2話①
――みぃ、と鳴く声がする。
子猫の声だ。
まるで誰かを呼んでいるような……とても不安げで、寂しげな声。
――どこから?
今にも消えそうな弱々しいそれを、流石に放ってはおけなくて、ボクは辺りを見渡した。
けど、いない。
いくら探してみても、どこにも、それらしい姿は見当たらなかった。
(……? ……変だな)
頭に浮かぶ疑問符。
でも――そう思った瞬間だった。
ボクは、不意に気付いた。
(あ……)
そして、同時に、思った。
(また、か)
――って。
『――みぃ、みぃ』
見覚えのある場所。聞き覚えのある声。
――“夢”。
そうだ。これは……前にも見たことがある。
この声は、ボクだ。
夜、雪の降る公園で。必死に誰かを求め、呼び続けていたボクの……消えてくれない過去。その情景。薄ぼんやりとした街灯の下で独り、夜の冷気に体を震わせながら誰かを待っていた小さな子猫の、結末の知れた物語だ。
(くだらない……)
本当に、くだらない。
ボクは思った。
我ながら、見ていられない。
ボクは目を閉じて、一切の視覚情報を遮断した。
『――みぃ、みぃ』
なにも見えない真っ暗闇で、声だけが頭に響いてくる。
(もう、いいよ……)
もういい。うるさい。頼むから、黙ってくれ。
不快。ただただ不快だった。
『――みぃ、みぃ』
無駄だ。いくら鳴いたって、呼んだって。どうせ、誰も来てくれやしないんだから……。
(本当は、分かってる……分かってた)
きっとこの行為には、なんの意味もないんだって。
なんとなく、分かってたんだ。なのに、そうするしかなかった弱い自分が、幼かった自分が、嫌で嫌で仕方なかった。
(早く、終わってくれ……)
どうせ同じだ。
どうせ同じなんだ。
どうせ、誰も迎えになんか来やしない。
これは、結末の決まった物語。そして、ボクの孤独の始まりなんだから。
でも、その時だった――
(……?)
ボクは、ふと気付いた。
(声が……)
止まってる。
いつの間にか、子猫の声が消えていた。
(どうしたんだ?)
いつも通りじゃない展開。予定調和を外れたそれに、ボクは思わず目を開いた。
(……っ!)
瞬間――驚愕する。
頭が真っ白になった。
だって、それはそうだ。
(体……浮いてる?)
訳が分からない。
いや勿論。夢なんだから、そんな突拍子のない、訳が分からないことも時には起こるのかもしれないけれど。これは……こればっかりはあり得ないことだ。ボクは思った。
だって、こんな、まさか……
(……だ、れ?)
体を包む浮遊感と温もりに、ボクはそんな感想を抱く。
理解は、した。けど、信じられなかった。自分の状況が。
誰かに“抱き抱えられる”、なんて……そんなの、初めてだったから。
(誰……?)
再度、問う。
でも、それが誰かは分からなかった。
顔が――見えなかったから。
勿論、見ようとはした。だけど……どうしても。必死に首を動かしたり、目を凝らしてみたけれど、なんでかその顔は、靄でもかかったようにぼやけて、はっきりと見ることができなかった。
――もどかしい。
本当に、もどかしかった。
でも、決して不快じゃない。
(おかしいな)
嗅いだことのない匂い。聞いたことのない音。確かに脈打つ自分以外の鼓動を、ただ呆然と、落ち着いて感じている自分自身。不思議で、奇妙で、おかしかったけれど、それが、今のボクの全てだった。
(心地いい……)
素直に思う。
それだけに、その顔が見えないことが残念でならなかった。
(本当に、誰なんだろう?)
