2話②
前話、その1の方を加筆いたしました。そちらをご覧になっていない方は、先にそちらを読まれることをお勧めします。
「――ようこそ、我が城へ! なんてね」
家の中。そっとボクのことを降ろしながら、開口一番に彼が言った。
「なんにもないし、狭いとこだけどさ。まあ、ゆっくりしてってよ」
謙遜するような言葉。だけど、それは謙遜じゃなかった。
目に映るのは、必要最低限らしい家具と、床に散らばった鉛筆や絵の具。それから壁一面に張り巡らされた、“どこかと、誰か”の絵くらい。それ以外には、なにも特筆すべきものがないような、そんな部屋。
(質素なとこだな)
けど……暖かい。良い匂いがした。
連れられて来た他人の住処。初めて入ったはずのそこに、ボクはそんな感想を抱く。
「んー……でもキミと暮らすとなると、このままじゃ駄目だね。色々必要な物を買い揃えなきゃ……えーっと……」
なにやら思案顔でぶつぶつと呟く彼に対して、そこまでしてくれなくても、とボクは思う。
だって、ずっといる訳じゃないんだ。一応、この冬が終わるまでは一緒にいてやるけど、そこから先は……どうなるか分からない。いくら必要な物を揃えてくれたって、ボクがいなくなったら、その時は全部無駄になるのに……。それにとりあえず、雨風が凌げて暖をとれるっていうだけで、野良だったボクには上等なんだから。
「まあ、それは明日でいいか。とりあえず今日のところは――」
しばらく悩んだような顔をしてから、不意に彼が言った。
「――キミの“名前”を決めようか」
え? と思う。
彼の言ったそれを理解するまでに、多少の時間を要した。
そして、それを理解した時、ボクはなんとも言い表せないような、妙な気分になった。
(名前……)
馴染みのない言葉。
それはそうだ。だってそれは、独りでいる限り、絶対に必要のないものだったんだから。
ボクは思う。名前――それはきっと、自分のことを誰かに呼んでもらうための、自分がそこにいることを、誰かに知ってもらうための記号なんだと。
だからボクには、ずっと、名前なんかなかった。付けてくれる人も、呼んでくれる人もいなかったボクには……どうやっても、手の届かないものだった。そしてそれは、一生変わらないんだろうって、思ってた。
なのに……、
「だってほら、これから友達になる訳だし……いつまでもおチビさんじゃあ、ちょっとね」
上着を脱ぎながらそんなことを言う彼を、ボクはじっと見つめた。
(友達、か……)
ここに来てなお、実感が湧かない言葉だった。
正直、今だってよく分からない。
友達ってなんなんだろう? どうすればいいんだろう?
ずっと孤独に生きてきたボクには、そんな不安を抱えながら彼の言葉を待つ以外、できることはなかった。
「あ、でもその前に。ごめん、まだ自己紹介してなかったよね、僕?」
気付いたように言う彼。
そういえば、そうだったかもしれない。
失念していた事実に、彼は少しだけ申し訳なさそうな顔をした。
けど仕方がない、とボクは思う。だってその発想に至るには、いろんなことがあり過ぎたんだから。
それに、
(そもそも野良猫に名乗る人間もいないけどね)
だからこそ、ボクは思う。
(本当に、変わった奴だな)
目の前の青年が特別な存在だということを、ボクは噛み締めずにはいられなかった。
「……コホン」
軽い咳払い。
そうして、彼はおもむろに口を開き、名乗った。
「“朝倉日輝”――それが、僕の名前。まあでも、知り合いには大体“ヒデ”って呼ばれてるからさ、そっちで覚えてもいいよ」
なるほど……じゃあ、ヒデで覚えさせてもらおう。ボクは思った。
別に、大した理由はない。その方が短くて覚えやすかったから、それだけだ。
「えっと、年は二十三で――」
それなら、ボクとあまり変わらない。ボクも、人間で言えばそのくらいだったはずだから。
「――職業は、もう話したね」
“画家”だって言ってた。
それがどんな職業なのか、ボクにはよく分からないけど、彼――もといヒデが夢見て、そして叶えたものだ。
「一応、プロの画家ってことになるかな。と言っても、まだまだ未熟ものだからさ。あまりいい暮らしはさせられないと思うけど、そこはご了承ください」
とんでもない、とボクは思う。
雨風を凌げる住処を提供してもらって、その上多分だけど、食事だって用意するつもりなんだろう。野良のボクからすれば、それは相当に贅沢なことだ。
だから、これ以上を望むことなんてない。
それを伝えるように、ボクは一声鳴いた。
「ふふ、ありがとう。……改めて、これからよろしくね」
そう締めくくり、猫に対しては丁寧すぎる自己紹介が終わった。
(よっぽど真面目な性格なんだろうな)
ボクは思った。
「とまあ、僕の自己紹介が済んだところで……キミの名前、決めよっか」
改まって言うヒデ。ボクは静かにその目を見返した。
少し、緊張する。
どんな名前を付けてくれるんだろう?
