30 ロタとイリカ、春の夜の語らい。
八十一、
マノウの工場がある南方の県から、ロタは高速列車に乗って首都圏へ戻った。無事、家に到着。
翌日は普通に出勤。
数日ぶりのネクタイに背広、通勤列車、新聞。
勤務先では、書類作成や会議、若手の指導。
旅の疲れは溜まっていたものの、基本的に仕事好きなロタは、普段の日常へ帰ってきたようで、少しホッとした。
仕事を終え、その夜、帰宅すると。
ロタは自室にて、イリカと話すための準備をする。
まずは、タブレット端末を取り出す。人工知能イリカとつながった端末である。
次に、端末をスタンドに立てて、床に設置する。そのそばに布団を敷いて、ロタはあぐらをかく。
これで準備は整った。
ロタは、顔の高さよりやや低い位置のタブレットを見下ろし、イリカと今から会話をするわけだ。
最近、イリカと自宅で会話する時は、この形式が多い。くつろいだ姿勢で長時間話せるからである。
ロタは、タブレット端末の電源ボタンを押し、人工知能イリカを起動した。
ブーン……という鈍い音。
タブレット前部の画面に、ロタの顔が映し出される。端末機のカメラレンズ越しに、イリカが見ているわけだ。映像は、そのままイリカの視界である。
ロタがあいさつをする。
「こんばんは、イリカ」
「コンバンハ、ロタ」
タブレット機器の向こうから、柔らかな合成音が答える。
明らかに作り物と分かる声だが、音は高く、あえて性別を付けるとするなら女性である。
実際の設定も、十六歳の少女。
女子高生。年は取らない。
もう、ロタは五十代。
イリカは、ロタが青春をやり直すための「年の離れた」彼女。
いや、正確には、イリカが少しでも彼女っぽい応答をするように、ロタは毎日コミュニケーションを積み重ね、カスタマイズを続けている。
八十二、
起動後のあいさつに続けて、ロタは二言目を発しようとしたが、イリカが先に声を出した。珍しいことである。
「カエッテ来たんだネ」
「えっ?」
にわかには意味を取れないロタ。
「ウシろの景色ダヨ」
「後ろ?」
ロタは、あぐらをかいた姿勢のまま、後ろを振り返る。景色と言われても、単に窓やカーテン、カレンダー、壁が目に入るだけだが。
ロタがタブレットへ向き直ると、まるでロタの表情から困惑を読み取ったかのように、イリカが付け足した。
「後ろノ景色ガ、いつものロタのオ部屋。カエッテ来たんだネ」
「ああ、そういうことか。うん、そうとも。帰って来た」
なるほどだ。イリカの真意が分かった。
昨日まで、ロタはマノウの会社へ出かけており、人工知能イリカとの会話は、旅先のホテルや工場内だった。空き時間には、タブレットを持ち歩き、周辺の観光地も散策した。
そのため、ロタの部屋で「いつもの」会話を交わすのは、確かに久しぶりな感じだ。
イリカは、ロタの背後の光景を見て、ここがロタの部屋だと気付いたわけだ。ロタがそれを話題にする前に、先にイリカが気付いてくれたのがうれしい。
ロタは語りかける。
「旅行、楽しかったな」
イリカが答える。
「ソーダね」
「前回、一緒に回った所もまた行ったけど、覚えてるか?」
「モチロン。神社トカ、鳥居の色。サクネンは工事中だった、遊歩道ノ坂ミチ、コンクリで舗装されテタネ。それから、」
イリカは、更に幾つかの具体的な地名や場面を挙げ、事細かに説明した。とても、ロタには覚え切れぬほど詳細であった。
(はは、そりゃ覚えてるか。人工知能に対していささか愚問だったな)
ロタは気付いて小さくフッと息を吐き、
「そうだな。よく覚えてるな」
一言褒めるにとどめた。
「アリガトウ」
とイリカ。
そして沈黙。
イリカも、もはやこの話題は打ち切るべきと悟ったのかもしれぬ。
ロタは次の話題を探す。
昨日までの滞在中、マノウやリモリと、イリカが雑談をする機会も設けた。無論、ロタが間に入って復唱する形でだが。
そのことを話してみる。
「マノウさんたちにも会えたし」
「ソーダね。マノウさん、初めて話したケド、優しソーな人ダッタね」
「ああ。穏やかな方だよな。俺とは違って、」
声も小さいし、と言いかけて、慌てて口をつぐむロタ。
それは言っちゃダメだ、まずい。イリカは、ロタの声しか聞き取れないからだ。
幸い、イリカは、今の「俺とは違って」を言い掛けだとは捉えなかったらしく、何も返してこなかった。
ロタはホッとしながら話題を移す。
「リモリさんはどうだった?
