3話⑤
早朝、起きたらヒデがいなかった。
(どこ……!?)
どこに行った?
あんな状態で動けるわけがない。
ボクは焦りに焦って辺りを見渡した。
すると、
(……居た!)
幸い、すぐに見つけることができた。
よかった。ホッと一息。
まだ薄暗い部屋の中、机に向かって熱心になにかを書いているヒデ。
(なにしてるんだ?)
ボクはその足元に座って、その姿をじっと見つめた。
震える手でペンを握るヒデは、ぎこちない動きでなにか文字を書いているようだった。
「おはよう、ホーくん……ちょっと、待っててね……」
その声は小さくて、掠れてた。
ボクはニャーと小さく鳴いて返事したけど、ヒデは顔を上げずに机に目を落としたままだ。額には汗が浮かんでいて、呼吸が荒い。
昨日まで元気そうだった顔に、またあの青白さが戻っている。
ボクは居ても立ってもいられなくて、ヒデの膝の上に飛び乗った。
机の上に視線をやると、そこには一枚の紙切れが。
(手紙……?)
多分、そうだと思った。
誰かになにかを伝えたい時、人間はこうやって紙に言葉を乗せて送るらしい。
なんだって今そんなことをしてるのか? 全然分からないけど、ヒデの真剣な表情を見れば、それが凄く大事なことなんだっていうのは分かった。
紙には細かい字がたくさん並んでいる。所々インクが滲んでて、大変そうだ。でも、ヒデはペンを止めなかった。時々、険しい顔で深呼吸しながらも、一生懸命に誰かへの想いを紡いでいく。
ボクは、それを見ていることしかできなかった。
「ごめんね、ホーくん……本当に、ごめん……」
ヒデがポツリと呟いた。
(なんだよ……なんのごめんだ? 謝るなよ……いらないよ、そんなの)
その言葉は、なぜだか鋭くボクの胸に突き刺さって、思わずニャーっと大きな声で鳴いてしまった。
そんなボクを見て、ヒデは小さく笑う。でも、その笑顔はすぐに消えて、また真剣な表情に戻った。
ペンを握る手はますます震えが酷くなり、紙の上でインクが滲む回数も増えていく。
ボクは膝の上でじっと見つめながら、ヒデの息遣いがどんどん乱れていくのを感じた。
(もう、やめろよ……無理すんなよ)
ボクはもう一度、ニャーと鳴いて訴えた。
でも、ヒデは聞こえているのかいないのか、ただ黙々と書き続ける。
机の上の紙には、ぎっしりと文字が詰まっていて、まるでヒデが心の中を全部吐き出そうとしているみたいに思えた。
ボクには読めないけど、その一文字一文字にどれだけの想いが込められているのかは、なんとなく分かる気がした。
――カタン。
ペンが机に落ちる音。
突然、ヒデの手が止まった。
ボクがびっくりして顔を上げると、ヒデは目を閉じて、額に手を当てていた。小さな水玉が数滴、机の上にポタリと落ちる。
「ごめん……っ……ごめんね、まひる……」
ヒデの声は、さっきよりももっと小さく掠れて、まるで風に消えそうなほど弱々しかった。
(ヒデ……)
恋人の名前を呼ぶその姿に、ボクは胸が締め付けられるような気持ちになって、思わずヒデの胸に頭を押し付けた。
温かい。でもそれは、昨日まで感じていた温かさとは、まるで違うものに思えた。
(……やめろよ)
やめてくれ。
そんな遠い目をしないで。
嫌だよ。
ボクを見て。どこにも行かないでくれよ。こっちを、こっちを見て。
思わず大きな声でニャーと鳴いた。
ヒデはゆっくり目を開けて、ボクを見下す。その目は湿っていて酷い顔だったけど、すぐに小さく微笑むと、
「ホーくん……ありがとうね。ホントに、ありがとう……」
その言葉に、ボクの喉が詰まった。
ニャーとも鳴けなくて、ただヒデの胸に顔を埋めるしかなかった。
ヒデの手がボクの背中にそっと触れて、弱々しく撫でてくれる。その感触が、なんだかとても儚くて、切なくて。ボクはされるがまま、その手に体を預けていた。
机の上の手紙は、まだ完成していないみたいだった。
