1話③
それから、ボクは走った。“孤独”という名の逃げ道を、夢中になって走り続けた。
どれだけ走っただろう。どこをどう通ってきたか、自分でも分からない。ただ、気付いて立ち止まった時には、ボクはどこかの路地裏にいた。
(ここまで来れば……)
きっともう、あの人は追ってこないだろう。
月明かりも街の明かりも、朧気にしか届かない暗闇の中、背後に誰もいないことを確認して、ボクはほっと胸を撫で下ろした。
(……って。そもそも来る訳ないか)
ボクは思った。
よく考えてみれば、一度自分を拒絶した奴をわざわざ追いかけてくるような物好きなんかいやしない。実際、それを証明するような光景を、ボクはこれまで何度も目の当たりにしている。
(そうだ、例えば……)
いつだったか、街をうろついていた時。道を歩いていた人間の子供が、道端でくつろいでいた野良猫――ボクじゃない――に触ろうとして近付き、逃げられている場面に遭遇したことがあった。
その時、後に残された子供の方は、最初こそ残念そうな顔で猫の逃げていった方向を眺めていたけれど、しばらくするとすぐに興味を失って、そのまま何事もなかったかのようにどこかへ歩き去ってしまった。
それを見て、当時のボクは学んだ。
そうか。結局、人間にとって猫なんてものの価値はその程度。とるに足らない、小さな存在にすぎないんだ……っていうことを。
でも、だからといって勘違いしないでほしい。別にそれを責めるつもりは、ボクにはないんだ。
だって、皆そうだから。
平等なんてあり得ない。猫も、人間も。誰だって皆、他の誰かの価値を、順位を無意識に決めている。だったらその中で、自分から離れていくものを大切になんて、できる訳がない。
そうだ。なにも特別なことじゃない。そんなことはボクが……ずっと人から拒絶されて生きてきたボク自身が、一番よく分かってる。
(だから……“あの人”だって――)
同じだ。なにも変わらない。
歩み寄って、拒絶された。あの日の子供と同じように、きっと“あの人”も……あの“変わり者”も。もう二度と、ボクの前に現れることはない。
(忘れよう……忘れてしまえばいいんだ)
それで、全部終わりだ。そう……思った。
――“思ってた”。
「やっと……見つけ……たぁ!」
声がして、振り返る。
一瞬、全てが止まった。
(――な、んで……っ)
もしも今、この瞬間、ボクが人間の言葉を話せたのなら、きっとこんなことを言ったに違いない。
――「なんでアンタは、そこにいるんだ?」って。
だって、そうだろ?
理由がないじゃないか。この雪の中、あんなに汗だくになってまで、あんなに疲労困憊になってまで、ボクのことを探すなんて……そんなの、まるで意味が分からない。おかしい。どう考えても、変じゃないか。
どれだけ走ったのか、膝に手をついた格好で大きく肩を上下させている彼を見ながら、ボクは思った。
(なんなんだ……なんなんだよアンタは……!)
混乱、困惑。
胸の中から“なにか”が込み上げてきて止まらない。感情の奔流。頭がどうにかなりそうだった。
「はぁ、はぁ……やあ、おチビさん。さっきぶり」
まだ回復しきってないんだろう、ようやく絞り出したような声で、彼はボクに話しかけてきた。
「ふぅ~……やっぱり、運動不足かなぁ。あ~、しんどい…………けどよかった、見つけられて。久しぶりに走った甲斐があったよ」
よかった? ボクと再会したことが? 何故? ……分からない。
「まあ、なんていうか……さっきはごめんね? びっくりさせちゃって」
なにを……なにを言ってるんだ? なんで、アンタが謝るんだ? 別に、アンタはなにも悪いことなんかしてないじゃないか。むしろ、謝らなきゃいけないとしたらこっちの方だ。だって、ボクじゃない筈だろ? あの時傷付いたのは……。
「……それにしてもキミ、ホント足早いな~。もう全っ然追いつけなくってさ。あちこち探し回っちゃったよ」
そう言って、彼は柔らかく微笑んだ。
(あ……)
胸が、ざわついた。
だってそれは……他の誰でもない、ボクに向けられた、初めての“笑顔”だったから。
「ふふっ、だけど……もう逃がさないぞ」
言いながら、彼はゆっくりとボクの方へ歩み寄ってきた。それに合わせて、ボクも思わず身構える。
「……なんてね。いや~、流石に……これ以上は無理かな。体力の限界……」
そうして、彼は力無くその場にへたり込んだ。
(……)
なんなんだろう、本当に。
その瞬間、ボクの中から緊張感というものが消え去った。なんだか警戒していることが馬鹿馬鹿しく思えて、ボクは、体からすっかり力を抜いてしまった。
逆に、彼の方はなぜか姿勢を正し始めた。
心なしか顔が強張っていて、なんだか緊張しているみたいに見える。
(どうしたんだろう……?)
妙な雰囲気が漂う。
そしてその状態で、彼は言った。
「だからさ……最後に一つだけ。一つだけ、言っておきたいことがあるんだけど、いいかな?」
なんだろう、一体?
急に改まってきた彼の様子が少し気になって、ボクはその言葉に耳を傾けた。
「えっと、さ……。もし、よかったらでいいんだけど……」
そこで声を区切り、そして……大きく息を吸い込んでから、彼は言った。
「僕と、僕と――“友達”になってください、お願いします!」
え? と思った。
目と鼻の先、手を伸ばせば届きそうな距離にいるのに、その言葉がボクの耳に届くまで、ずいぶん時間が掛かったような気がした。
(トモ、ダチ……? ボクと……?)
そして、それが頭に染み込むのには、もっと時間が掛かった。
――友達。
唐突に告げられたその言葉。それはずっと、ボクにとって遠いものだった。絶対に、縁のないものだった。
まさか、考えたこともなかったんだ。
ボクと友達になりたい。そんなことを言う人間がいるなんて。
「ははっ、なんか……ちょっと恥ずかしいな」
そう言って頬を搔く彼を、ボクはじっと眺めた。そうすることしか、できなかった。
どうすればいい? どうしていいか分からない。
たった二文字の言葉が、ボクの頭を掻き乱す。
(変な奴。本当に……変な奴だ)
そう思わずにはいられなかった。
「えっと……ごめんいきなり。驚いたよね?」
当たり前だ。
呆然としているボクに、彼は言う。
「でも……これだけは、どうしてもキミに伝えておきたかったんだ。僕に生きる勇気をくれたキミと、僕の支えになってくれたキミと、ずっと……そうなれたらいいなって、思ってたから」
(え……?)
なにを、言ってるんだ?
思わず声を上げそうになる。彼の口から出たその言葉に、余計にボクは困惑させられた。
ずっと? ずっと、ってなんだ? 聞き間違いか? いや、違う。この人は、確かに言った。
でも……でも、それじゃあ、アンタは――
「なに言ってんだって感じだよね? でもさ……気付いてたかな? 僕、ずっと見てたんだよ? キミのこと」
――なんだって?
「キミは僕のことを知らないかもしれないけど、僕はいつもキミを見てた。証拠もあるよ、ほらこれ……」
そう言うと彼は、肩に掛けていた鞄をがさごそと漁り、中から一冊の本みたいな物を取り出した。
(スケッチ、ブック……?)
きっとそうだろうと思った。
余程使い込んでいるのか、擦り切れてぼろぼろになっているけど、表紙に書いてある文字は、かろうじてそう読める。よくは知らないけど、確か……そう、人間が絵を描く時に使う道具だったはずだ。それを彼は、ボクに向かって広げて見せてきた。
ボクはすっかり呆気にとられながら、それを――見た。