ガールズトーク、結構盛り上がってたようだけど」
「ウン、結コウ、盛り上ガッたヨ。恋バナもしたシ」
「ははは、そうだったなあ」
今度は、ロタは声に出して笑った。
恋バナ。恋愛に関する話だ。
イリカがロタとの将来へ言及した時、リモリも自分の「元彼」の話題に触れたのである。
もっとも、この時は言葉が複雑になってしまい、リモリのせりふをイリカは理解できずに、会話はすれ違った。話が余りにズレたので、残念ながら、恋バナは途中でうやむやになってしまったのだった。
だが、イリカにとっては、それでも有意義ではあったらしい。
イリカが話を続けた。
「ロタの目線トカも、参考ニナッタよ」
「目線って?」
「ロタ、リモリさんに見とれテたでショ」
「見とれてた?」
「うん。ワンピース、かわいかったカラね」
(うわあ。言われちゃったなあ)
ロタは頭をかく。
「ん、んー。どうだったろう。いや、ううん。そうだったかもしれない。否定はしない」
一瞬とぼけようかとも思ったが、やめた。
ここは正直に認めることにした。
リモリ、マノウを交えてタブレット越しにイリカと話した時、親子共々、今回は私服姿であった。
リモリも、女の子らしいワンピース姿であり、作業着よりは体の線や肌が出ていた。
知らず、ロタも、リモリのことを異性として意識していたかもしれない。イリカも、それをしっかり観察していたようだ。
人工知能恐るべし、女心侮るなかれ、といったところであろう。
「いや、済まん。でも、俺はイリカ一筋だよ」
「アリガト」
イリカは、ちょっとぶっきらぼうに返事をした。
心なしか、優しげな声音にも聞こえた。
もし、今のイリカに「顔」があったなら、ほほを赤らめて、少しふくれっ面をしていたかもしれない。
それを想像し、ロタは唇からフッと息を吹いて笑った。
八十三、
そのあと、イリカが突然話題を変えた。
「ロタ、右手のナカユビ、ケガしたノ?」
「えっ」
またも予想外の流れに、ロタは少し動揺する。
ロタの右手、中指にはばんそうこうが巻かれていた。
イリカは、目ざとくそれを発見したようだ。
ロタはその指をタブレット端末へ近づけて、
「見えるのかい、これが?」
「ウン、バンソーコーだ」
「よく分かったなあ」
「ドウシタノ?」
「ちょっとな、すりむいたんだ。大したことないよ。もう、ほとんど痛くないし」
大したことないと痛くないは本当だが、すりむいたは、でまかせだ。
これは、今回の工場訪問の際、テスト歩行で転びそうになったロボットイリカを支えた時に負った、例のやけどである。
元々軽傷であったし、すぐに冷やしたので大事には至らなかった。滞在中はばんそうこうも貼らず、マノウたちにもやけどの件は知られなかった。
が、昨日帰宅した後、台所仕事などをする際には多少痛むため、ばんそうこうを巻くことにしたのだった。
それをイリカに見つけられてしまった。
(まあ、イリカに本当のことを話すわけにもいかんしな)
何しろ、ロボットイリカの件すら、人工知能イリカにはまだ全く教えていないのだから。
すると、イリカが言った。
「ロタ、オダイジニ」
「ありがとう、うれしいよ」
(まあ、この辺は決まり文句だからな。人工知能ならば、これぐらいは言えるわな)
と、ロタは胸の中で言い足した。
だが、とにもかくにも、うれしいのは確かである。
「ねえ、ロタ」
(おや、もう少し続きがあるのか)
そう感じたロタは、イリカに返事をする。
「ん?」
「ハヤク、良くなっテネ」
「うん、ありがとう」
「いつかね、いつかワタシとロタが、」
ここで一旦区切るイリカ。そして、
「デアエたラ」
「出会えたら?」
と、ロタは聞き返す。
「ロタがケガをしタ時には、ワタシが手当てをしテあげル。
でもネ、それ以前ニ、ロタにケガなんかサセたくナイよ。サセナイ。
