少女の絵
元王子は付き合いが悪い。上から命令されない限りはどんなに予定がなくても、相手に下心が一切なくてもお茶会ですら誘いに応じない。
ただ一人だけ、ちょっと時間があって暇だからという軽いお誘いレベルであっても元王子は断るどころか喜んでついていく人がいる。
「画集か……いいなぁ」
命令されれば喜んで自らの命を掲げられるくらい大切な父親である元国王と昼食後の紅茶を味わいながら、優雅なひとときを味わっていたところだった。自分とそっくりな顔の父親から何やら不穏な言葉が飛んできて、元王子は口に入っていた紅茶の味が一気に苦々しく変わるのを感じた。父親が直接煎れてくれた紅茶を吐き出すわけにもいかず、グッと堪えて飲み込む。
元国王の屋敷の中庭にて、元王子は父親に呼ばれてお茶会をしていた。庭に植わっている木々の隙間から暖かな日差しが降り注いでいる。姿は見えないが時おり鳥の鳴き声のようなものも聞こえていた。
まだ自分たちが本物の国王と王子だった時代に別宅として存在していた屋敷だ。元がついた今はそのまま我が家として住み続けている。別宅とはいえ元は一国の王の所有していた屋敷である。そんじょそこらの貴族の屋敷と比べ物にならないほど大きい。
今日はいつも屋敷にいる間そばに控えている世話係のメイドたちすら見当たらない。元国王と元王子の二人きりだ。
なんとか紅茶を飲んだ元王子は小さく一息ついてから、人からよく双子かと間違われるほど自分と瓜二つの顔が憂いているのを見た。
「父上、何をそんな羨ましそうな声で言うのですか」
「画集のモデルの陛下が羨ましいなと」
その台詞にヘドロを口にしたような、心底嫌そうな顔をした元王子は直後目の前にいる人物を思い出し真面目な表情を取り繕った。
「……色々とギリギリなものが多いあれがですか?」
呆れた声でそう尋ねる息子に父親は目を見張った。
「なんで中身知ってるんだい? あの画集買ったとか?」
「あんな物買うくらいなら父上が出ている本を同額分買い占めますよ」
「即答とは本当ブレないよね君。それはそうと持っていないのに中身を知ってるのかい?」
父親の質問に息子は紅茶をもう一口飲んだあと、こめかみを抑えながら小さくため息をついた。
「購入した母上から……。見る気は一切なかったのですが、しつこく勧めてくるその強引さに負けまして」
ああ、と元国王も自分の妻の様子を思い出したのか、目を細めた。
「あそこまで興奮して叫ぶ母上を初めてみました。御年を考えていただきたい」
元気なのはいいことだがと、呆れた息子に表情を緩めながら父親は言った。
「画集を買ったばかりのときはページをめくるたびに一緒になって見ていた娘たちと黄色い声を上げてはその場で何度も体を跳ね上げていたからね。読み終わる頃には座ってたソファが一つ壊れていたよ」
「……落下時の衝撃に対する総重量と、匠のオーダーメイドで作った数人が一度で座れるソファ代の損失を考えていただきたい」
簡単に壊れないよう今度注文するときは鉄骨でも仕込もうかと考えながら、元王子は残っていた紅茶を一気に飲み干した。
「それにあの画集、あの男――陛下しか描かれていないではありませんか」
「自分が出ていたのかと期待していたのかい?」
「むしろ出ていなくて心底ホッとしました」
空になった紅茶をテーブルに戻すと、元王子は生真面目に言い放った。
「父上が出ない本なぞなんの価値もないのに……なぜあそこまで熱狂的になれるのかさっぱりわかりません」
そうはっきりと断言すると、元国王はかすかに眉をひそめながら首を傾げた。
「え、だめかなぁあれ。みんな細部まで丁重に描かれていたし、どの陛下も麗しくとても躍動感があった。特に最後の絵なんか一瞬目の前に本物の陛下が現れたのかと錯覚して思わず一礼しそうになったよ」
「……確かに、最後の絵に関しては私もあの女の見る目が少々変わりましたが」
そう言いにくそうにボソボソと答えた後、元王子は小さく咳払いをした。
「別に王宮御用達の著名な画家が描いたものではないのですから、どうでもいいではないですか」
「それはよくないっ!」
先程までの穏やかさはどこへやら。急に目を釣り上げ声を荒げた元国王に息子は驚いて声を失った。
「だって、自分の憧れの作者がだよ? これまで順調に本を出していたのにある日突然描けないと叫んで本を出さなくなったからこれが世に言うスランプなのかなと、陛下の弱――お願いして私の駒の中で一番のメイド長を世話係として派遣し彼女の様子を報告してもらいつつ、愛読者の一人として陰ながら見守っていたのに」
