオンの絶叫が聞こえた。
「ははははは! 幼い同胞を葬り去るのはちと気の毒じゃったがのう!」
勝ち誇った笑いは突然かき消えた。
炎の輪は急激に火勢を失い、切れ切れに散らされて消えてしまったのだ。後には小さな魔女が立っている。
「ぬ!?」
「あなたから学びました」
ザザは、真面目な顔つきで言った。スーリカが使った鎌鼬の魔法を逆に返したのだ。
鎌鼬は空気中に真空を作り出して、切り刻む攻撃である。しかし、そこに熱が加わればすぐに消滅してしまう。それは炎も同じで、真空では炎は燃えない。炎と鎌鼬はぶつかれば、相殺されてしまうものなのだ。
「私の母は風使いでしたから、私も風魔法は得意な方なのです。こういう使い方もできるのですね」
元々ザザは、自分を風使いの魔女だと思っていたくらいなのだ。
「小娘!」
スーリカは喚いた。
大丈夫。お母さんの……お父さんの石の力はまだ私の中にある。
スーリカは冷気を呼び集めている。今度は氷の攻撃が来ると直感したザザは、屋根の上から近くの樫の木の枝の上に飛んだ。
間髪を入れず何十本もの氷の針が襲いかかり、ザザの足と服の裾を傷つけた。しかしなんとか太い幹の影に滑り込む。見かけは美しい氷の針は、いくつも木の幹に突き刺さった。硬い樫の樹皮により、それらはすぐに粉々に砕けたが、今度は握り拳のような礫がいくつも襲い掛かり、樹皮がボコボコと抉られていく。
ごめんね。傷をつけてしまって。だけどお願い。もう少しだけ力を貸して。
ザザが梢枝に手を伸ばすと、細い枝が自分から折れて葉を落とした。ザザの小さな手でも握れるほどの細く長い枝である。
若枝よ。鞭のように撓れ! 目指すは黒い凶星!
ザザの手から放たれた若枝は、夜の空気の中を一直線にスーリカに、スーリカの額に向けて飛んだ。音は立てない。彼女の目がよく見えていないことを見越している。
「笑止!」
しかし、スーリカは難なく氷の礫で枝をへし折った。
と見るや!
おられた細枝の鋭い欠片がぴしりと飛んで、スーリカの額の黒星に傷をつけたのだ。わずかだが血が飛び散る。
「……っ!」
思わずスーリカは輝石を握った手で額を抑えた。同時に宙にあった体がどうと地に落ちる。魔女の印は魔力の中心である。それを損なうことは魔力にも影響を及ぼすのである。
「ぐぅっ!」
しかし、それでもスーリカはすぐに立ち上がろうとした。
落ちる寸前、魔力で衝撃を和らげたのだ。魔女は憎しみを込めて、樹上のザザを振りかぶった。すぐにでも攻撃に転じようというのだろう。黒星の傷は小さなものだった。
広場での戦いはまだ続いているが、人数は半分ほどに減ってしまっている。スーリカは額に指先を当てたが、すぐに不思議そうな表情で己の手を見下ろした。
ザザも静かに地上に降り立ち、そこにギディオンが駆け寄った。
「ザザ!」
「大丈夫です」
胸の傷からは血がまだ滲み、足からもかなり出血していた。
「くそ! この馬鹿娘! 俺の手が届かないところで戦うな!」
「……ごめんなさい」
「何度俺の心臓を握り潰せば気が済むんだ……」
ギディオンは片腕でザザを引き寄せたが、ザザはスーリカから目を離さなかった。
「ギディオンさま、あれを」
スーリカの様子が明らかにおかしい。魔女は左手で右手を握りしめ、髪を振り乱して踊っている。いや、ぐるぐる周りながらのたうちまわっているのだ。
その右手から強い光が漏れていた。
「おおおお! グレンディル様のモルアツァイトが!」
スーリカの絶叫が広場に木霊する。
ザザから奪った輝石が熱の塊となってスーリカの右手を焼いているのだ。石を投げ捨てようにも、熱に焼かれ指を開くこともできない。
「おおお! 熱や! 熱や! なぜ、こうも私を拒絶されるのか! グレンディル様! おおおおおおおお!」
スーリカは左手で右の指を開こうと、必死で悶絶していた。それは世にも恐ろしい光景だった。戦闘途中のチャンドラ兵や街の守備隊も、恐ろしい叫び声に驚いて魔女に注目している。
「憎しや!」
スーリカの額の黒星が揺らめき、地面に転がっていた兵士の剣が宙を飛んだ。
「あっ!」
ザザが声を上げた瞬間、槍はスーリカの右手首を切り落とした。苦痛に耐えかね、自分の魔力で断ち切ったのである。
石を握りしめたまま、手首はザザの足元にどさりと落ちた。凄惨な断面からは、血がどくどくと流れて石畳を汚していく。
「あああっ!」
恐怖に身を引きつらせて、ザザが一歩下がる。
しかしギディオンは、ザザを後ろに庇いながら手首を拾い上げると、はりついている指を無理やり開いて石を取り出した。
「ザザ、お前の大切なものなのだろう?」
差し出した手の中で、石が輝いている。血の痕の一つもついていない。無論、ギディオンの手も焼かれていない。
「……」
震える手でザザは輝石を受け取った。ギディオンが手首を無造作に放ると、それはごろごろと転がり、みるみるうちに黒く変色していく。それは魔力を失った体の一部が、魔女の生きてきた年月を具現したかのようだった。
「おおおおおお! 憎しや! 憎し! グレンディル様! このままではおかぬぞえ!」
スーリカは憎悪に歪んだ瞳を二人に向けると、じりじりと後退していく。
「逃さんぞ! 魔女スーリカ!」
そうはさせじと踏み込むギディオンの目の前で、魔女は闇の中に掻き消えた。後には血溜まりが残っているばかりである。
「スーリカ様が!」
「引け! 引け!」
スーリカが消えたことを知ったチャンドラ兵が、大慌てで逃げ出す。デルスがそれを追おうとしたところを、ギディオンが止めた。
「やめろ! 追うな」
「は! でも、なぜでございますか? あやつらには市庁舎までの最短距離を知られてしまいましたぞ」
「そうだな、しかし、あいつらは魔女が逃げたことを報告するだろう。そのほうがいいんだ。チャンドラ軍は少なからず動揺する」
「了解しました。では城壁上の守備隊にも、そのことを敵に向かって吠えるように支えましょう」
「ザザ?」
ギディオンは自分の小さな魔女を振り返った。
ザザは膝をついて、転がった手首を見つめていた。そっと触れてみても、干からびたそれはもう生きてはいない。
気がつくと雪が舞っている。ザザの手の上に落ちた雪はすぐに消えてしまうのに、死んだ手に落ちた雪はいつまでもそのままだった。
魔女とはこんなにも悲しいものなんだ……。
ザザの黒髪の上にも、白い雪が積もり始めていた。
魔女合戦。
魔法だけが、都合よく強すぎないように気をつけたのです。
あと、戦闘の最中の痴話?喧嘩。
うまく伝わると良いのですが。
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