74 魔女と大魔女の魔法 1
城壁の外側で行われている騎馬同士の戦いは、激しくぶつかり合っていたが、日没と共に両軍一旦休戦となる。
闇の中での戦いは、どちらにとっても利はないからだ。
城壁の上で内外の情報を集めているホルバインは、市街地で行われている戦闘が激しくなりつつあることを見てとった。
ギディオンの率いる部隊は、街を縦横無尽に動き回り、侵入した敵を細かく分断しながら局所的な戦闘を繰り広げていた。
市民達のにわか編成の自警団もよく働き、屋根から石を落としたり、守護隊の待ち構える袋小路に誘導したりしていた。
しかし、チャンドラ軍は昔の侵攻から学んでいるのか、兵士たちは街の大まかな地図を頭に入れつつ行動しているようだった。誘導の兵士たちが持つ松明は軽くてよく燃え、ゆく手を明るく照らしている。何か特別な油を使用しているようだ。
彼らは守備軍に押されつつも、その間を掻い潜って街の中心を目指そうとしている。
今や最後の陽の名残も消え、乾いて天気の良かった一日の大気は、これ以上ないほど冷え込んでいた。
「今夜あたり雪がちらつくかもしれないな……」
誰かが吐いた息が闇に白く溶けた。
ザザは、空気に混じる憎しみの気配を辿って街を走っていた。
ギディオン達の戦いは八割がた収まりかけている。彼の戦闘力と統率力を持ってすれば、何か特別かことが起きない限り、夜明けまでに街に入り込んだ敵兵を制圧できるとザザは考えた。
何か特別なことが起きない限り。
今まさに、ザザはそのために走っている。
どこ? スーリカはどこにいるの?
スーリカは三日前、フリューゲルの短剣によって大怪我を負った。
ザザの知識では、いくら自分の治癒力を極限まで高めたとしても、回復するには七日は必要だ。それも体だけで魔力の回復にはさらに時間を要する。治癒魔法自体が多くの魔力を必要とするからだ。
でも、この強い憎しみは尋常じゃない。もう体力も気力も回復したって言うの?
しかし、スーリカの本当の実力を測れない以上、それをあり得ないと決めつけることは軽率だった。経験や知識はスーリカの方が圧倒的に上だからだ。
ザザは辿る。
魔女として同胞の気配を。
風を蹴り、樹を蹴って闇の中を突き進んだ。額の印も、胸の石も熱かった。
彼女を取り巻く自然が力を貸してくれている。
そして──。
「いた」
街の中心。
市庁舎のドーム屋根の上に、闇よりも濃い影が立っている。
スーリカだった。
北風よ! 我を誘え! 我を運べ!
ザザは密度を高くした空気を踏んで跳んだ。上昇気流と共に、ドームの真正面の屋根の上に降り立つ。
「おや、これはこれは。小さき同胞ではないかえ? ザザと言うたか」
「はい。ザザです。あなたは大怪我を負われたはずでは?」
「……そうだな。あの傷は痛かった。一両日程度はな」
スーリカはドームの中心に立つ鷲の彫刻に腕を巻き付け、腰を捻って見せた。ちょうどその上が剣が貫いた場所である。
一両日。そんなに早く傷を塞ぐことができるのか。
「小さき魔女よ。私に勝った気でいたか?」
スーリカは冷たい笑いを浮かべて言った。
「勝てたなどと思ってはいません。いつあなたが仕返しに来るか、ずっとびくびくしていました」
「正直な娘じゃ。なら、退くがいい。今なら逃してやっても良い」
「いいえ。言ったでしょう? あなたがこの街の人たちを、そして私のあるじを傷つけようとするならば、わたしは全力で戦います。たとえ敵わなくても」
ザザは精一杯大きく見えるように、屋根の上で足を踏ん張った。
しかしザザがいくら頑張っても、背の高いスーリカの肩くらいしかない。
彼女は、足場の悪い丸屋根の上で、街の象徴とも言うべき鷲の彫刻に優雅に体をもたせかけている。歳を経た大魔女といえども、その姿は美しく見えた。
「良き答えじゃ。さすがはあるじを見つけた魔女じゃ」
「……」
「この間は不覚を取ったが、傷はすでに癒えた……参る!」
スーリカの額に、黒い星の印が禍々しく浮かび上がる。
「大気が冷えて乾いておる。これは良い刃になりそうぞ」
スーリカは夜気の中に鎌鼬を作り出し、ザザに向けて放った。以前にも見た技だ。
ザザは近くの松明から熱い空気を呼んでぶつける。鎌鼬は真空なので、熱気を吸い込むと消えてしまうが、スーリカの繰り出す技は早い。
屋根から屋根へと跳んで、ザザは攻撃を避けるが、避けきれなかった攻撃が周りの建物を砕く。スーリカはその破片さえ操り、ザザを襲った。一つ二つ避けきれなかった欠片がザザの頬を切る。血が細く伝い落ちた。
あっと思う間もなく、スーリカは掌の上に火球を作り出し、息を吹きかけた。火球は大きくなり炎の帯を引いてザザに襲いかかる。
「炎は味方と思うかえ? 妾にとっても武器になるのじゃ。ほら、もう二つ進ぜよう!」
ザザは風の力でなんとか火球を避けているが、軌道が逸れた火球は市庁舎の屋根や他の建物に激突し、中には燃え出しているところもある。
市庁舎周辺には避難した人々も匿われているため、ザザは今度は空気中の水を呼び出して消火をしないといけない。しかし、冬の大気は水分が少なく、炎が広がらないようにするので精一杯だ。
その間に鎌鼬の攻撃も繰り出される。
この技、卑怯だ!