期待と不安が同時に胸の内に芽吹いて、なんとなく落ち着かなかった。
「……って、実はもう決まってたりするんだけどね」
そう言うとヒデは、鞄から一枚の絵を取り出した。
ボクは思わず視線を誘われ、それを見た。
そこに描かれていたのは、一匹の黒猫――紛れもない、ボクの姿だ。ここに来る前に見たものとは少し違った構図で描かれたそれに、ボクは目を奪われた。
「どう、これ? 我ながら上手く描けたと思うんだけど。もしかしたら最高傑作かも」
恥ずかしげもなく自画自賛するヒデ。
でも、確かにその絵には、それだけの価値があるように思えた。
なんだろう、よく分からない。言葉では上手く言い表せないけど……ボクの目にはそれが、なんだか輝いて見えたんだ。
(いや……けど、それだけじゃない)
それともう一つ、その絵には、目を引くものがあった。
「それで……キミの名前なんだけど、こんなのはどうかな?」
絵の中に書かれた“そこ”を指差しながら、ヒデが言った。
そう、それだ。
その場所、絵の中一番目立つ、ボクの頭の上に書かれた“文字”。それは妙に、ボクの目を引き寄せた。
(もしかしたら……)
この絵のタイトルなのかもしれないな。ボクは思った。
(なんて読むんだろう?)
英語で書かれたそれを読むことができなくて、ボクはもどかしい気持ちになった。
でも、その答えは、すぐにもたらされる。
ボクの疑問に答えるように、ヒデは言った。
他の誰でもない、ボクの絵。そのタイトルは――
「――“Holly night”。英語で“聖なる夜”っていう意味だよ。今日クリスマスだしさ。キミにぴったりだと思って……どう?」
聞いてくるヒデ。ボクは反応に困る。
(聖なる夜……ボクが?)
そんなこと、初めて言われた。
今日、この日――クリスマス。聖なる夜なんて呼ばれるそれは、人間達にとって、とても幸せで、特別な日。それを、ボクの名前にしたいと、目の前の青年は言う。
(全く……アンタだけだよ)
この真っ黒な体を、ボクのことを、そんな風に言ってくれるのは。
「えっと、気に入らない?」
黙り込んだボクに、不安そうな顔を向けてヒデは言った。
違う。そういう訳じゃない。
少し、戸惑っただけ。
だってこれまでは、「気持ち悪い」だとか、「不吉な奴」なんてことしか、言われてこなかったんだから。
そんなボクに、アンタは言ってくれた。優しさと温もりを込めて、呼んでくれたんだ。
だから、
(ホーリーナイト……か)
いい名前だね。そう言わんばかりに、ボクは大きく一声鳴いた。
「そっか。……うん、よし。それじゃあ決まり! キミの名前は――」
――“ホーリーナイト”。今日からそれが、ボクの名前だ。