ここ最近何をしていたのですか父上と言いかけたが、早口でまくし立てる元国王からあふれ出るなんだかよくわからない圧力に気圧され、息子は黙って聞いていた。
「二ヶ月経ってようやく本ができたというからどんな話かと期待していたら、物語ではなく画集ときたものだ」
そう言った直後、先程までの勢いはどこへやら。眉をハの字に曲げると小さく肩を落とした。
「話がないのは正直少し寂しかったけど彼女の本の何冊かに私も出ているのだから、画集の中身の何枚かは私もいるかと思うだろう? でも見てみたら1枚もない。全部陛下だけだ」
元王子としては見る人を選ぶ、いろいろとギリギリの画集に登場できなかったことがなぜそんなに羨ましいのかまったく理解できなかった。
「そんなに欲しいならあの女に描いてもらえるよう頼めばいいのでは?」
「彼女は優しいからね。お願いすれば描いてくれるだろう」
そう苦笑しながら答えた元国王は、小さく首を横に振った。
「それは少女が描きたいから描いたものではない。頼んで描いてもらった絵はきっと陛下が描かれている画集より魅力がない――生きていない絵だ。流石に悔しいだろう?」
小さく微笑みつつもどことなく寂しそうな声に元王子は目を見張った。その言葉はまるで――。
「前から聞きたかったのですが、父上はあの少女のことは――」
言いかけた元王子の口元を、スッと身を乗り出した元国王は人差し指で塞いだ。
「それは野暮ってものだよ」
先ほどの憂いはどこへやら。自分に向かって微笑むその顔はいたずらっ子のようにも見えるし、または何かを隠しているかのようにも見えて元王子はなんと言葉を発すればいいのか迷い、口籠る。
そんな戸惑う息子に父親はますます笑みを深めた。
「そうだね、あえて言うなら――」
そう言って指を離した父親は立ち上がり、あたりを少し見回したかと思うと軽く手を叩いた。
「あの少女が困ることはしたくない、くらいには大切に思っているかな」
「困ること?」
「だって、悩んで手が止まって新刊が出なくなるのはなんとも言い難いくらい辛い!」
真面目な表情で力強く言い切るものだから、内容とのギャップに元王子はその意味を理解した直後につい吹き出しそうになり――なんとか表情筋を引き締めた。
言っていることがどうであれその言葉は紛れもなく本心のようだ。自分の考えすぎかと元王子は安堵する。無駄な心配をしたものだ。
「あ、そろそろ時間だね」
元国王の言葉に息子はもうそんな時間かと寂しくなった。楽しい時間は過ぎ去るのが早すぎる。
名残惜しい気持ちを抱えながら、元王子は静かに立ち上がった。
「父上、紅茶ありがとうございました。大変美味しかったです」
その言葉に元国王は満面の笑みで息子を見上げた。
「ありがとう! そう言ってくれるのは君だけだよ」
空になったティーカップをいそいそと片付けながら、弾むような声でそう答えた。
「誘っても誰も彼も忙しい、予定が詰まっている、紅茶アレルギーだって言って付き合ってくれないんだ。私はもう王ではないから遠慮することはないと言ってもよそよそしくてね」
「まだ慣れていないのでしょう。時が経てば解決してくれますよ」
「そうだといいなぁ。日々研究している特製ブレンドティーを披露したいのに」
憂いの吐息をつく元国王にその息子は父親に対する同情と周囲の理解のなさに怒りを覚えた。自分ならばどんなに予定が詰まっていようがすべてキャンセルして必ず会いに行くのに、と。
敬愛する父親が直接配合までして煎れてくれたブレンド紅茶。それだけでも天にも登る気持ちになれるのだ。なぜ誰も誘いに乗らないのか理解できなかった。
ただ少し嗅いだことがない香りで、甘いような苦いような渋いような辛いようなすっぱいような、口下手な自分には表現が難しいなんとも複雑な味なだけなのだが。
誘いを断る人たちに怒りを覚えながらも、大好きな父親との時間を誰にも邪魔されないのは元王子にとってはまさに至福の時。このまま永遠に続いてもらいたいと心の底から願っている。
相反する2つの感情は日々、元王子の頭を悩ませている。
元王子が去った中庭にて、元国王は木漏れ日が差す木々を見上げると、
「……少女から二ヶ月も大事な時間を奪った陛下の罪は重い」
そう零した元国王の目は微塵も笑っていなかった。




