68 魔女と城壁の戦い 1
山中に置かれたアントリュース守備隊の陣には、ひっきりなしに斥候からの報告が飛び込んできていた。
「敵の数はおよそ一千、おそらく第一陣かと。アントリュース川沿いの谷を続々と進軍してきております。あと二、三日で渓谷を出るものと思われます!」
「先頭には弓兵二百、その後ろに歩兵三百、騎馬二百、そしてさらに後ろから破壊槌を積んでいると思しき、巨大な筏が、多くの牛たちに両岸から引っ張られております!」
「ふん……破壊槌か。おそらくそれだけではないな、弩もくる」
ギディオンは精巧に作られた地形図を睨んでいた。
破壊槌とは城門を破壊する、先を尖らせた大きな丸太のことである。狭い峡谷を進むのに、分解した状態で筏に乗せて運んでいるということだ。
「敵の戦列の長さは?」
「一ファンサールよりは少し長い様子です」
「そうか……そんなに長いか。挟み撃ちには少し厄介だが、渓谷の入り口に近いところに川幅が狭まっているところがある。ここで前、そして谷の両側の三方から攻める。騎馬を叩き潰せば戦列は崩壊する」
「なるほど」
「先発部隊を一気に潰せば、チャンドラの士気は大いに下落するだろう。だが、これは綺麗事ではすまない。人が大勢死ぬ。覚悟はできているか? ザザ」
ギディオンは、邪魔にならないよう陣の隅の藪に座っている魔女を振り向いた。
「はい」
「恐ろしいものを見なくてはならないぞ」
「……はい」
ザザは慎重に頷いた。
恐ろしい風景。
それはかつて、ザザがギディオンの傷を癒した時に見た、悪夢のような光景なのかもしれない。それはスーリカの魔力の残像だった。
その中でギディオンは深く傷つき、倒れ伏していた。思い出した途端、吐き気に囚われる。
しかしザザは歯を食いしばって、その映像を振り払った。
そんなことにはさせない! 絶対に!
「申し上げます!」
また次の伝令が飛び込んでくる。
「敵の先頭部隊は今糧食をとっております。そして、数人の斥候と思しき男たちが旅人に扮して、部隊から抜け出て行きました。アントリュースの街へ向かうものと思われます」
「そうか。斥候か……よし!」
「ギディオンさま」
ザザが立ち上がった。
「……わかっている。行きたいというのだろう?」
「はい。私なら怪しまれません。商人に扮します」
ザザの髪は黒い。これはパージェスでは珍しいが、チャンドラではそうでもない。ザザがチャンドラの行商人の格好をすれば、まず疑われることなく斥候に近づける。
「だが、女一人の商人というのもあまりないな。俺も行こう」
「ギディオンさまが?」
確かに彼の髪も藍鉄色という濃い色合いだ。
「ああ。だが、俺の顔を知っているからその辺は考える。ザザ、共に行こう!」
「はい!」
「おい! あんたたち! アントリュースからやってきたのか?」
三人の男に声を掛けられ、行商人の老人と娘は足を止めた。男たちは商人にしては良い体格をしていたが、布に掛けられた大きな荷物を背負っていた。
「へぇ、左様でございます」
「俺たちはこれから商売で行くんだが、街の様子はどんなだい?」
「それがその……もう大変な様子で。なぁ? ジニー」
腰の曲がった老人はもごもごと言った。
「うん、おじいちゃん。突然眠り病が流行って、もう街の人の半分くらいは動けないって、お通夜みたいな雰囲気になってた。だからおじさんたち、あの街では当分商売はできないわ。ご飯が食べられないので亡くなった人もいるみたい。ほら見て」
ジニーと呼ばれた娘は街の方を振り返った。
「城壁の上にカラスが多いでしょう? あれは不吉なことが起きる証拠だってみんなが言ってた」
少女の言葉の通り、街の上には多くのカラスが飛び交い、曇った空の下で不気味な様相を呈している。しかもあちこちから細い煙が立ち上っている。
「あれは遺体を焼く煙よ」
娘は恐ろしそうに震えた。
「へぇ……怖いな。こりゃ商売は無理かな? 大きな町だから景気が良さそうだと聞いてやってきたんだが」
「あんたたちは大丈夫だったのか?」
