65 魔女と大魔女 2
「かつて古王国に黒の十年、と呼ばれた時代があった。妾は放浪の末、ある貴族の家の男を主と定めた」
スーリカは低く話し始めた。
夜はますます深くなる。真夜中まであと半時というところか。
黒の十年とは、パージェス古王国の有力貴族の血が半分以上絶えた、内政争乱の時代のことである。
ある家は不正を暴かれ、ある家は冤罪をかけられた。裁判のない処刑や追放が行われ、密告や監視が横行した。
そしてその裏で暗躍したのが魔女という存在だった。
スーリカが主と定めた男は、古王国の身分の高い貴族の嫡男だ。
しかし、男はスーリカを己の魔女とは認めなかった。自分を彼女の主人だとも思わなかった。彼は美しい妻と深く愛し合っていたのだ。
多くの魔女にとって、その主に妻がいるかいないかは、問題ではない場合もある。
魔女にとっては主に仕え、その望みを叶える役に立つことこそが喜びだからである。たとえそれが邪な望みであっても。
主人たる男は家族があっても、魔女を利用し、使役して己が利益につなげようとする。そして魔女は主人にのみ仕え、その見返りに一生涯そばに置いてもらうのだ。
だが、スーリカが主と定めた男は、彼女を使役せず、彼に執着する魔女を厭うて遠ざけようとした。
「だが、妾は我慢ならなかったのじゃ。あの方が愛おしくてならなった。妾一人が傍にいたかった……なのに、あの方の隣にはいつもあの女がいる。にくいあの妻が!」
「……」
ザザは苦しい思いでスーリカの話を聞いていた。一部の情念の強い魔女は、主を自分に取り込んでしまう場合もあると、ウェンダルの書物に載っていた。それを読んだ時、ザザはなんとなく共感を持ってしまったのだ。
もしギディオンがフェリアと結ばれたら、自分もスーリカのようになるのだろうか?
小さな唇が噛みしめられる。
「それで妾は最後の手段をとった」
スーリカは主に執着するあまり、彼をチャンドラ国境まで攫った。魔法で眠らせ、手足の自由を奪ったのだ。
拐われた男の怒りは凄まじかった。スーリカは更に薬を飲ませて、男の気力を抜かねばならなかったほどだ。
しかし、男は剣で自分を傷つけてまでも自我を取り戻し、怯んだスーリカに深手を追わせ、魔女が持っていた視神経を犯す毒薬を彼女に浴びせかけてしまった。
スーリカの視力を奪った隙に、男は逃れることに成功する。逃げた先はアントリュースの街だった。
街には男の妻が彼を探してたどり着いていた。再会した二人は足取りを隠すため、王都に向かう南の街道は使わず、北の門を通ってアントリュースの街を出た。北の街道を辿って迂回しながら逃れるつもりだったのだ。
傷をなんとか塞いだスーリカは、怒涛のように二人を追いかける。自分が作った毒薬で視力を奪われたスーリカは、気配と執念だけで二人に迫った。
「そして妾はやっと見つけた。二人は北の山中の洞窟に隠れておった。私の視力はほとんど失われたが、暗闇の中でなら少しは見えたのでな。すぐにわかった。二人は一つのマントに包まって寄り添っておった」
「見つけて、どうしたのですか?」
答えは聞かなくてもわかっていたがザザは尋ねた。
「まず女を殺した。洞窟にぶら下がっていた氷柱で体を貫いてやったのだ。あの女にしては美しい死に様であった。そしてあの方は……」
「あなたのあるじさまは」
「……妾は主を殺せなかった。主の死は妾の死だ。しかし、愛しさ余って憎しみの感情も抑えきれなかった。あの方は、あの女を貫いた氷柱で我を殺そうとしたのだ。おお! 血まみれの美しい氷柱よ! 私は魔力でそれを奪い、あの方の腹に突き通したのだ! おおおおお! 許し給え!」