その時、ザザの目に井戸が写った。比較的大きな公共の井戸だ。見れば広場の隅にいくつかある。考えている暇はなかった。
地下から湧き出でし、人々の喉を潤す水よ! 霧となって注げ!
どおお! という音と共に井戸から水煙が吹き上がり、夜空へ太い柱をつなげた。
見ている間に水柱は崩れて辺りへと降り注ぐ。我が物顔で飛び交っていた鎌鼬も火球も、効果を失ってかき消えた。
「水までも使うか! さすがはつなぎの印の担い手じゃ。ではこれはどうじゃ。そなたはまだ扱こうたことがなかろう」
スーリカは、自分の立っているドームに貼り付けられている青銅の板を、魔力でめりめりと剥がした。
額の黒星の印が不気味に脈打つと、スーリカの手の中で銅板がみるみる槍に形を変える。
「せやっ!」
飛び退いたザザが立っていた屋根に、槍の穂先がぐさりと刺さった。
「まだまだじゃ!」
槍は自分から動いて、その切っ先をザザに向けて空中を縦横無尽に飛び回る。魔法で対処しようにも、槍の動きが早過ぎて、魔力に集中できない。逃げ惑うばかりだ。
「は!」
見えなくなったと思った槍が背後の闇から突き出る。風を感じて間一髪で避けはしたが、服が大きく裂けてしまった。屋根の上で平衡を崩したザザは頭から落下する。
「受けよ!」
なんとか絞り出した魔力のおかげで風が体をすくい、激突を免れた。しかし、地上では風の力は、空中ほど強くはない。身軽に避けるには不利な状況だった。
「一本では避けるか。では二本では?」
スーリカは再び屋根板を剥がした。同じ槍がもう一本出現する。
「嬲ってやろう。そら!」
スーリカの背後に引いたやりが、空中で交差する。その切っ先はザザの両眼に向けられていた。
「光を失え!」
目がやられる!!
刹那、がきいと大きな音がした。思わず両手で塞いだ目にはまだ眼球は残っている。
「ザザ!」
目の前に頼もしい背中がある。ギディオンが剣の腹で槍を叩き落としたようだった。
「探したぞ! 離れるなと言ったはずだ!」
「すみません! でも」
「魔女スーリカか!」
ギディオンはザザの言い訳になど耳を貸そうともしなかった。
「いかにも。妾はスーリカじゃ、そなたは……」
スーリカはドーム屋根の上で目を細めた。よく見えないのだろう。
「そこなる小さき魔女の主じゃな……妾好みの良き声じゃ。だが、これは好都合。パージェス軍の将官か。しかも相当の手だれと見える。主従共々一息に串刺しにしてやろう。感謝するが良い」
スーリカが言い終わらぬうちに、二本の矢は四本に分裂した。半分ほどの大きさだが、攻撃は二倍になる。
「行け! 我が憎しみの槍ぞ!」
四本の槍は一斉に二人に襲い掛かった。ギディオンはザザを庇いながら壁を背に応戦する。足手まといになりたくないザザは、できるだけ彼と距離を取ろうと考えた。
「少し先に並木があります。そこまで走ります!」
「よし! 先に行け」
ギディオンのおかげで少し余裕ができたザザは、走りながら魔力を練った。一旦、冷めかけていた胸の輝石は再び熱を持ち始める。
槍が一本追いかけてくるが、小刻みにじぐざぐに走ってなんとか回避する。
市庁舎前広場には樹木が多い。ザザは大きな楡の木の影に飛び込んだ瞬間、槍が深々とその幹に突き刺さった。
そなたの硬い皮膚で掴んで離すな!
ザザは楡の幹に語りかける。めりめりと樹の表皮が締まって盛り上がり、矢は動けなくなった。
「ギディオンさま! こちらです!」
「おう!」
ギディオンはザザの方へ後退しながら、かんかんと槍を撥ねつけている。その巧みな剣技に痺れを切らしたのか、スーリカは近くの屋根まで降りてきていた。
「なるほど見事じゃ。だが、こんな技もあるぞよ」
スーリカは再び鎌鼬を起こした。
三本の槍と、風の刃が同時にギディオンに襲いかかる。ギディオンは腰を落として剣を薙ぎ、槍を二本払い落とした。だが明かりの少ない中で、見えない鎌鼬の攻撃を躱すのは不可能だ。
「だめぇ!」
ザザは咄嗟に目の前の槍を引っこ抜き、樹木の力を借りてギディオンの前に跳ぶ。同時に見えない刃が魔女を斬った。
「ザザ!」
ギディオンの絶叫が木霊した。