74 ロタ、定年まで。イリカ、完成まで。
百六十七、
それからは、イリカの「いない」生活が始まった。
人工知能イリカとつながっていたタブレット端末は、役目を終えたため、ハヤミへ返却。
ロタは、元の「独りぼっち」に戻ったというわけである。
家にいる間は話し相手がいなくなり、もちろん寂しい。慣れるまでには数か月を要した。
とはいえ、通勤途中と勤務中は、今までと変わりはない。
原則、平日にはタブレットを家の外へ持ち出さなかったからだ。タブレットの故障や盗難、紛失を恐れたのがその理由である。また、タブレットでイリカとしゃべっているところを同僚などに目撃されても、面倒なことになるであろうし。変に勘繰られても厄介だ。
美少女ロボット製作は、あくまで個人的な老後の楽しみなのだ。法律には触れていないのだから、もしバレたらバレたで別に構わないけれど、こちらからわざわざ広める必要は全くない。
こうして、ロタは淡々とサラリーマン生活終盤を過ごしていった。
時折、ハヤミ、マノウ、クミマルたちからロタのもとへ事務連絡が入った。内容はいつも簡潔な物であった。イリカ製作は順調ですよと。
ロタも、「完成まで自分はもう関与しない」と約束した以上、質問は一切せず、そうですかと答え、お礼とねぎらいのみ述べるにとどめた。
まして、ロタから彼らへ連絡することは一度もなかった。
百六十八、
さて、イリカと別れてから二年になろうとする頃。
ある、春先の日。
朝、起きると、いつも通り、ロタは出勤の準備をする。
まずは、部屋で外国語の学習と筋肉トレーニングをする。計二十分程度。
いずれも、明確な目標があるわけではなく、教養と健康のためである。
それから、ひげをそり、洗顔の後、朝食。炊いておいたご飯と、野菜などの総菜。おかずは、買った物が多い。
食器を洗い、歯磨きを済ませ、背広に着替える。戸締まりを確認したら出発である。
最寄り駅まではバス。
駅では、売店で新聞を三紙、購入。リベラル、保守、地方。偏らぬように、三つ読んでいるのだ。
同じ売店にて優に三十年以上は買い続けているため、平日の朝には、あらかじめロタ用にこの三紙がひとまとめになってレジで用意されている。言わば常連、お得意さまである。
レジの店員たちは、パートなのか異動なのか、今や何回か「世代交代」をしているのだが、この新聞用意はずっと引き継がれており、有り難いことだ。
(だけど、それもあと一年だな。定年退職の日には、今日で最後ですと、お礼を言おうかなあ)
ふと、そんなことを思いながら、ロタは新聞を受け取る。
ホームに下り、列車に乗る。途中から地下鉄へ乗り換える。
職場までは、片道二時間。遠距離通勤である。
ロタも若い頃には、「今は実家暮らしだけど、いずれ結婚して、職場付近に引っ越そう」と計画していたが、それは叶わず、独身のままずるずると実家にて生活をし、やがて親たちも見送った。
今は独り暮らしだ。
ロタは、就職してからこの四十年、同じ住居、同じ職場を往復しているのだった。
職場は、ビルの一室である。仕切りは少なく、遠くまで見渡せる。ズラリと並んだデスク。
出勤すると、奥の重役の席へ座る。
「おはようございます」
男性の若手社員が、窓のブラインドを上げながら会釈してくる。
「おはようございます」
ロタもあいさつを返す。
やがて、皆も出勤してくる。
あとは、書類に目を通したり、部下に指示を出したりするロタ。
昔は、独身男性は管理職まで昇進しにくい風潮もあった。家庭も持てぬ男に上の仕事は任せられない、そんな暗黙の了解も存在したのだ。
だが、近年はこの傾向も崩れている。昔に比べ、独身の者が珍しくなくなったからであろう。
ロタも、自分がいる部署では最も高い地位にある。学歴などから勘案すると、これ以上の出世は不可能だったはずだ。
(女性には全く縁のない人生だったけど、仕事は順調だったよな。まあ、よかった)
