1話④
(これ、は…………)
我が目を疑う。
だって……それはそうだ。そこに描いてあったのは、街道に佇む一匹の黒猫――紛れもない、ボクの姿、だったんだから。
それも、一枚じゃない。
彼がページをめくる度、そこには次々と、色んなボクの姿が浮かんでは消えていった。
「僕は、さ……」
彼は語り始める。
「元々、この街の人間じゃないんだ。故郷はもっと遠い、山向こうの小さな田舎町でね……。まあ山と田んぼと、たまに降る雪の他にはなんにもない、そんな辺鄙な所なんだけど……」
そこでクスリと微笑んで、彼は言葉を続けた。
「でも、そんな所だって退屈はしなかったよ。いつも家族や友人、沢山の大切な人たちに囲まれてさ。一緒に遊んだりして……だからあそこにいた時は、毎日それなりに楽しくて、幸せだったな」
家族。友人。楽しい。幸せ。懐かしそうに言う彼。その口から溢れる、ボクには縁のなかった言葉たち。
なんで彼は、そんな話をボクにするんだろう? そう思った。
けど、それだけに不思議だった。
そう思いながらも、それを大人しく聞いている、自分自身が。
彼は、更に言う。
「でもね……それでも。こんな暮らしも悪くないとは思いながらも。やっぱりどこかで、僕には捨てられないものがあったんだ。大切な場所や、大切な人……それと同じくらい、大切なものが……」
大切な人。大切なもの。
よく、分からない……。ボクにはずっと、そんなものなかったから。持とうとも、思わなかったから。
「そう……ずっと、思ってた。ずっと、小さい頃から胸に抱いて、抱き続けて、夢見てた。――“画家”になりたい、ってさ」
――“夢”。
きっと、彼が言うそれは、ボクが知っているものとは違う。そう思った。
遠い言葉……だけど、なんとなく。よくは分からないけど、なんとなく。
それが彼にとって、本当に大切なものなんだっていうことだけは、ボクにも分かった。
だって……それを語る彼の様子が、どことなく幸せそうに見えたから。
「だから、ある時……なんというか、思い立っちゃってね。夢を捨てることができなくて……僕は、故郷を離れた。それまで持ってた繋がりも、生活も、なにもかもをなげうってさ。この街で、夢を追いかけようと思ったんだ」
いつかどこかで、誰かに聞いた。
――なにかを得るためには、なにかを失わなければならない。
自分の夢のために、温かい日常を、大切だった時間を捨てた彼。
なんだろう……。ボクには、それがとても羨ましいことのように思えた。
なにも持ってなくて、なにも得られなかった、ボクには……。
「いや~、最初はワクワクしたな。この街に来てさ。一歩を踏み出して……見たこともない景色に触れた時、目に映るもの全てが新鮮で……ここで僕は夢を叶えるんだって思うと、どうしようもなく楽しみな気持ちでいっぱいだった」
そう言う彼の目は、キラキラと輝いて見えた。
未来への希望。
そんなもの、ボクは抱いたことがなかった。ただ生きて、ただ死ぬ。ボクにとっては、それが全てだったから。
(眩しいな)
ボクは思った。
だけど……。
そこから先は、上手くいかなかったに違いない。それが分かったのは、次の瞬間、彼の表情が少しだけ曇ったからだ。
「ま、すぐに思い知らされたけどね……。現実は、そう甘いもんじゃないって。知らない街で生きていくことが、夢を追うことが、どれだけ大変で、孤独なことなのかって……。そして、そんな時だよ。キミと出会ったのは……」
いつ、だろう……? 覚えてない。
いや、きっと見えていなかったんだ。ボクは思った。
「まあ、出会ったと言っても、ちょっとすれ違ったくらいだけどね。……とにかく。住んでた家を出て、なんの当てもないままこの街に来て、右も左も分からなくて、頼れる人なんか誰もいなくて……それでも生活はしていかなくちゃいけない。これからどうやって生きていこう。そんなことを考えて途方に暮れてた時に僕は、初めてキミを見たんだ」
温かい場所から冷たい場所へ。元いた場所とはなにもかもが違うそこで暮らす内、、いつしか胸に抱いていた筈の希望も失って、ただただ立ち尽くすしかなかった彼。まるで、世界が自分一人になってしまったかのような孤独の中で、瞳に移ったのは――自分と同じ、一匹で生きる黒猫。
頭の中にそんな情景が浮かぶ。
彼の語る、彼の物語。いつしかボクは、それに聞き入っていた。
「最初は、“似てるな”って思った。広い街の中で、お互い独りでさ……。でも、すぐに分かったよ……“違う”って。……だって、そうだろ? キミは、例え独りでも懸命に生きてた。来る日も来る日も……決して誰の助けも借りず、心無い人達からの罵声にも耐えて……胸を張って、堂々と生きてた。……正直、すごいなって思ったよ。自分と似たような境遇の中で、強く生きているキミの姿はさ。本当に、美しく見えた」
尊敬。憧れ。初めて人から向けられる、嫌悪以外の感情。
初めて、言われた。
ボクの生き様が、姿が――美しい、だなんて。
「僕は、そんなキミの姿に勇気を貰った……キミのおかげで、僕はこの街から逃げることなく、夢を追いかけることができた。キミは、僕の恩人なんだ」
――ボクが、恩人?