「わしらは、チャンドラの薬を持ってたんで助かっただ。少しは人助けもしたし。だけんど、もう薬もなくなったし、いよいよ危なくなったで出てきたんでさ」
「兵隊さんたちはどうしてるんだい? 守ってくれないのか?」
「あんまり姿を見かけなかっただよ。眠り病は肺臓が達者な若いものからやられるって、偉い人が言ってただ」
「ふぅ〜ん。そりゃあ、危ねぇな。俺たちも引き返すか」
その時、男の一人が持っていた荷物の中から妙な音がした。
「……あんたたちは、何を売りに行くおつもりだったんで?」
「ああ、俺らは何でも屋だ。金になるならなんだって売るさ、ほら」
そう言って男の一人は荷物を包んでいた袋を開けた。するとそこには鳥籠が入っていて、一羽の猛禽が翼をはみ出させて怒り狂っていた。
「……なんだね? その鳥は、えろう暴れておるみたいじゃが」
「ああ、これは隼って鳥だよ。ちょっと前に飛んでいるところを魔女さ……俺の母ちゃんが捕まえたんだが、殺されるところで母ちゃんの指を噛み破って逃げ出した。それを俺が投げ縄で再びとっ捕まえたって寸法だ。けど、誰にも懐かんので街で売ろうと思って持ってきたのさ。向こうの貴族は鳥を使った狩をするって聞いて」
「ちょっと見せてくれんかのぅ」
そう言って老人は鳥籠を持ち上げたが、隼は鋭いくちばしで老人の指を突き、驚いた老人が籠を落として扉が開くと、あっという間に飛び去ってしまった。
「ああ! 売り物なのに、えらいすまん事をしちまっただ」
老人はすでに空高く舞い上がり、人間を嘲笑うように高く待っている隼を見上げた。
「ああ、かまわねぇよ。やっぱり凶暴なやつだ。珍しいんで俺がちょいと飼ってみただけだからな。それにアンタ達のおかげで街の様子が聞けたから、無駄足を踏まずにすんだし」
「おじさん達はこれからどうするの?」
少女が無邪気に尋ねた。
「元来た道を引き返すよ。あんたらは?」
「わしらはもう少し街道を北に回りますで。真冬に備えて金を稼がにゃあ、国へは帰れねぇ」
「そうかい。でも一つだけ言っておく。この先の渓谷にはしばらく近づかないほうがいいぜ」
「へぇ。でもなんで?」
「道中キナ臭い噂を聞いたんだよ。じゃあな、気をつけていけよ、じいさん」
そう言って男達は、来た道を引き返して行った。
「モスはやはり捕らえられていたんだな」
老人──ギディオンは高い空で舞っているモスを見上げた。隼は一声高く鳴く。自由になり、ギディオンに再会できたことが嬉しいのだろう。
「アントリュースに行き着く途中でモスは魔女につかまったんだな。往路だからと用心してモスに伝令缶を付けなかったのが幸いした。流行病の情報は得られなかったが」
「もしかしたら、モスの目を借りることができるかもしれません」
ザザも隼を見つめている。
「なんだって!?」
「つなぎの印は神羅万象の力を使うことができるらしいのです。もちろん、限界はあるでしょうし、魔女の能力にもよると思います。でも、うまく使えば動物の能力を借りることもできるかと。おそらく短時間でしょうけど。だから、私がもしモスの視覚を借りられたら、少しはお役に立つでしょうか?」
「立つどころの騒ぎじゃない! 俯瞰で見られるなら敵の様子が手に取るようにわかる! すごいことだ、ザザ。お前の魔力はどこまで成長したんだ」
ギディオンは、どんどん逞しくなる自分の魔女を見つめた。
見かけは初めて会った頃とほとんど変わっていないのに、体から滲み出る熱と力は、まるで別人のようだ。
「いいえ、私の力ではないのです。母の手記にあったのです。この石が私の魔力を増幅させてくれます」
ザザは胸元から石を取り出してギディオンに見せたが、その石が彼の大叔父から受け継いだものであることは、まだ言わなかった。
間近に迫った戦いに集中しているギディオンを、自分のことで煩わせたくなかったからだ。
この一件が終わったら、全て伝えよう。
私のお母さんやお父さんのことを、全部。
「ギディオンさま、モスを呼んでください」
「よし!」
ギディオンは大きく腕をあげる。
隼は矢のように舞い下りた。




