39 魔女と王宮 1
第二章では大きな出来事がいくつも起きます。
その日、ギディオンから急な呼び出しがあったのは、学問所で午後の授業の終わりのことだった。今学期最後の授業の日だ。
今日の薬学の授業は講義の後、主題となった植物から薬効成分を抽出する実験だった。
「皆さん、薬液を抽出できましたか? 黄色が鮮やかなほど純度が高いものになります」
「ザザ先生、どぉ?」
アロイスが自分の乳鉢をザザに差し出した。かなり黄色い液体が絞り出されている。
「これはいいですね。では、葉っぱのカスを取って瓶につめてください。今夜のお風呂に使うと、体が温まりますよ」
ザザは周囲から次々に差し出される鉢を見て回った。湯に入れると温浴効果を高める薬液なのだ。
「皆さん、上手にできましたね」
「でも、ザザ先生のはすごく黄色じゃないか。俺のはちょっと緑っぽい」
「俺のはなんだか濁ってる」
みんな抽出した液体を詰めた瓶を比べ合っている。陽に翳すとただの綺麗な水で、少年たちはこんな色水遊びが大好きなのだ。
学校で使われる薬草は、王宮の薬草苑で栽培されたものだ。ザザは講義だけでなく、実習を交えた授業の手伝いをするのが好きだった。
そこに呼び出しがかかった。至急とのことだ。ザザはもっと相手をしてほしい少年たちの不満に謝りながら、教室を出た。
ワレンの教官室に戻ると、伝言を持ってきたのはギディオンの副官、フリューゲルだった。
「ザザ殿、こんにちは」
いつものようにすらりとした長身に濃紺の近衛の隊服が似合っていたが、声と表情には真摯な色が滲んでいる。
先日のことでギディオンにだいぶ絞られたのだろうが、彼自身もいろいろ反省したのだろう。
「話しかけてもよろしいでしょうか?」
フュルーゲルはやや距離を置いて立っている。ザザを怯えさせないようにと言う配慮のようだ。
「今日は。どうぞ」
「先日は大変ご無礼をいたしました」
そう言いながら青年は深々と腰を折った。
「先日のことはもういいですから言わないでください」
「わかりました」
フリューゲルはおとなしく言った。
「それに、わたしはザザ殿でなく、ただのザザです」
「はい、ではただのザザさん」
そこで初めてフリューゲルは微笑んだ。
「ギディオン殿から、急いで桜花宮に来て欲しいとのご指示です。わたしがご案内します」
「わかりました。ではすぐに参ります」
「あ、ちょっと!」
理由も聞かずにザザが出ていこうとすると、慌てたようにフリューゲルが声をかけた。
「そのままの格好で行かれるおつもりですか?」
「え? 何か問題でも?」
「問題というか……」
フリューゲルは失礼にならないよう、遠慮がちにザザの着ているものや髪を眺めた。
ザザは学問所での作業服である灰色のワンピースを着ている。別に汚れたりはしていない。長い黒髪は後ろでまとめてあった。
「桜花宮はフェリアさまのお住まいですから、それなりの服装をしなければならないかと。ギディオンさまもきっとそう思われます」
「そうなのですか? ではすぐに部屋に戻って着替えてきます」
すぐにでも駆け付けたいザザだったが、ギディオンの名前を持ち出されると弱い。
それにどうせ王宮に戻るのだから、自室に寄ってもたいした回り道にはならないのだ。薬草苑の裏にもらった部屋には、以前フェリアからもらった服が何着か置いてある。それを着れば問題ないだろう。髪は仕方がないので、服と共布のリボンを結ぶだけにした。
きれいに手と顔を洗って着替える。小さなホールでは、フリューゲルがさっきと同じところに立っていた。
「すみません、お待たせしました。これでいいですか?」
「……そうですね。服は大丈夫でしょう。ちょっとこちらに座ってくださいませんか?」
フリューゲルは不思議そうな顔をしたザザを脇の椅子に座らせると、手袋を取ってするすると髪を編み始めた。両側に太い三つ編みを作ってそれを後頭部で巻き上げていく。ピンはないので、髪で髪をまとめる器用な手腕だった。
「すごい……あっという間にこんな上手に髪が」
窓ガラスに映った自分の髪を見て、ザザはすっかり感心してしまった。
「俺は三人姉妹の真ん中で育ちましたから。見様見真似です。リボンを巻いて出来上がり、ほら」
「フリューゲルさまのお家は、貴族さまですか?」
「いえ、ただの地方の貧乏郷士ですよ。では参りましょうか?」
門衛が珍しそうに見送ってくれる中、二人は揃って薬草苑を出た。
「立派に先生を務めておられるのですね」
「ただの助手ですけど、子どもたちを見ていると自分の成長にもつながるようで、興味深いです」
「真面目でいらっしゃる」
程なく桜花宮の正門となり、フリューゲルは門衛に一言告げて脇の入り口から内に入った。
外観と同じく、若い王女の住まいにふさわしい、可愛らしく上品な宮である。
ザザはすぐにでもギディオンに会えると思っていたが、何か子細があるようで、フリューゲルとともに一階の小部屋で待たされることになった。
「どうしたんでしょうか? 何か悪いことでも……あの……刺客さんのことで?」
ザザは声を潜めて言った。
「いえ、今のところそれはないです。男は厳重に守られていますし、もう聞き出せることもないようです。今は情報分析の段階だろうと。あ、これは内緒ですよ。また余計なことをって指揮官殿に叱られてしまう」
「大丈夫ですよ、わたしから尋ねたことですから。叱られはしません」
