1話②
みぃ、と鳴く声がする。
これは、声の感じからして幼い……多分、子猫の声だ。
親とはぐれでもしたのだろうか、とても不安げで寂しげな、その声。
――どこから?
ボクは気になって、辺りを見渡してみた。けど、それらしい姿はどこにも見当たらない。
ほどなくして、二回目。
また、みぃ、と鳴く声が耳に響く。
辺りを見渡す。
やっぱり、いない。
(……? ……変だな)
ボクは不思議に思った。
声自体は近くから聞こえてくるのに、いくら探しても、その姿はどこにも見当たらない。まるでそこに透明な猫でもいるかのように、声だけがボクの耳に届く。
(どうなってるんだ?)
分からない。
ボクは頭に疑問符を浮かべて、その場にしばらく呆然と立ち尽くした。
すると、そこへ、
『――みぃ』
また、どこからともなく、声がボクの鼓膜を震わせる。
三回目。
でも、それを聞いたところで、ボクがその姿を探すことは、もうなかった。
といっても、探すのが面倒になったとか、嫌になったとか、そういうことじゃない。
――“分かった”からだ。
(ああ、そうか)
三度目にその声を聴いた瞬間、ボクは唐突に。そしてようやく、気が付いた。
(そうだった、これは――)
なんのことはない。
――ボクだ。
他の誰でもない。それは、紛れもなく、“ボクの声”だった。
『――みぃ、みぃ』
これは――“夢”。過去の記憶。寝て、目覚めた時にはいつも溶けてなくなってしまう。けれど、ボクの中に確かに存在していた時間の断片。
なんですぐに気付かなかったんだろう?
これは、ボクが幼かった頃に見た景色そのものだ。
夜の、この公園で。今となんら変わりのないこの場所で。ボクは呼び続けていたんだ。
――“誰か”を。
薄ぼんやりとした街灯の下で独り、夜の冷気に体を震わせながらボクは、待ち続けていたんだ。
ずっと一緒にいた、大切だった――“誰か”を。
きっと迎えに来る。
それだけを、信じて。
でも、
『――みぃ』
ボクは、知っている。
この夢の……“結末”を。
『――みぃ、みぃ』
結局、
『――みぃ、みぃ、みぃ』
誰も、迎えになんか来やしないってことを……。
そうだ。
何度も見てきた。いつも、同じだった。
この景色を、ボクはこれまで何度見てきただろう。何度、忘れてきただろう。
『――みぃ、みぃ』
こんな風に、誰かを頼らなきゃ生きていけない。弱くて、幼かった自分。
(情けないな、我ながら)
本当に滑稽だ。
見る度に、そう思う。
(なんか、苛々する)
なんとも言えない感情。
やりきれない。
もし伝えられるなら、自分に叫んでやりたかった。
どれだけ呼んでも、どれだけ待っても、無駄なんだってことを。結局お前は、これからこの先、ずっと独りで、生きていかなきゃいけないんだってことを……。
(もういい)
もう、十分だ。こんなの、これ以上見ていたってただ時間を消費するだけ。なんの価値もない。無意味だ。
『――みぃ』
だって、ボクは知ってる。ボクはもう、あの頃の小さな子猫じゃない。たとえ独りでも、十分に生きていける。
ボクは知ってるんだ。結局それが、一番自由で、気楽な生き方なんだ、って。
だからもう……“誰か”なんて必要ない。ボクはこれからも、ずっと孤独に生きていく。
それが今のボクの、たった一つの望みだ。
(さあ、帰ろう)
“夢の続き”へ。ここじゃない、ボクの居場所――“今”という、世界へ。
帰ろう。
――いつしか、“声”は止んでいた。
*
夢を見ていた……ような気がする。でも、それがどんな内容だったか、あまり思い出せない。
頭がふわふわする。
まるで夢か現か、体がまだ迷っているみたいだ。
(……寒)
通り過ぎた風に、ふとそんな感想を抱く。寝起きだからか、体中が冷えていた。別に我慢できない程じゃないけど、少し肌寒い。
一体どのくらい寝ていたんだろう?
ボクはゆっくり目を開けて、それを確認する。
――暗い。
まだ夜は継続中らしい。どうやら、そう大した時間は眠っていなかったようだ。
(やれやれ……朝までは眠ろうと思ってたのにな)
本来の予定とは大きく外れて訪れた覚醒。とはいえ、起きてしまったものは仕方がない。
(まあ、いいさ。とりあえず……どうしよう?)
餌でも調達しに行くか? それとも、このままここで日の出まで過ごそうか?
寝起きの倦怠感を白く染まった欠伸と共に吐き出しながら、ボクは今後の予定に思いを馳せた――
「あ、起きた!」
不意に、そんな声が耳に飛び込んできた。
――空耳?