スーリカは今、洞窟の中にいるのだと、ザザは思った。
たった今、男の妻を殺し、自分の主を刺したのだ。魔女は髪を振り乱し、背中を反らせて慟哭している。鋭い爪で掻き毟ったため、皮膚が破れて顔に幾筋も血の糸が垂れ下がった。
「……その方はどうなったのですか?」
「シルワームの繭を編んで大切な体を包み、氷の下で眠らせた」
「……っ!」
シルワームの繭。
それは致命傷を負った人間を、長い時間をかけて眠らせたまま癒す魔法のことだった。
絶命さえしていなければ、たとえ何十年かかっても傷や病を治すことができる。ただし、その魔法を使える魔女は、よほど強い力を持つ者でなければその術を施せない。
ザザは、シルワームの繭から蘇った人間のことを記した文献に出会ったことがなかった。
「妾は念入りに繭を編んだ」
その効果が達成されたとき、施術者にはそのことが伝わる。あとは繭が自然に解けるのを見守るのみである。
「繭の効果は確実だが遅い。しかも洞窟内の氷の奥深くに閉じ込めた故、あの方が目を目を覚ますのには更に長い時間がかかる。だが、構うものか。その間にあの方は女のことなど忘れてしまうだろう。妾はただ待てばよいのだ。魔女とは待つ者である」
そう。魔女とは、いつまでも待つ存在なのだ。
「妾は彼の方の服を全て剥いだ。身に付けたのは、妾の血が付いた宝剣のみじゃ。柄に嵌め込まれた石だけが輝いておった。ああ、愛おしい体、手足、そしてお顔! 妾はその全てに口付けて丁寧に繭に包み込んだ。そして、青く美しい氷の底であの方は眠りにつかれた」
「……」
うっとりと遠くを見つめるスーリカだったが、すぐにその顔が険しくなった。
「だが、妾もまた捕らえられてしまったのじゃ。憎きパージェスの追手に!」
男の忠実な部下たちと、友人の貴族、そしてその配下の魔女たちに、スーリカは追い詰められた。
彼女の魔力を持ってすれば、通常なら取るに足りない数だったかもしれない。しかし、その時のスーリカは視力を奪われ、腹に深い傷を負っていた。しかも、シルワームの繭という、大魔法を使ったばかりだった。
取り囲まれたスーリカはさらに傷を負い、ついには捕えられて、チャンドラ国境の深い山中の牢獄に閉じ込められてしまった。魔力を封じる枷をはめられて。
「妾の傷は深く、魔力は封じられた。このままでは死を待つのみと悟った妾は、最後の執念で自らにシルワームの繭を施したのじゃ」
「自らに術を……」
「そうじゃ。妾は長い眠りについた。数十年ののち、チャンドラ太守の若君が妾を解放するまでな」
「……」
チャンドラは謎の多い国だ。パージェスを追放された魔女の多くが逃げ込んだ国でもある。スーリカの傷が癒え、繭の効力がなくなった頃、彼女を解放できるものがいたとしても不思議ではない。
そこから魔女スーリカとチャンドラとの関係が生まれたのだ。
「何十年か眠った後、妾は目覚めた。直ちにあの方を隠した洞窟に向かった……しかし、あの方はすでにおられなかった。妾のおらぬ間に術が完成し、別の誰かに繭を解放されていたのじゃ! その上、あろうことか、既に亡くなられていることもわかった! おお! 妾は眠りすぎたのじゃ! おお! おお!」
スーリカは両手を暗い天に向かって突き上げた。
「妾のグレン……グレンディル・セルヴァンティース様!」
その名を聞いた時、ザザは愕然と体を震わせた。
グレンディル・セルヴァンティース。
母の手記で見つけた、それは自分の父の名だった。
この項を書くにあたって、第一章の最後の部分を書き変えました。
ザザの母の日記の部分です。