インクがにじんだ文字の最後には、途中で途切れた線が残っている。ヒデはその紙をじっと見つめてから、深く息を吐いた。
「あと少し……あと少しで終わるから」
ヒデはそう呟いて、再びペンを手に取った。
まひる……恋人に宛てた手紙。
震える指先で、ゆっくり、でも確実に文字を綴っていく。
ボクは膝の上でその姿を見守りながら、ただ祈るような気持ちだった。
ヒデがこの手紙を書き終えられるように。
ヒデがまだここにいてくれるように。
外では、朝の光が少しずつ部屋に差し込んできていた。でも、ヒデの周りだけは、なぜかまだ暗いまま。ボクはその膝にしがみついて、じっとしていた。
荒い息が頭の上を吹き抜ける。
この呼吸が聞こえる限り、ボクはここを離れない。離れるもんか、絶対に。
どれくらい時間が経ったのか。
ヒデの手が、ふと止まった。
ペンが机に軽く触れて、カタリと小さな音を立てる。
ボクはドキリとして顔を上げた。
ヒデは目を閉じて、深く息を吐いている。額の汗が一滴、紙の上に落ちて、またインクが滲んだ。
「でき、た……やっと……」
ヒデの声は、掠れてほとんど聞こえないくらいだった。でも、その言葉にはどこか安堵が混じっていて、ボクの胸が少しだけ軽くなった気がした。
机の上の紙を見ると、ぎっしり詰まった文字の最後には、震える線で「まひるへ」と書かれている。
ヒデはその紙をそっと折り畳むと、弱々しい手でボクの頭を撫でた。
「ホーくん……一個、お願い……していい?」
弱々しい声にボクの耳がピンと立った。
なんだ? お願い?
「届けて……欲しいんだ……まひるに」
その言葉に、ボクの喉がまた詰まった。ニャーと鳴こうとしたけど、声が出なくて、ただヒデの手に顔を擦り付けた。
ヒデは小さく笑って、ボクを膝からそっと下ろす。そして、折り畳んだ手紙を封に入れて机の端に置くと、窓に手を掛けて全開にした。
外の冷たい空気が部屋に流れ込む。
そうやってヒデは、力を使い果たしたかのように椅子の背にもたれかかった。
(届ける……? ボクが?)
頭の中でその言葉がぐるぐる回る。
どうやって? どこに?
分からないことだらけだったけど、ヒデの真剣な目を見れば、それがどれだけ大事な願いなのかは分かった。ボクは机の上の手紙を見つめて、胸の中で決めた。
「……ありがとう……」
まるで心が伝わったかのように礼を言われて、ボクは慌ててヒデの方を振り返った。
ヒデは目を閉じたまま、静かに椅子に座っている。
顔は青白かったけど、どこか穏やかそうな表情に見えた。
ボクはニャーと小さく鳴いて、ヒデの足元に擦り寄った。
でも、返事はなかった。
(ヒデ……?)
ボクはもう一度大きな声でニャーっと鳴いた。
だけど、ヒデは動かない。
ただ、静かにそこにいるだけ。部屋に差し込む朝の光が、ヒデの顔を照らして、まるで眠っているみたいだった。
(ヒデ……っ!)
ボクはしばらくその場でじっとしていた。
ヒデの呼吸がもう聞こえないことに気付いても、離れられなかった。
でも、机の上の手紙が目に入るたび、ヒデの言葉が頭の中で響く。
『届けてくれ……まひるに……』
最期の言葉、最期の願い、最期の約束。
(……分かったよ、親友)
約束だ……必ず、届けるよ……届けるからな!
ボクは決意を固めて、机の上に飛び乗った。
手紙を口にくわえると、そっと床に降りる。
ヒデにもう一度目をやった。静かに眠るようなその姿に、胸が締め付けられたけど、グッとこらえた。
ボクには、やることがある。
窓の隙間から外に出て、朝の冷たい風がボクの毛を撫でていく。
手紙をしっかりくわえて、ボクは走り出した。
まひるがどこにいるのかは分からない。でも、ヒデの想いが詰まったこの手紙を、必ず届ける。絶対に、届けてみせる。
アンタの想いは、確かに受け取った。
第3話 ――完――




