3話③
翌日、ボクの日常には少しずつ変化が訪れていた。
ヒデがボクを撫でる時間が減って、代わりに机に向かう時間が増えたんだ。
最初は、また新しい絵を描いてるのかなって思った。でも、なんだか様子が違う。
「ふぅー……」
重たい息を吐くことが多くなった。
いつもならボクが膝に乗ると嬉しそうに頭を撫でてくれるのに、最近は途中で手を止めて、ぼーっと窓の外を見たり、ソファに寝転がったりしてる。
絵の具の匂いが漂う部屋で、ヒデの顔が少し青白い気がした。
(どうした?)
ボクは心配になって、ヒデの近くに寄り添って座るようになった。
ある日、
「おっと……」
ヒデが机で絵を描いてる時に、突然ペンを落とした。
カランと床に転がる音に、ボクの耳がピクッと動いた。見上げると、ヒデが手で額を押さえて、眉を寄せてる。
「あはは……ごめん」
小さく呟いて、力なく笑うヒデ。
ボクは慌てて膝に飛び乗って、ニャーと鳴いてみた。
でも、
「ごめん、ホーくん……ちょっと休むね」
そう言って、ヒデは布団で横になる。その声が弱々しくて、胸がモヤモヤした。
それから、ヒデの様子はもっとおかしくなった。
朝起きるのが遅くなって、ご飯を食べる量も減った。
ボクが膝に乗っても、すぐに「ごめん」って降ろされちゃう。寝てる時間も増えて、ある夜なんて、ソファで寝たまま小さく咳き込んでた。
(風邪か?)
ボクには分からないけど、ヒデが元気じゃないことは確かだ。
無理もない。あんな雪の日に無茶をするからだ。
ただ、ヒデはボクに心配かけまいとしてか、「大丈夫だよ、ホーくん」って笑う。でも、その笑顔がだんだん力なくなっているように見えて、不安が募った。
ボクは、ヒデの傍にいることしかできなかった。
毎日、ヒデが布団から出てこない時間をじっと見つめて、時々ニャーと小さく鳴いてみる。
でも、ヒデは、
「ありがとう、ホーくん」
って呟くだけで、起き上がる気配がない日も増えた。
ある朝、窓から差し込む光が部屋を薄く照らす中、ヒデがやっと布団から這い出してきた。
でも、その足取りはおぼつかなくて、キッチンに向かう途中で壁に手をついて立ち止まった。
「……やっぱり、病院行ったほうがいいかな……?」
ヒデが独り言のように呟いたのを、ボクは耳を立てて聞いた。
病院って何だ?
ボクにはよく分からないけど、よっぽどの調子が悪いんだろうと思った。
その日、ヒデは震える手でどこかに電話をかけていた。
誰かと少し話した後、
「うん、分かった。すぐ行くよ」
と小さく答えて、電話を切った。そして、ボクの方を見て、力のない笑顔を浮かべた。
「ホーくん、ちょっと留守番頼むね。すぐ帰ってくるから」
そう言って、ヒデは身支度を済ませると、よろよろと玄関に向かった。
(そんなんでどこ行くんだよ?)
一瞬追いかけようかと思ったけど、我慢した。
ドアが閉まる音がして、部屋に静寂が戻る。
胸のモヤモヤがさらに大きくなって、ボクはヒデの使っていた毛布の上に丸まって待つことにした。
時間がどれくらい経ったのか分からない。
外が少し暗くなり始めた頃、ガチャリとドアが開く音がした。
ボクの耳がピクッと動いて、すぐに飛び起きた。
帰ってきたんだ!
