2話③
遅くなって申し訳ないです;;
それから、ヒデがボクのことを「ホーくん」と呼ぶようになって(自分で名付けたくせにあんまりな話だけど、呼ぶ時にいちいち面倒くさかったらしい)、その後も、ボクらは一緒に居続けた。
なんの変哲もない日常を。ただただ幸せな時間を、共に……。
「――完、成! ふ~……やっと、描き終わったぁ!」
そんな歓声が聞こえたのは、日もすっかり落ちて、辺りが完全に暗くなった頃だった。
ようやく、作業が終了したらしい。長い溜め息と共にその場に倒れ込むヒデを見て、ボクもまた体の力を抜いた。
やれやれ……これでやっと、自由に動ける。
まあさしあたり、動く用事もないんだけれど……そこはそれ。人に言われて動けないのと、自分から動かないのとでは感じ方が全然違うから、その瞬間、ボクは心底安堵した。
途端に、お腹が鳴る。
安心したのも束の間、それまで忘れていた空腹を思い出したボクは、一声鳴いて、それをヒデに訴えた。
「あっ、ごめん忘れてた! すぐに持ってくる!」
気付いたヒデは、慌てた様子で夕飯の支度にとりかかった。
そんなヒデを見て、「やれやれ」とボクは思う。
これも、いつものこと。
いつもいつも、一旦作業に入ると寝食を忘れて没頭するのが、彼の困ったところだ。それに、その被害はこちらにも及ぶからたまったもんじゃない。もうちょっと自分本位で道理の分からない猫なら、確実に作業の邪魔をしてご飯の催促をするだろう。
でも……ボクは、それだけはしない。できなかった。
だって、もう知ってるから。
それがヒデにとって、どれほど大事なことか。幸せなことか。
だったらそんな時間を邪魔するなんて、とてもじゃないけど、できやしない。
なにせボクは……彼の、“友達”なんだから。……まあ、一回だけ。餓死寸前まで何も食べなかった時は、流石に窘めたけどね。
ともあれ、
「お待たせ! ホントごめん! お詫びにこれもあげるから、許して。ね?」
言いながらヒデは、ボク専用の丸い白皿の上にキャットフードと、多分自分で食べるつもりだったのだろう魚の刺身を数切れ盛り付けた。
よしよし、分かってるじゃないか。
人でも動物でも、相手への誠意は見える形で送るべきだ。それがお互いの関係を良好に続けていく為の秘訣だと、ボクは思う。……別に、元々怒ってなんかいなかったけど。
「――それじゃ、食べよっか!」
そう言うと同時にプシュッと小気味の良い音を立てて、ヒデは缶ビールの栓を開けた。
細やかな祝杯。普段はあまり飲まないけど、作品が出来上がった時はいつもこうして、彼はお酒を嗜み、自分を労う。ボクと出会う前も、出会ってからも、ずっと続けている彼の習慣だ。ちなみに、いつも飲むのはビール。つまみは気分次第らしく、毎回品が変わる。今回は、魚の刺身だ(それとご飯にインスタントの味噌汁が、今日の彼の食事のメニューらしい)。
ボクにあげたことで半分近く減ったそれを頬張り、次に流し込むようにお酒を飲んだヒデを見届けてから、ボクも自分の皿にがっついた。
「ふぅ~美味しい。やっぱり、仕事終わりの一杯は格別だな~! どう? ホーくんも一口!」
前半には同意。けど、後半は冗談じゃない。
前に口車に乗ってその液体を舐めた時のことは、今思い出しても胃がむかむかする。まさに言葉の通り、苦い記憶だ。なんで人間はあんな物を美味しそうに飲めるのか、理解に苦しむ。
「あらら残念、振られちゃった」
分かり易くそっぽを向いたボクに、本気で残念そうにヒデが言う。全く、酔った人間ほど面倒臭いものはない。
でも、いつからだろう?
一方で、そのやり取りを楽しんでいる自分もいる。最初は戸惑うばかりだったヒデの絡みも、今ではすっかりあしらう術を覚えて、すっかり手慣れたもんだ。
「ま、いいよいいよ。一人で寂しく飲むから……」
今度はわざとらしく悲しそうな顔をしながら、こっちをちらちらと窺ってくるヒデ。それでもボクは、頑なに誘いには乗らない。
「うー、ホーくんの意地悪」
なんて言ってるけど大丈夫。なにも気にする必要はない。これ見よがしに背を向けて寂しそうにしているけれど、このまま放って置いても問題がないことを、ボクは知っている。
だって、ボクの計算が正しければ、そろそろ――
「――ふあ~ぁ……も……駄目、限界。おやすみ~」
食事もそこそこにビールを飲み終えたヒデは、いきなり電池が切れたようにソファに倒れ込み、眠りについた。
(うん、いつも通り……ま、強くはないもんね)
むしろ弱いくらいだと思う。他の人間がどんなものかは知らないけど、流石に缶ビール一杯でここまでの醜態を晒すのは稀な筈だ。まあもしかしたら、これまでの寝不足や疲労も手伝ってるのかもしれないけど。
とにかく、こっちとしては好都合だ。これで邪魔者はいない。ゆっくりと食事に集中できるというものだ。
(……と、その前に)
心地良さそうなヒデの寝息を聞き届け、食事に戻ろうとした所で、ふと思い立つ。
(やれやれ、仕方ないな)
着の身着のまま、だらしのない格好で眠りこけているヒデを見かねて、ボクは寝室の方へ足を向けた。
なにせもう秋も下旬。昼はまだしも、夜は、外に出ると肌寒さを感じる季節だ。家の中だって決して暖房が聞いてる訳じゃない(残念ながら故障中だったりする)し、無防備な格好で眠っていれば、ボクはともかく、体毛の少ないヒデは風邪を引くかもしれない。
同居人が体調を崩したら、それこそ面倒だ。気分もよくない。
(結構大仕事なんだけどな、っと……)
咥えたのは、毛布。
寝室から引きずるようにして持ってきたそれを、ソファで安らかに眠っているヒデに、少々苦戦を強いられながらも(猫のボクにはちょっと重いし、舌触りも悪い)かけてやった。
「ん……」
(おっと……)
それに気付いたのかどうなのか、少しだけ身じろぎをするヒデ。
(起こしちゃったかな?)
いや、大丈夫だ。
彼は一瞬だけ目をうっすら開けたかと思うと、すぐまた元通り、眠りの体勢に入ってしまった。
ほっと一息。
でも、その時、
「……ありがと……“まひる”」
寝惚けているんだろう。ぽつりと、寝言のように囁かれたのは、ボクじゃない、誰かの名前。
誰か、と言っても別に知らない名前じゃない。
いつか、ヒデが言ってた。
(そうだ……覚えてる)
何度も聞かされた、彼の故郷の話。その中で、一番多く聞いた名前だから。
“まひる”――それは彼の、恋人の名前だ。