34 バイオニクス造形者、クミマル登場。
九十一、
二人は、それから一週間後に会った。
ロタは休日。場所はクミマルの会社である。
こぢんまりした規模で、一階が事務所・オフィス、二階はクミマルの自宅だ。
家族三人暮らし。
クミマルは既婚者であり、配偶者は一般の公務員。間に、中学生の息子が一人。
場所は首都圏である。住所は、ロタの家から電車で三時間ほど。駅からしばらく歩いた住宅街。
道順は分かりやすく、ロタはスムーズにたどり着くことが出来た。
広い交差点がそばにあるため、自動車の音がひっきりなしに聞こえるものの、それ以外は閑静な住宅街と言えそうだ。
(どうやら、慎ましく暮らしておいでのようだな)
社の外観を見たロタの、率直な感想。
会社兼自宅は、大きめの四角い形状、外壁は白。築十五年は優に越えていよう。あちこちが古びている。
門の近くに、縦長の看板。外壁に直接取り付けられている。
社名のほかに、「整体」の文字もあった。電話でも話していたとおり、整体での収入の方が多いのかもしれぬ。
看板の端には、「バイオニクス研究」の文字も。まさしく、イリカ製作への活用が期待される部分。
「バイオニクス、かあ」
看板を見上げ、ロタはぽつりと独り言。
バイオニクスとは、生体工学のこと。工学と生物学との境界を探求し、生物の機能を人工的に再現することを目指す。
医療へ特化した分野はメディカルバイオニクスと呼ばれる。ペースメーカー、人工の網膜や関節などだ。
クミマルも、様々なプロジェクトへ参画しつつ、いずれはそちらへ専門をシフトしたいと考えている様子だ。
「ふう」
ロタは、息をつくというよりは、わざとらしく声に出した。緊張を紛らわせたかったからだ。
一週間前の電話で打ち解けはしたものの、やはり直接会うとなると、また気分は違うものである。
何せ、相手は元プロレスラーなのだから。
本物の格闘家と面会したことなど、五十年の人生で一度も無い。気後れしてしまうのも無理はあるまい。
入り口のドアわきの、呼び出しベルのボタンを押すと、
「どうぞ、あいておりますよ!」
と、室内からクミマルの元気な声。インターホン越しではなく、直接叫んでいた。
ロタは、片開きのドアをガチャリとあけ、中へ足を踏み入れた。
九十二、
靴を履き替えるスペースはなく、土足でそのまま入る方式であった。ほぼ、段差もない。
目の前は、仕切りのない広い部屋。フローリング。床は、木目調のマイルドブラウン。
受付、テーブル等、ごく普通の設備も配置されてはいたが、
「うわ、ええっ。これは……」
目の前の光景に、ロタは驚き声を漏らしていた。
「ロタさんですか?」
クミマルは、ロタを見上げて尋ねてきた。
「は、はい。そうです、先日お電話した……」
「ああ、ホントですねえ。その声でした、その声でした」
クミマルは笑顔で言った。まだ、視線は低いままだ。
自分より長身の人と会うのだ。当然、終始見下ろされることを予測していたのに、よもや、初っ端から見上げられるとは。それも、床に近い低さから。
クミマルは、何と、仰向けに寝そべった姿勢だったのである。
手には大きなバーベル一つ。クミマルは、ベンチプレスでトレーニング中だったのだ。
背もたれのないベンチに横たわり、仰向けの体勢で、バー(シャフト)を首の位置で持ち、腕を曲げ伸ばしして、バーベルを上げ下げする運動である。
ロタは、クミマルがバーベルを元のラックへ戻すまでは、黙っていた。話しかけたら気が散り、危険だと思ったからだ。
バーベルを元通りにラックへ置いたクミマルは、むくりと起き上がる。汗だくである。
上半身は赤いタンクトップ。たくましい肩がむき出しだ。下は、ゆったりとしたグレーのジャージ。
「な、なんか済みません。トレーニングの最中に」
謝るロタへ、クミマルはカハハハハと豪快に笑った。
まゆ毛はハの字の角度で、心底申し訳なさそうな苦笑い。その表情で、高らかに笑ったのだ。不思議な感じだが、陽気な善良さが全身から放射されている。
「いやいや、何でロタさんが謝るんですか?