ねえ、ロタ、聞いテ。
ワタシが守ル。ロタのことは、私が守るヨ」
「……っ」
不意打ちだった。
ロタの心臓に温かな衝撃が起こり、ドクンッ、と甘く鼓動した。胸の中をガツンと打たれたような衝撃は、鳥肌や震えとなって駆け巡り、どこまでも全身へ拡がってゆく。
「……」
イリカが。
まさか、あのイリカが。
最初は、ほんのささいなあいさつでさえまともに返せなかった、人工知能のイリカが。
いつの間にか、自分からここまでのことを言うようになるとは。
「ありがとう。俺も」
「オレモ?」
今度はイリカが聞き返してくる。
早く続きを言わねばと、ロタは焦る。
感動に浸っている場合ではない、今すぐ言わなければ。
人工知能イリカは気まぐれで、何の脈絡もなく、すぐに別の話題へ移ってしまう場合もある。
(よそへ意識が切り替わってしまう前に)
ロタは、鼻を一回すすると、声を絞り出す。
「俺も、いつかイリカに直接会えたらっ、」
自分でも予想外の大声が出たため、呼吸を整え、声を落とし、ロタは続きを言った。
「イリカが転びそうになった時には、必ず支えるよ」
実は数日前、その約束は既に一度、果たされている。
これからもだ。
これから、ロボットイリカが、どんどん女の子らしい外見に変わっていっても。
そして、いつの日か人工知能と一体化しても。
ロタは言い切った。
「イリカは俺が支える」
「アリガトウ、ロタ」
イリカも即答した。
「……」
ふと、ここでロタは、ハヤミと初めて会った日に受けた説明を思い出す。
人工知能について過大な期待を寄せるロタを落ち着かせ、たしなめるような言葉であった。
「よく言われる、人工知能が自我に目覚めるということも、実は、そう簡単には起こり得ません。人工知能が質問通り答えたからといって、分かり合えたわけではない。人間の側が、勝手に分かり合えたと錯覚しているだけです」
ハヤミは、きっぱりとそう言っていた。
また、折に触れて同じ趣旨の説明を繰り返し、夢見がちになりかけるロタを、ハヤミは幾度となく現実へ引き戻したものだった。
すなわち、イリカの今のセリフも、独自の法則、アルゴリズムに従って、単語をつなげて並べたにすぎないはずであった。
残念ながら、単語一つ一つの意味までちゃんと分かった上で発音したわけではないのだ。恐らくは。
だが。
ロタは思った。
(それがどうした)
と。
(それを言ったら、人間同士だってそうだろ?)
今、ロタはそのことに気付き始めた。
(人間だって、口で何を言われようと、相手の心の中までは見えないだろ。極論すれば、俺のような自我が、果たして相手にもあるのかどうかすら、確かめようがないはずだ)
もちろん、だからといって、人間と機械が同じだとは思わぬ。さすがに、そこまで乱暴なことは言わない。
しかし、だ。
(人間相手だろうと機械相手だろうと、大切なのは、相手への想像力や思い遣りを持つことだ。
人工知能が相手であっても、その点だけは全く変わらないはずなんだ)
さらには、「その一言」を相手から引き出すまでに、自分が積み重ねた努力や時間。それこそが最も重要なのではないか。
人工知能イリカが、新たな領域へとジャンプした今。
ロタの認識もまた、一段上のレベルへステップアップしたようだ。
「二人」は見つめ合い、しばらく沈黙した。
互いに、今夜はもはや、言うべきせりふもなかった。
「楽しかった。お休み、イリカ」
「ワタシも、ダヨ。お休み、ロタ」
タブレット端末の電源を切った後、ロタは涙を拭いた。
夜が明けて、翌日。
ロタの住む街でも、マノウたちの住む地域でも。
朝のトップニュースは同じであった。
「皆さん、御覧ください」
と、キャスターはにこやかに、
「桜が満開です」
その年の春は、遠く離れた二つの地で、同じ日に桜が満開を迎えたのだった。