「ただいま、ホーくん……」
ヒデの声。でも、いつもより掠れていて、疲れきった響きがあった。
見ると、ヒデの手には白い袋が握られていて、そこから薬の匂いが漂ってきた。
ボクは急いで近寄って、足元に擦り寄った。
「心配かけてごめんね。お医者さんに診てもらったら、ちょっと疲れが溜まってたみたい。それと……風邪も引いてたっぽいよ」
ヒデはそう言って、ソファにどさっと座った。そして、袋から薬を取り出して、ボクの方に目をやった。
「大丈夫! 薬飲んで、ちゃんと休めば元気になるってさ。ホーくん、ありがとう」
その言葉に、ボクは少し安心した。ヒデの手が久しぶりにボクの頭をゆっくり撫でてくれて、その温かさが気持ちよかった。
少し青白かった顔にも、ほんの僅かだけど色が戻ってるような気がした。
それから数日、ヒデは少しずつ元気を取り戻していった。薬を飲んで、ちゃんとご飯を食べて、寝る時間を増やしてた。
ボクが膝に乗ると、また嬉しそうに笑ってくれるようになった。
絵を描く時間はまだ少ないけど、机に向かう姿が戻ってきたのを見て、ボクの胸のモヤモヤも少しずつ消えていった。
(よかった……)
ボクはヒデの傍で丸まって、静かに目を閉じた。部屋にはまた、絵の具の匂いとヒデの優しい息づかいが戻ってきていた。
更に数日が過ぎて、ヒデとボクの日常が少しずつ元の形に戻りつつあった。
朝、窓から差し込む光が部屋を暖かく照らす中、ヒデは布団から出てきて、ボクに「おはよう、ホーくん」と声をかけてくれた。
その声に力が戻っていて、ボクは安心してニャーと返事をした。
「よし、今日はちょっと描いてみようかな」
ヒデがそう呟いて、机に向かう姿を見た時、ボクの耳がピクッと動いた。
久しぶりに聞くその言葉に、なんだか嬉しくなる。
ヒデは絵の具のチューブを手に取って、パレットに色を絞り出す。
まだちょっと震えてぎこちない手つきだったけど、筆を動かし始めると、だんだんその動きにリズムが生まれてきた。
絵の具の匂いが部屋に広がって、ボクはその香りを嗅ぎながら、ヒデの足元に座った。
(やっと戻ってきたな)
ボクはそう思って、静かに目を細めた。
ヒデが絵を描いている時の顔は、いつもより生き生きしてる。眉間に寄っていたシワが消えて、口元に小さな笑みが浮かんでた。
時々、ボクの方を見て、
「どうかな、ホーくん?」
なんて聞いてくるから、ボクはニャーと小さく鳴いて応援した。
その日から、ヒデの生活に少し新しい習慣が加わった。朝ごはんをちゃんと食べて、薬を飲んで、少し散歩に出かけるようになったんだ。
最初は近所の公園まで行くだけだったけど、日が経つにつれて、歩く距離が少しずつ伸びていった。ボクは窓際でヒデの帰りを待つのが日課になって、外から聞こえる足音に耳を立ててた。
「ただいま、ホーくん。今日はちょっと遠くまで行ってきたよ」
ヒデがそう言って帰ってくるたび、手には何か小さなものが握られてることが多かった。時にはコンビニの袋、時には道端で拾ったきれいな葉っぱ。ある日なんて、小さな花を手に持って帰ってきた。
「ホーくん、見てよ。これ、僕らが出会った公園の脇に咲いてたんだ。絵に描いたら映えるかな?」
ヒデはそう言って、花をボクの鼻先に近付けてきた。
甘い匂いと花粉、ボクは思わずクシャミをした。
「あはは、ごめんごめん」
ヒデが笑う声が部屋に響いて、なんだか嬉しい気持ちになった。
それから、ヒデの絵にも変化が現れ始めた。今までは暗い色が多くて、どこか寂しげな絵が多かったけど、最近は明るい色が混じるようになった。
青や黄色、緑がキャンバスに広がって、ボクが見てもなんだか元気が出るような絵。ヒデは時々、ボクを膝に乗せて、その日の進捗を見せてくれる。
「ホーくん、どう思う? ここ、もう少し色足そうかな」
ボクはニャーと鳴いて、ヒデの手を軽く頭で押した。すると、ヒデは嬉しそうに笑って、
「よし、ホーくんのOK出た!」
なんて冗談っぽく言って、また筆を動かし始めた。
ある晴れた日の午後、ヒデが久しぶりに大きなキャンバスを広げた。
机の上に置かれたそれは、今までよりずっと大きかった。ボクが興味津々で見上げてると、ヒデが少し照れくさそうに言った。
「実はさ……お医者さんに診てもらった時に、ちょっと考えたんだ。元気になったら、でっかい絵を描いてみようってさ……そしたら、なんか気持ちが晴れる気がして」
その言葉を、ボクは耳を立ててじっと聞いた。
ヒデはその大きなキャンバスに、ゆっくりと筆を滑らせ始めた。
何日も何日も、最初は線だけだったのが、色が加わって、形になってく。
ボクはヒデの横で丸まって、その様子をずっと眺めていた。
時間をかけて、絵は少しずつ完成に近づいていく。
そこには、雪の日の公園が描かれてた。
ボクらが出会った公園。あの聖夜の景色を切り取ったかのような絵。
ぼんやりとした温かな街灯の光、雪の上に残った足跡が、ヒデとボクのことを思い出させた。
「完、成……!」
ヒデがそう言って、完成した絵をボクに見せてくれた時、その顔には誇らしげな笑みが浮かんでいた。
(いい絵だな)
そう言うようにボクはニャーと鳴いて、ヒデの膝に飛び乗る。
ヒデの手がボクの背中をゆっくり撫でてくれて、その温かさが胸に染みた。
「ありがとう。これからも、ホーくんと一緒にいろんなもの描いていきたいな……」
当たり前だろ。
ヒデの言葉に、ボクは目を閉じて、静かに喉を鳴らした。
部屋には絵の具の匂いと、ヒデの穏やかな息づかいが満ちてて、ボクはその中で安心して丸まった。
外から暖かい日が差して、部屋を照らす。
これからも、ヒデとボクの日常は、また新しい色で塗り替えられていくんだろう。
ボクはそう思って、ヒデの傍で眠りについた。
――その翌日、ヒデは布団から出てこなかった。