悪いのは百パーセント私でしょう。
お客様がいらっしゃるのに、ちゃんとアポだっていただいていたのに、こんな失礼な格好でお迎えするなんて。申し訳ありません。思ったより早くおいでになったので」
と、クミマルは言いながら、慌てたようにタオルで汗を拭く。顔、肩、首。だが、なかなか汗は引きそうにない。
「申し訳ございません、ちょっと着替えてまいります。あとシャワー……は無理ですね。ちょっと、ええ、体、拭いてきます、濡れタオルか何かで」
と、クミマルは一旦別室へ去る。
ロタの横を通り過ぎる際、横顔を見上げると、耳が平べったく「わいて」いた。長い格闘家生活のためか。
クミマルの体の厚みは、横はもとより、縦幅も相当なものであった。
この場に取り残されたロタは、所在なさげに室内を見回す。
今、もし新たな来客があったらどうしようなどと困惑しつつ、
(いや、多分、そんなに客もいないんだろうな)
失礼ながら、そうも思った。辺りは雑然としていたからだ。
顧客を広く浅く集めるのではなく、常連や、明確な目的を持った者を呼び寄せたがっている様子。ロタも後者に属するわけだが。
九十三、
仕切りのない、広いフローリング。
ベンチプレスの他に、トレーニング器具が数種。サンドバッグもある。恐らく、クミマル以外にも大勢が共同で使うのでは。一人用にしては立派だからだ。
本棚も立派だ。高さはないが、横に広い。人体や機械の専門書。一冊ずつが高額そうだ。
受付らしきカウンターの上には、腕の模型も三つ置かれている。先日のイベントで見た物ほどリアルではなく、簡易的なマネキンの腕を思わせる、柔らかなフォルム。
腕の模型以上に目を引かれたのは、カウンターの向こう側の、やや低い位置に置いてある、人形の頭部。
「すげえな、あれは」
見つけたロタは、口の中でつぶやく。
二メートルほど離れているが、際立つリアルさ。
そばに寄って触ってみたかったが、クミマルが戻るまではやめておこうと、身を乗り出して眺めるにとどめた。
「髪の毛」部分は作られておらず、ベージュのつややかな地が(恐らくプラスチック製)むき出しであるため、一目で作り物だとは分かる。
しかし、その下、額からあごまでは、しわの細部に至るまで作り込まれている。目も、生きているかのように光を反射させており、唇の濡れた感じまで再現されていた。
想定は、中年男性だろうか。
(映画の特殊メイクでも、これほどのクオリティの物はそうそうないんじゃないかな)
足音がしたので、ロタはそちらへ向き直る。部屋の奥の方だ。クミマルが戻ってくる音であった。
部屋の奥には、ソファーとテーブルセット。待合室みたいなコーナーだろうか、片隅にはポットとコップも並べられている。
「どうもどうも、済みません、お待たせして」
大きな声と共に、再びクミマルが現れた。
時間にして、三分少々か。
「おおっ」
ロタは、思わず感嘆のうなり声。
クミマルは上下とも着替えており、上は白シャツの上に水色の長袖を羽織り、下は濃紺のジーンズ。ラフな格好だが、不思議と決まっている。
それはやはり、見事な肉体のためだろう。
ロタは今、それに見とれてしまったのだった。
ロタの声に反応し、
「えっと、どうかされましたか?」
気のいい笑顔を見せるクミマル。
ロタは、
「いや、つい。並じゃない体をされているなあと」
「ああ、体ね。私、太ってますから」
ロタは首を大きく振り、強く打ち消す。
「いやいや、そうじゃなくて、鍛えてらっしゃるなあと」
「横に広いだけですよ」
クミマルはのんびりと言う。
太っていることを二度も自分で述べた以上、ロタとしても否定し過ぎるのは気が引け、
「いやまあ、確かに脂肪もあるのかもしれませんが、その下は筋肉でしょう。お体に脆弱さが見られませんから」
と応じた。
もちろん本音である。腹もせり出してはいるものの、緩んでもおらず、垂れ下がってもいないのだ。恐らくは、ガチガチに鍛え上げられた腹筋の上を、脂肪が覆っている感じなのであろう。
「ありがとうございます」
クミマルがはにかんだ。
ロタは付け足す。
「いや、でも、微妙な褒め言葉かもしれませんけど」
真意を読みかねたか、クミマルは無言で首をかしげる。
それに答えるように、ロタは言葉を続けた。
「……女性に対しては、ということです」
「ああ、なるほど、そういう意味ですね。ふふ、そんなことないですわよ。うれしい。鍛えた体は、誇りですもの」
一度真顔へ戻ったクミマルは、歯を見せ、改めて笑顔になった。今度は、ふわりとした、柔らかなほほえみだった。
そう、クミマルは元女子プロレスラー。
公務員の夫に、中学生の息子を持つ、一児の母であった。




