1 魔女と騎士 1
ザザが自分のことを「私」でなく、「わたし」とするのは設定です。
<プロローグ>
扉は閉ざされている。
前には進めない。
わたしは忌むべき存在、穢らわしい女なのだ。
長いこと翠の闇の中で立ち竦んでいる。
けれど待っている。長いこと待っている。
あなたが誰なのかわたしは知らない。どこにいるのか、いつ来てくれるのかも。
なのに身の内で溢れそうになるものを抑えきれない。
ああ──どうか 早くわたしを みつけて。
< 1 魔女と騎士 1>
パージェス古王国は、北に辺境、東に山脈、南に平原、そして西は海に囲まれた大陸一の古い王国である。
西の沿岸部に近い王都パレスから、馬で二日のところに深い森があった。
その朝、ザザはいつものように、薬草を取りに獣道を進んでいた。
季節は夏の盛りである。森の中は明るかった。
いい天気が続いたから、きっと薬草がたくさん取れるわ。もしかしたら薬石も見つけられるかも。今日は少し足を伸ばしてみよう。
ザザの足取りは軽い。いつもの黒い服の下はシュミーズ一枚、素足に冷たい草が気持ちがよかった。 伸びるに任せた長い髪が絡み合いながら腰のあたりで揺れている。小さい顔にやや大きすぎる目は、人と会うときは伏せられがちだが、今は柔らかな表情を浮かべていた。
その髪も目も、夜のように真っ黒だ。
この国では黒は不吉な色とされている。人々の色素は薄く、黒髪、黒瞳のものはほとんどいない。
しかし、ザザは平気だった。そもそも自分の姿形のことを気にしたことがない。
獣道はますます細くなり、森の奥に続いていた。
森の奥と言っても、ザザの住まう古家がすでに、人里離れた森の中だ。
訪れる者と言えば、数年前に亡くなった師匠のドルカが許した数人の薬商人だけで、ザザは年に数回訪れる薬商人に、調合した薬と引き換えで森では手に入らない日用品を得る。
いくら人と交わるのを避けていても、最低限の布や塩は生きていくのに必要なのだ。
薬商人は、ザザをただの森の娘だと思っている。ただ、ザザの作る薬は少量だがよく効くと評判らしく、季節の変わるごとに必ずやってくる。
しかし、その彼らも決して友好的なわけではない。隠れるように森の中に住む黒髪の女を、彼らは決して同胞とは認めはしないのだ。
ザザは魔女だ。
混じり気のない黒い髪と目が、魔女である証拠なのだ。
だが、正確には魔女の末裔と言うべきか。
三年前に死んだ師匠のドルカは、ザザのことを最下級の魔力しか持たないと常々言っていた。なぜなら、彼女の魔女の印は、歳を経たドルカでさえ見たことのないものだったからだ。
ザザの使える魔法は、少しの風を呼ぶ力と、これだけはちょっと珍しい癒術だけなのだ。
魔女といっても、どんな魔法でも使える訳ではない。生まれ持った属性があり、強い魔法を使う時、その印が額に現れる。
それが魔女の印だ。
ザザの印は、初めてペンを持った子どもがぐるぐる丸を書きなぐったようなものだった。でたらめのようで、よく見ると妙な規則性も感じられる、不思議な印。
『こんな印は、どの書物にも記載がない。水・火・金・土・風のどの属性を示すものでもない。あえて言えば滅びの印とでも言うのかもしれないね』
魔女は滅びゆく定めなのである。
この国、パージェス古王国以外に魔女が生まれる事はなく、ザザの知る限り彼女より若い魔女はいない。ドルカも見たことがないと言っていた。もともと子どもを持つ者が少ない上に、生まれる子どもが魔女とは限らないのだ。
そして、数十年前のこの国の騒乱で、多くの魔女が殺されたり額を焼かれて追放され、多くの人々は魔女は過去の存在だと思われている。
『よくお聞き、ザザ。魔女は昔から人々の嫌われ者なのさ。それでも昔は魔力の高い魔女なら、恐れられたり敬われたりしたこともあったんだけどね。今じゃ、魔女もほとんどいないし、皆忘れちまった。だからあんたみたいに力のない者は蔑まれるのがオチさ。だからできるだけ、世間様に逆らわないように生きるんだ』
ザザは物心ついた時から、ドルカと旅をしていた。
大陸の辺境ばかりをさすらい、旅の薬師として薬を売ったり病人の治療をしたりしていた。
しかし、髪も目も黒い二人はどこに行っても気味悪がられ、親しく付き合ってくれた者はいない。癒術と言っても、重篤な症状が軽くなるだけで完治する事はそうそうないから、せいぜい通り一遍の礼を言ってもらえる程度だ。
