20 イリカちゃん、あのね。
五十七、
「イリカちゃん、あのね、」
と、リモリはタブレット端末へ語りかける。
それを聞いたロタも、
「イリカちゃん、あのね、」
と、全く同一の言葉を繰り返す。
イリカが聞き取れるのはロタの声だけ。
だから、リモリのせりふを再度ロタが言う。
テーブルに載ったタブレット端末を、椅子に座ったロタと、そばに立つリモリがのぞき込んでいる。マノウはいつしか離れていて、今や画面には映っていない。
画面中央にリモリ。ロタは画面の端。イリカが混乱しないように、わざとそういう位置関係を取っている。
イリカは、「自分は今、リモリと会話している」ことを理解していた。ちゃんと、リモリを名指しして返答しているので、そうと分かるのだ。
五十八、
リモリとイリカのやり取りは続いてゆく。リモリは、
「私も女の子だからね、今は作業着だけど、普段はスカートも履くよ」
ロタの復唱を聞いた後、イリカが答える。
「ソウデスカ、普段、スカート、ハイ」
「でもね、最初からそうしてたわけじゃないんだよ。なぜだか分かる?」
「ナゼ、デショウ」
「あのね、私も昔は、今みたいな大きな体がなかったから」
「ナカッタ……」
「そうだよ。私も、イリカちゃんと同じだったんだよ」
「リモリ、サンガ、ワタシト同じ」
「うん。本当だよ。最初は、赤ちゃんだったの。次は幼児期。ちゃんとした服なんか、着られなかった」
「体ガ、小さいカラ、ですヨネ」
「うん。少しずつ成長して、だんだん女の子用の服を着るようになったの」
「スカート、トカ」
「そう、そう。あと、女の子特有の体の変化もあるからさ。それに合わせた服もあるよ」
「胸にアテルヤツ……」
「そう、ブラね」
「アエテ遠回しニ言ったのデスケド」
リモリが、ふははっと笑った。無邪気な笑い声だった。
「ごめん。ロタさんも聞いてるもんね。ありがと。実は、私も今、少し恥ずかしかった」
「イイエ。お構い、ナク」
リモリはふふふと笑った。息継ぎをし、先を話す。
「そういう服を初めて買いに行った時とか、緊張したよ。今も太ったり、体型の変化に戸惑うし、これからも続くんだと思う」
「ソウデスカ。確かに、ソウカモしれませン」
「うん。ねえイリカちゃん、あのね」
リモリは上半身をやや前へ傾け、タブレット画面をしっかり見つめる。まるで、イリカの「目」をのぞき込むように。
リモリは、優しい笑顔でゆっくりと言った。
「イリカちゃんには、ちょっと理由があって、私が今まで経験してきたような成長や戸惑いが、一度に来ちゃったんだよ」
ロタは、リモリのせりふを復唱しつつ、
(あっ、なるほど。そうつながるわけか)
と、納得していた。
対するイリカは、
「私ハ、一度にキテしまッタ」
「そう。私はゆっくりだったけど」
「私は、イチ度に来てシマった」
「そう。イリカちゃんは、まさに今なの」
「ワタシハ、早かっタ。早かッた。今だ。すなわチ。
そしテ、リモリさんは子供ノ頃カラ段階的に経験シタ。
そこガ違うのダ。多分ダが、ペースが違ウ」
独り言のように、イリカは長めの返答。
今までの情報を統合し、何かを分析中なのだろうか。
「そう、そう、そうだよ。そういうこと」
リモリはうれしそうに言った。
よほど手応えを感じたらしく、この一言をロタが繰り返している間も、横でリモリは何度もうなずいていた。
ロタも、
(あっ、今、少し理解してくれたかもしれないな)
と直感していた。
リモリは言葉を続けた。
「だからね、イリカちゃんが戸惑ったり、データや記憶とつじつまが合わなかったりするのは当然なの」
「トウゼン、なのカ」
「うん。今、いろんな気持ちを知って、言葉も覚えて、そして、そして体もね。体も……」
リモリはここで言葉に詰まる。
ロタも、ごまかさずに、一旦ここまで復唱した。
リモリはスーッと息を吸い込み、
「いつかは立ち上がって、物をつかんで、服も着て、おしゃれして、歩いて、こっちに来れるよ」
「コラレマスカネ」
「来られる。必ずしも、私たちと同じ順番ではないかもしれないけど。でも心配は要らない」
イリカはぽつりと繰り返す。
「……シンパイ、イラナイ」
「そうだよ。
もちろん、イリカちゃんの理想通りに行かない部分もあるかもだけど」
この一言は、リモリも恐る恐るという感じであった。
流れを途切れさせるかもしれない、少々危険な言葉。
思わず父親の方をちらりと見るリモリ。