知り合いだろうか? それすらも、なにも分からない。
けど――
(――いや、いいか……それは、もう)
だって、思った。
(どうでもいい)
どうでもいいんだ。そんなことは。
それよりも、なによりも。確かなものが“ここ”にはあったから。それが、分かったから。顔は分からなくても、分かったから。
(やっと、だ……やっと――)
――“来てくれた”んだって。
ずっと、待ってた。ずっと、会いたかった。心の奥の奥で、本当はまだ信じてたこと。
――きっといつか、“誰か”が、ボクを迎えに来てくれるって。
だから、嬉しかった。これ以上ないくらいに。
ボクはただただ、幸福な気分になって、その誰かに体を委ねた。
(温かい……)
体、だけじゃない。心が、温かかった。
(離れたくないな、もう……)
忘れていた温もりの中で、ただひたすらにボクは思う。
親、兄弟。あったはずの温もり。持っていたはずの繋がり。ある日突然消えた、そんな類。ボクは生まれたその日から、ずっとなにかを失いながら生きてきた。
だから、怖かった。なにかを得てしまうことが。また、失ってしまうことが。
だから、独りで生きてきた。そうやって強く生きることが、ボクのたった一つの望みで、誇りだと、自分を誤魔化しながら……。
(馬鹿みたいだ)
本当、馬鹿みたい。
ずっとずっと……本当は、辛くて、寂しかったはずなのに。
(ああ……あと少しだけ、あと少しだけでいいから)
どうやら、そろそろ起きる時間らしい。突然遠のき始めた景色に、ボクはそんなことを思った。
けど、どうしようもない。覚めない夢なんて、ないんだから。
(分かってる。だから、せめて……)
これだけは。
誰だかは分からないけど、それでもたった一言。夢が覚める前に、これだけは伝えたい。
そう思ってボクは、ありったけの声で鳴いた。
(――ありがとう)
その時だった――
「……っ……」
靄は、晴れた。
現れた顔を見て、ボクは微笑んだ。
(ああ……なんだ、アンタか……)
柄にもなく、ホッとする。
そうしてボクは、雪の道を歩いていった。
迎えに来た“その人”と一緒に。どこまでも、いつまでも――。
*
(――ここ、は……?)
寝ぼけ眼にぼやけて映る景色。
一瞬、なにがなんだか分からくなって、ボクはその場で呆然とした。
「――あ、起きた?」
不意に、そんな声が耳に飛び込んでくる。
――空耳?
まだ覚醒しきらない意識の中で、ボクはそんなことを思った。
(いや、違うか……)
体を包み込む温かい感触を確認して、ボクはすぐに自分の状況を思い出した。
「寝起きで悪いんだけど、もうちょっとだけじっとしてくれる? もうちょっとで終わるからさ」
――やれやれ、仕方ない。
そうは思いつつも、ボクは彼の我が儘に付き合ってやることにする。
(でも、欠伸ぐらいはいいだろ?)
猫にとっても人間にとっても、それは寝起きの儀式みたいなものだから。
ボクは目で彼に訴えかけた。
「ああ、いいよ。そのくらいなら」
不思議なことに、それだけで通じるんだから面白い。
じゃあ遠慮なくといった具合に、ボクは大きく欠伸をした。
それを見て、彼は微笑みながら作業を続ける。
(ほんと、熱心だな)
ボクの同居人――スケッチブックを開いて、ずっと飽きもせずにボクのことを描き続けている彼を見ながら、ボクは思った。
(ま、いつものことだけど)
もはや見慣れた光景。
それはボクと彼にとって、ありふれた日常の一ページだった。
――そうだ。
ボクらは“あの日”から……出逢ってから今日までの日々を、ずっと一緒に過ごしていた。
(随分、長居しちゃったな)
最初は、思わなかった。そのつもりもなくて、冬が終われば、それと同時にボクはここを離れようって、そんな風に考えてた。
だけど、彼と共に過ごす内……いつの間にか月日は経って――そうして、いつしか、ここはすっかりボクの居場所になってしまった。
(まさか、だな)
自分でも意外だと思う。
でも同時に、
(まあいいか)
これでよかったと、ボクは思う。
だって、今は違うから。失うことを恐れて、だから孤独を望んでたあの時のボクとは、もう……なにもかもが違う。彼と一緒にいること。誰かの温もりに触れながら生きること。それが今は、とても心地いいことだって、そう思えるから。
彼と過ごしていく日々の中で、ボクは少しずつ、変わったんだ。
(そろそろ、一年か……)
外。窓から見える夕焼けに目を向けながら思う。
ボクらは、間もなく二度目の冬を迎えようとしていた。
「早いね……もう、そんなに経つんだ」
同じように夕焼け空を見て、彼はしみじみと言った。
(早い、か……)
そんなことはなかったよ。ボクは思った。
人間と猫じゃ、時間の感じ方が違うらしい。それは、ここに来てからボクが学んだことの一つだ。
ボクらの時間には、差がある。それはどうしようもない、お互いに違う、残された命の時間の差。
猫の寿命は、人間よりも遥かに短い。だから、ボクからすれば、この一年はとても……とても長くて、そして温かな時間だった。
(それだけあれば、変わりもするかな)
ボクは思う。
彼と過ごした一年。色んなことが変わった。
例えば、そう……一番大きな変化は……ボクに――“名前”ができたことだ。
「ね? “ホーくん”」
ホーくん――本名じゃない、あだ名を呼んで同意を求める彼に、ボクは曖昧な視線を送る。
ボクの名前。
それはあの日、ボクがここに来た時、最初に彼がくれたものだった――
更新が遅くなってしまい、申し訳ございません。
※次回の更新はクリスマスを予定しております。