分からない。
突然のことに慌てて飛び起きたボクは、声のした方向へと即座に顔を向けた。
(――ッ!!)
空耳じゃ、なかった。
そこには確かに――“いた”。若い、人間の男が一人。いつの間に座っていたのか、ボクの隣でじっと、ボクのことを見つめていた。
(誰!? なんで、こんな場所に……!?)
驚いた、なんてもんじゃない。心臓が飛び出るかと思った。なんだってこんな所に人間がいるのか、訳が分からない。その瞬間、ボクは完全に困惑してしまっていた。
意外だったのは、男も同じような様子だったことだ。咄嗟に身構えたボクを見ながら、なんだか申し訳なさそうに、男は言った。
「えっと……こんばんは。ごめんね、せっかく寝てたのに。別に邪魔するつもりはなかったんだ」
どうしていいか分からない。人間に話しかけられるなんて、今までなかった。いや、そもそも自分以外の誰かと接すること自体、これが初めてだ。
どうすればいい?
戸惑うボクをよそに、男は言葉を続けた。
「でも、こんな所で寝てたら風邪引いちゃうよ? ほら、まだ小降りだけど……雪も降ってるし」
え? と思った。
(……雪?)
思わず男から視線を外して、ボクは空を見た。
本当だった。
よく目を凝らさなきゃ見えないけれど、確かに細やかな粒々が、ふわりふわり、僅かながら宙を漂っている。
通りで寒いはずだ。全然、気が付かなかった。
そして、それだけじゃない。その直後、ボクは更なる驚きに包まれた。
(――わッ!?)
突然、体が宙に浮いた。
(え? 何? え?)
――何が起きた?
頭が真っ白になる。あまりの出来事に身動きがとれない。心臓ばかりが盛んに早鐘を鳴らし、息が、荒くなる。
そうこうしている内に、頭上から声が掛かった。
「ああやっぱり。ちょっと体、冷えちゃってるね」
はっとする。
言われて、初めて気が付いた。
ボクの体を包む、今まで感じたことのない感触。微かな、温もり。
目を疑う。ボクは、いつの間にか、彼の腕の中にいた。
(なんだ、これ……?)
嗅いだことのない、匂いがする。聞いたことのない、音がする。
ドクンドクン。確かに脈打つ、他者の鼓動。ボクはただ呆然として、それに耳を傾けた。
「どうかな? これで少しは温まるといいんだけど……」
そう言って、彼はボクの頭を撫でた。
優しい手つき。
(……なんだか、気持ちいい……)
信じられなかった。
もしかして、ボクはまだ夢を見てるんじゃないか? そんな風にさえ思った。
だって、初めてだったから。人から受ける、優しさも、温もりも。
(ああ、なんでだろう? なんで、この人は……)
ずっと、思ってた。
どうせ人間なんて、皆同じだって。皆すべからく、ボクのことを嫌ってるって。
それは、今だって例外じゃない。彼という人間が現れてから、ボクはずっと緊張してた。なにをされるか分からない。そんな風に思って、ボクは、密かに怯えていたんだ。
(それなのに……)
そんなボクに、なんでこの人は……。
一瞬、なにもかもがどうでもよくなった。
そして、思った。
できることなら、しばらくこうして、“ここにいたい”……って。
でも――
同時に、思ったんだ。
“違う”……って。
(そうだ、違う……!)
ここは、確かに居心地がいい場所かもしれない。でもだからこそ、ここは、ボクの居場所じゃない。
ボクはこれまで、ずっと独りで生きてきた。誰にも頼らず、誰よりも自由に。そうやって強く生きることが、ボクのたった一つの望みで、誇りだったから。
だから、今更、甘える訳にはいかない。ボクがボクであるために……認める訳にはいかないんだ。
(いらない……いらない、いらない!)
優しさも温もりも。
ここは――ボクの居場所じゃない。
「――うわッ!?」
そして、ボクは暴れた。
放せ、放してくれ、と。彼の腕の中、滅茶苦茶にもがいて、必死に爪を振るった。
すると、驚いた彼は殆ど反射的にボクを放した。
(今だ!)
その勢いに乗って、ボクはすかさず逃げ出した。
「あっ、待って――」
後ろからそんな声が追いかけてくる。でも、決して振り返らなかった。
(さようなら……)
心の中で別れを告げて、ボクは、走った。ただひたすらに。冷たい地面の上、段々遠ざかっていく彼の気配を、背後に感じながら……。
(これでいいんだ……これが、ボクの選んだ“道”なんだから……)
そうして、ボクは再び、“独り”になった。