が、マノウは力強くうなずいていた。
「リモリ、それでいいよ。今の一言は必要。言っとくべき」
と、マノウ。
(ああ、いいな)
ロタは思った。二人のこの信頼関係。
そして、ロタも同じ気持ちであった。
「限界」があることも説明しておくべきであろう。
本当は、ロタもリモリに「それでいい」と言いたかったが、出来なかった。無論、イリカが聞き取ってしまうからである。
さあ、イリカは。
「ハイ、ソレハ、分かってル、つもり、デス」
区切りながらも明言した。
ロタは、イリカから大きなボールを投げ返されたような気持ちでそれを聞いていた。
リモリはホッと表情を緩めたが、それは一瞬にすぎなかった。
すぐさま、元の引き締まった面持ちへ戻り、
「ありがとう。私は、あなたの気持ちを分かってるから」
と、真剣な眼差しをタブレット画面へ向けた。
イリカは、
「オンナノコとして、カナ」
リモリはうなずき、
「そうだよ、女の子としてね。
これから、イリカちゃんとロタさんが直接会えるように、私と、父のマノウがお手伝いをします」
「会エルカナ。会イタイナ」
「きっと会える。それが素敵な出会いとなるように、イリカちゃんの気持ちには配慮します」
「配慮シテ、くれるの、デスネ」
「約束する。女の子として、これはちょっとどうかな、という時には、私が間に入ります。クッションになるよ。
信じてください。私は、あなたと同じ、女の子だから」
五十九、
イリカは答えた。
「承知し、マシタ。まだ、若干ノ懸念もアリマスが、オ任せシようと、思イます。どうぞヨロシク」
やり取りは見事に、一つの着地点を見たのだった。
同時に、
(今回はここまでだな)
と直感したロタは、ストップをかけることにした。
数秒だけ画面の外へ顔をずらし、イリカには見えない角度でリモリを振り返り、ロタは声を出さずに、口の動きだけで
(ありがとう)
と伝えたのだ。
それを見て、リモリも、あごを引いてうなずく仕草。
リモリも疲れ切っているに違いないし、イリカも一度にたくさんの思考をして負担になっているだろう。この話題は、今日のところはもうやめておこう。
最後に、マノウもタブレット端末のそばへ寄る。
画面(イリカの視界)に三人並んで映り、お辞儀をした。
締めくくるように、ロタが言う。
「お疲れ、イリカ。またな」
イリカが言う。
「またネ、ロタ」
ひとまず電源を落とす。
画面の映像がぼやけ、光が薄れ、フッと消えた。
しばらくは誰も声や音を立てなかったが、場の緊張は急速に緩んでいく。
やがて、ロタが沈黙を破り、
「リモリさん、本当にありがとう。助かりました」
と、椅子から立ち、リモリに深々と頭を下げた。
「見事だったよ」
マノウも娘を褒める。
安心したのか、
「ぷっはあ、疲れたあー!」
リモリは大声をあげ、椅子にも座らず、コンクリートの床へドスンと、尻餅を突くように座り込んだ。
「ああ緊張した。……実はちょっと怖かったんだ」
リモリが、マノウ、ロタ、どちらとも目を合わせずに、天井をぼんやり見上げ、ぽつりとそう打ち明ける。
マノウが、
「怖かった?」
リモリは天井を見つめたまま、
「怖いよ。相手は人間じゃないんだから。人間以外と会話したことある?」
「ないね。なるほど」
と、マノウがうなずく。
言われてみればだ。
「いやもう、本当にお疲れとしか、というかまあ」
ロタはコメントがまとまらない。今さら再認識したが、十代の女の子に随分な大役を負わせてしまった。
体の横に両手を突いて座り込んだリモリは、呆然と背中をそらし、両脚を広げ「ぐったり」のポーズ。よく見れば、冷房が効いているのに、ひたいやほほが汗で光っている。明らかに冷や汗の類いであろう。
ただ、やり遂げた充実感か、徐々に口元へ得意げな笑みも浮かんでくる。
「ロタさん」
ロタを見上げ、リモリが声をかける。白い歯が見えた。
「なんですか」
「ケーキごちそうしてよ」
リモリの唐突な申し出。しかし、ロタは即答した。おどけたような力強さでうなずきながら。
「当然、ごちそうします」
「当然、って」
少し驚いたのか、ぶはっと吹き出すリモリ。
ロタは続ける。
「うなぎも付けますよ。お寿司でもいい」
「うなぎがいいな」
「分かりました」
「こらこら」
と、マノウが割って入り、苦笑いしてリモリをたしなめた。
だが、目は怒っていない。
我が子がそれだけの働きをしたことを、マノウも認めているからにほかならなかった。