また、時にドルカは薄昏い依頼を請け負うこともあった。しかし、その仕事をやり遂げても感謝されることはなく、用が済めば少しの金を投げつけられ、追い出されるようにその土地を去った。
二人は長い間、隠れるように暮らした。
そしてザザが十五歳になった時、ドルカは言った。
『あたしゃもうダメさ。死が近いんだ。魔力も、ほとんど底をついた。だから帰ろうと思うんだよ。え? どこにって? あたしにだって故郷くらいあるんだよ。生まれた村を出たのはずいぶん昔だし、その村も、もう残っちゃいないけどね。でも、死ぬ前に戻ろうと思う。私のおっかさんが封印した古い家が森の中にあるはずなんだ。薬になる草や土がある土地でね。役立たずのあんただって、薬草くらいは摘めるだろう』
そうしてザザはドルカとともに、パージェス古王国という国にやってきた。
その国は辺境などではなく、西の海沿いの古い歴史を持つ国だった。二人は王都から離れた森の中で静かに三年暮らした。
ザザが十八歳になった時、ドルカは眠るように死んだ。涙も祈りも墓もない。遺体を古家の近くで焼き、灰は水に流した。ドルカが水の魔女だったからだ。
だから何も残らない。それが魔女の死だった。そう教えられていた。
古屋は大きな樫の木の下に建っていた。許したもの以外誰にも見つからないのは、とうの昔に死んだドルカの母が、見えずの魔法をかけたためだという。
『ドルカのおかあさんも魔女だったの?』
『そうさ、おっかさんは土の印を持った優秀な魔女だったのさ』
『私のおかあさんは?』
『ユージェかい? ユージェは風の印を持っていたよ。だからあんたも少しは風を使えるのかねぇ』
おかあさん……。
ザザに母親の記憶はない。
ドルカは同じく魔女であったザザの母が亡くなる際に、赤ん坊だったザザを託されたという。
『魔女に父親はいない。気に入った男に子種をもらうだけさ。魔女は、生まれた子どもが魔女でなければ育てない。それ以外は捨てられるんだよ。でも、あんたには誰もいない。せいぜい私に感謝することだ。あんたみたいなぽんこつをここまで育ててやったんだからね!』
ザザはドルカの他には魔女を知らない。だから、自分の魔力を誰とも比べることができなかった。ただ、ドルカよりは役に立たない魔女だということは理解していた。
水の印の魔女ドルカは、条件が揃えば水を移し替えたり、地下水脈を探し出したりできたものだが、自分はほんの少しの風を呼べるだけだ。風の印も持たないのに。
それから二年。
今日もザザは一人で森の奥に入る。
傷や病に著効のある薬草は、森の中心部に入らねば見つからない。薬効のある鉱物は、薬草よりもさらに少ない希少なものだった。ザザは彼女だけが知っている洞窟や崖下に入り込み、朝早くから半日かけて、小さな籠を半分ほど満たす量の薬草や土くれを集めた。
「熱冷ましにはルビス、消毒用にはハッカリ、それから皮膚病にアロサイト入りの土、……今日はたくさん見つかった。夜までに干さないといけないな」
ザザは満足そうに小さな頭を振り上げた。
季節は夏の初めだ。
木漏れ日が下生えを黄色く照らしている。そろそろ昼も過ぎ、ザザはほんの少し空腹を感じた。
魔女は普通、一日に一度しか食事を取らない。いつもは夕方に食べるのだが、朝早くに家を出た時はお昼に食べることにしているので、ささやかな弁当を持ってきている。
家まで戻る途中に泉があった。ザザの住まいからそれほど遠くないところだ。そこで持ってきた弁当を食べよう。そう思ってザザは来た道を引き返した。
柔らかな風が黒い服の裾を揺らし、服よりもさらに濃い色の髪を撫でていく。
重なり合った高い梢からは、陽の光がうすい翠に染まって森を美しく照らしている。
その中でザザは、黒くて小さい染みのようなものだった。
ザザは小鳥の歌を楽しみながら、泉のほとりまでたどり着いた。早く歩いたせいで肌が少し湿っているから、泉の風が心地よい。ザザの歩幅で向こう岸まで三十歩程度の小さな泉だが、存外深くて、真ん中あたりの水はインクを流したように濃い青い色をしている。
ザザは泉を見渡せる小高い斜面に腰を下ろし、ポケットから古ぼけたハンカチ包みを出した。中には野菜を挟んだパンが入っている。今日は奮発して薫製肉も一切れ詰めたのだ。
朝早くから活動していた若い体はさすがに空腹を訴えている。
ザザが大喜びでパンにかぶりついた、その時。
突然、ザザは体に稲妻は走るような衝撃を感じた。
「な、なに?」
こんな激しい感覚は初めてのことだ。
何かがくる!
それは確かな兆しだった。
モノローグの前後は一行空けています。