最近、ロタはつくづくそれを感じる。
「ロタ君、定年後は何か予定とかあるの?」
昼休み、デスクにてぼんやりしていると、同期の同僚女性が声をかけてきた。
パンツスーツ姿。髪は短め。ロタと同い年であり、定年退職予定の日も同じ。
ロタは顔を上げ、
「いや、特には。まあ確かに、あと一年だからね。いろいろ考えはするけど、なかなかね。やっぱり、御夫婦で旅行とか?」
と、聞き返す。
この同期女性は三十代半ばの頃に結婚、やがて出産。息子が一人いる。
「まあねー。息子も独り暮らしを始めたし、しばらくはのんびりだろうね。
ロタ君、ちゃんと、外、出なきゃ駄目だよ。なんか、仕事辞めた途端、気が抜けちゃいそうだから」
「ああ、それは自覚してる。休日は大抵、家にいるしね」
「山登りでも始めたら?」
「そうねえ」
ロタは語尾を濁す。
女性は呆れ顔で、しかし親しげな笑みも添えて、
「とか言って、どうせやらないんでしょー。考えてもないんじゃないの?」
「そんなことないわさ」
「本当かなあ?」
笑い合う二人。
若い頃から、同期として仕事の逆境なども乗り越えてきたので、仲はいいのだった。
そんな二人のことを、周囲の他の同僚たちも、ほほえましそうに眺めている。
人気者とまでは言えないが、その場にいる者と適度に打ち解けられるのは、ロタの持ち味である。
それは、イリカ製作でも生かされたし、もちろん、本業でも発揮されてきた。
かようにして、ロタの職業生活最後の一年も、それなりの繁忙を挟みつつ、大過なく流れていった。
同じ頃。
美少女ロボット・イリカも、静かに完成の時を迎えていた。
百六十九、
定年退職、前日。春先。
ロタは、マノウと電話で話していた。自宅にて、夜である。
「それでは、ロタさん、最終確認ですが、明日は、お昼頃に御職場を出られ、私どもの関連会社へ直行される、と」
電話越しのマノウの問いかけに、ロタが答える。
「はい、その予定です」
美少女ロボット・イリカは、半月ほど前に完成していた。
その旨は、既にロタへも連絡されていた。人工知能とロボットとの接続が行われ、無事に成功したのである。
ロタの定年退職の日に、イリカの「引き渡し」がなされる約束だったため、それに合わせ、イリカも首都圏へ移送されていた。
移送先は、マノウとつながりのある中小企業。ロボットの研究開発を請け負っている。ハヤミともつながりを持ち、秘密保持や技術面に関しては信用してよかった。
今、マノウが「関連会社」と言ったのは、その企業のことを指す。ロタも、下見やあいさつは済ませていた。
マノウは続けて、
「私も、おとといまでは、関連会社の方へも顔を出し、イリカさんの最終メンテナンスに立ち会っておりましたが、申しわけありません、明日は別件がございまして、地元を離れられません」
マノウの会社は、南方の遠い県にあるのだ。
それを踏まえて、ロタは、
「とんでもありません。むしろ、お心遣いに感謝いたします。イリカが首都圏に運ばれてからも、マノウさんは足しげく通ってくださったと聞いております」
と、ねぎらった。
なお、イリカの人工知能部分は、かなり前に一通りの最終チェックを済ませており、ハヤミの手を離れていた。
人工知能分野の国際的な権威であるハヤミは、イリカ開発以外にも、数多くの研究やプロジェクトを抱えている。最近はそれらにかかりきりであり、ここしばらくは海外にいる。
一方、クミマルも、明日は仕事で忙しいようだ。
「そうか、明日は、ある意味、俺は一人でイリカを迎えに行くわけだ、な」
マノウとの電話を切った後、ロタは、部屋でつぶやいた。
(それはそれで、なんか、すっきりしてていいかもな。イリカを造ってきた人がそばで見てるのも、照れくさいっちゃ照れくさいわな)
そうも思った。
明日は、ロタの「彼女」が完成し「納品」される日である。