ザザは微笑んだ。だいぶんフリューゲルにも慣れてきている。
「あの方が危ないことにならないのなら、いいのです」
「指揮官殿はザザさんのことを、とても大事にされているのですね」
フリューゲルは感慨深げに言った。
「え? どうしてですか?」
「この間の事もそうでしたが、今日も念入りに怖がらせないようにと、何度も念を押されましたからね。じゃあ私以外の人を頼めばいいのでは、と提案すると。それはダメだ、あの娘は人見知りをするから、お前のような奴でも、見知っている人間がいいのだと言われて。くれぐれも言動に気を付けろと怖い顔で言われましたけど。幸いザザさんは、私に悪感情を持たないでいてくれたようですし」
「……」
「全くよく、あなたを気にかけておられるのだなぁと」
「そんな……フュルーゲルさまこそ、ギディオンさまを敬愛されているでしょう」
「もちろんです。ギディオン・エル・セルヴァンティース閣下は、勇敢で沈着な素晴らしい戦士です。だからわたしは彼の方についていくために、近衛に入ったのです。幸い、推薦してくれる人もいたもので」
「推薦がないと近衛隊には入れないのですか」
「ええ、主な任務が王宮や王族型の警備ですから。そして、ギディオン閣下を近衛騎士に引き抜いたのは王太子のレストラウ殿下だと、もっぱらの噂です」
「おうたいし殿下……この国の王子様、ですか」
「ええそうです。ご存知ですか?」
「お名前だけは」
いくら世間知らずのザザでも、王太子がこの国で二番目に身分の高い人だと知っている。いったいどう言う経緯でそんなことになったのだろうか。
フェリアさまと王太子さまはご兄弟。だったら、そこにギディオンさまと、何かつながりがあるのかもしれない。
「失礼いたします。ザザ様、お待たせいたしました。どうぞ上にお越しくださいませ」
侍従が入ってきて、ザザの物思いは中断された。
「ザザさん、では参りましょうか?」
フリューゲルが立ち上がる。
「上。そこにギディオンさまがいらっしゃるのですね。もしかしたらフェリアさまも?」
「はい。あの方はフェリア殿下付きの……最も信頼されている護衛騎士ですから」
フリューゲルは感慨深げにそう言い、侍従の後に従った。ザザも後に続く。
ホールの大階段ではなく、奥の階段を使うようで宮の奥に進む。どこまで行っても淡い紅色と白を基調にした名前にふさわしいきれいな宮だった。
奥の階段は周り階段になっていて、踊り場でギディオンが待ち構えていた。
「ザザ! 突然すまなかったな。フリューゲルもご苦労だった」
ギディオンは駆け寄るとザザの手を取った。力強さと温かさがザザに流れ込む。
「あの……なにが、なにがあったのでしょう?」
「こんなことは滅多にないんだが……フェリア様が癇癪を起こされてな。急にお前に会いたいって言われたんだ。さっきまでは大騒ぎだった」
ギディオンは困り果てた様子だった。
「フェリアさまが?」
ザザは驚いた。まさかこの宮の女主自身から呼び出されたとは思っていなかったのだ。
「で、今は俺も部屋に入れない。だから、仕方なくお前を呼びに行ったという訳なんだ。なんとかしようと女官がいろいろ宥めたりして今までかかった。薬草苑の仕事もあっただろうに、本当にすまない」
「いえ、お呼びを受けて嬉しかったです。えっと、それで私はなにをしたらいいのですか?」
フェリアのご機嫌をとることなど、気の利かない自分などができるはずはない。でも失敗したらギディオンが叱られるかもしれないと、ザザの緊張が高まる。
「姫君のご不興の理由はいくつかあるようだ。一つは愛犬のアレックスの具合が良くないこと」
「犬、ですか?」
予想もしていなかった事に、すっとんきょうな声が出る。
「それもある。とにかくご様子を見てきてくれないか? ああ、こちらが侍女頭のアンヌ様だ」
「……はじめまして。アンヌと申します」
すたすたと階段を下りてきたアンヌは威厳のある中年女性だった。彼女はザザを値踏みするようにジロリと見たが、丁寧に腰を折って挨拶をした。
「ザザと申します」
「こちらへ、お願いします。お一人で」
「は、はい!」
アンヌはザザを伴ってどんどん進み、いくつかの美しい部屋を抜けた。キンシャやセリカ、顔を見たことのある幾人かの女官が控えている。ザザが見知った顔に頭を下げていると、アンヌは一番奥の部屋の前に立った。
「姫様、ザザ様をお連れ致しました。中に入っていただきますよ」
アンヌはザザがぎょっとするほど断定的な言い方をして、中の気配を伺うと、扉を開けてザザに入るように促した。ザザは恐る恐る、足を踏み出す。
後ろで閉ざされた扉に心細さを感じながら、ザザは美しい部屋の中を進んだ。
窓の日よけ閉められていて、部屋の中は少し暗い。室内は他と同じように白と桃色で統一されているが、今は彩度を落として静まり返っている。
中央に大きな天蓋付きの寝台が置かれていた。天蓋からは豪奢な布が下がっているが、それも皆下ろされている。
「ふぇ、フェリアさま、ですか? ザザです。参りました」
部屋には人の影は見えなかったが何か言わねばと、ザザは寝台に向かって話しかけた。
「ここよ。帳の中に入ってきてちょうだい」
中からくぐもった声がする。
王女、フェリアだった。
本日、あまりめでたくもない誕生日でした。
そういうわけでスタートしたのです。
どうぞよろしくお願いします!