実感の湧かない言葉だった。
だって、ボクはなにもしてないから。ボクは、ボクはただ……。
「大袈裟だって思うかな? でもね……本当に全部、キミがいたからなんだよ。キミが、僕の支えになってくれたから、僕はこの街で、ここまでやってこれた。……まあ、まだ全然駆け出しだけどさ。一応プロの画家にもなれて、なんとか今日まで生きてこれたんだ。だから、ずっと思ってた。ずっと、伝えたかった。キミに、“ありがとう”を……。それから――」
――そんなキミと、友達になりたい、ってことを……。
そう言って、彼は言葉を締めくくった。
(……)
知らなかった。想像さえも、したことがなかった。
ボクのことを、ずっと、見てた人がいたなんて。ボクが、その人の支えになってたなんて。なによりその人に、こんなにも感謝されているなんて。
ボクはただ……必死になって、生きていただけなのに。独りだったから、そうするしかなかっただけなのに……。
「嫌なら諦める。けど……友達になってくれたら嬉しいな」
そして、彼は、ボクに向かって手を伸ばす。
なるほど。
それはきっと、返事をすることができないボクへの配慮なんだと思った。ボクが意思表示しやすいように、ボクのための譲歩。
(……)
この手から離れてしまえば、この人はもう……ボクを追っては来ない。確証はないけど、なんとなくそんな気がした。
時間が、何倍にも遅く流れているかのように感じる。
ふと、気付いた。
(……震えてる……)
ゆっくり、小刻みに震えながら近付いてくる右手。その奥にある、彼の瞳。それは、まるでなにかに怯えているかのようで……それを見て、ボクは思った。
きっと、逃げるとしたら、今が絶好のチャンスに違いない。ここで逃げれば、今度こそボクは、彼から逃げ切れるだろう。また望み通りの毎日を送れる筈だ。孤独で、だけど誰にも自分の時間を侵されることのない。そんな、平穏な日々を……。
分かってる。そんなことは、分かってるんだ。
でも……なんでかな?
なんで、ボクは――
「――ありがとう……おチビさん」
頭に触れる、優しい感触。
(やっぱり、心地いい……)
それに身を任せて、ボクはそんなことを思う。
ボクは――“動かなかった”。
いや……というより、“動けなかった”んだ。
――何故?
きっと、理由は色々ある。
彼のことが可哀想だったから? 寂しそうだったから? それも、あるかもしれない。
けど、そうじゃない。それだけじゃない。
同情や憐憫。それよりも、なによりも。その時はただ――
(――嬉しかった)
ボクは誰かを“求めない”。それは、今でも変わらない。でも……それでも、生まれて初めて誰かに“求められた”ことは、どうしようもなく、例えようもなく、ただ素直に、嬉しかったんだ。
だから――
彼にとってボクが必要な存在だというのなら、ちょっとだけ、一緒にいてやろうって、そう思った。彼がボクを受け入れてくれるなら、ボクも彼のことを受け入れてみようって、そう……思った。
「雪……強くなってきたね」
そう言う彼の視線を追いかけるように、ボクは空を見上げた。
――冷たい。
彼の掌の隙間から、真っ白な粒がすり抜けてボクの目元を濡らした。
「あ、そうだ! なんだったら僕ん家においでよ。せっかくの“クリスマス”。一人じゃ、ちょっと寂しくてさ」
思い出すように言う彼。
その瞬間、
(あ……)
ボクも、思い出した。
今日は――“クリスマス”。人間が“聖なる夜”なんて呼ぶ、特別な日だってことを。
「……いい、かな?」
そう尋ねる彼の瞳を、ボクはじっと見つめ返した。
もう……逃げる気なんて更々なかった。
それが伝わったのか、彼はそっと、ボクのことを抱き上げた。
「勿論、ずっとじゃなくていいんだ。今日だけでも、一緒にいよう」
そう言う彼の腕の中は、とても暖かくて、居心地がよかった。
「とりあえず……これからよろしくね、おチビさん」
――こちらこそ、よろしく。
そうして、ボクらは歩いていく。
一人と一匹、白く染まり始めた夜の道を、互いの孤独を溶かし合いながら。
第一章 ~完~