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K ~聖なる夜の物語~  作者: 夜長月虹
第三話「二度目の冬」
13/15

3話③

 翌日、ボクの日常には少しずつ変化が訪れていた。

 ヒデがボクを撫でる時間が減って、代わりに机に向かう時間が増えたんだ。

 最初は、また新しい絵を描いてるのかなって思った。でも、なんだか様子が違う。


「ふぅー……」


 重たい息を吐くことが多くなった。

 いつもならボクが膝に乗ると嬉しそうに頭を撫でてくれるのに、最近は途中で手を止めて、ぼーっと窓の外を見たり、ソファに寝転がったりしてる。

 絵の具の匂いが漂う部屋で、ヒデの顔が少し青白い気がした。


(どうした?)


 ボクは心配になって、ヒデの近くに寄り添って座るようになった。


 ある日、


「おっと……」


 ヒデが机で絵を描いてる時に、突然ペンを落とした。

 カランと床に転がる音に、ボクの耳がピクッと動いた。見上げると、ヒデが手で額を押さえて、眉を寄せてる。


「あはは……ごめん」


 小さく呟いて、力なく笑うヒデ。

 ボクは慌てて膝に飛び乗って、ニャーと鳴いてみた。

 でも、


「ごめん、ホーくん……ちょっと休むね」


 そう言って、ヒデは布団で横になる。その声が弱々しくて、胸がモヤモヤした。

 それから、ヒデの様子はもっとおかしくなった。

 朝起きるのが遅くなって、ご飯を食べる量も減った。

 ボクが膝に乗っても、すぐに「ごめん」って降ろされちゃう。寝てる時間も増えて、ある夜なんて、ソファで寝たまま小さく咳き込んでた。


(風邪か?)


 ボクには分からないけど、ヒデが元気じゃないことは確かだ。

 無理もない。あんな雪の日に無茶をするからだ。

 ただ、ヒデはボクに心配かけまいとしてか、「大丈夫だよ、ホーくん」って笑う。でも、その笑顔がだんだん力なくなっているように見えて、不安が募った。


 ボクは、ヒデの傍にいることしかできなかった。

 毎日、ヒデが布団から出てこない時間をじっと見つめて、時々ニャーと小さく鳴いてみる。

 でも、ヒデは、


「ありがとう、ホーくん」


 って呟くだけで、起き上がる気配がない日も増えた。


 ある朝、窓から差し込む光が部屋を薄く照らす中、ヒデがやっと布団から這い出してきた。

 でも、その足取りはおぼつかなくて、キッチンに向かう途中で壁に手をついて立ち止まった。


「……やっぱり、病院行ったほうがいいかな……?」


 ヒデが独り言のように呟いたのを、ボクは耳を立てて聞いた。

 病院って何だ?

 ボクにはよく分からないけど、よっぽどの調子が悪いんだろうと思った。

 その日、ヒデは震える手でどこかに電話をかけていた。

 誰かと少し話した後、


「うん、分かった。すぐ行くよ」


 と小さく答えて、電話を切った。そして、ボクの方を見て、力のない笑顔を浮かべた。


「ホーくん、ちょっと留守番頼むね。すぐ帰ってくるから」


 そう言って、ヒデは身支度を済ませると、よろよろと玄関に向かった。


(そんなんでどこ行くんだよ?)


 一瞬追いかけようかと思ったけど、我慢した。

 ドアが閉まる音がして、部屋に静寂が戻る。

 胸のモヤモヤがさらに大きくなって、ボクはヒデの使っていた毛布の上に丸まって待つことにした。


 時間がどれくらい経ったのか分からない。

 外が少し暗くなり始めた頃、ガチャリとドアが開く音がした。

 ボクの耳がピクッと動いて、すぐに飛び起きた。

 帰ってきたんだ!


「ただいま、ホーくん……」


 ヒデの声。でも、いつもより掠れていて、疲れきった響きがあった。

 見ると、ヒデの手には白い袋が握られていて、そこから薬の匂いが漂ってきた。

 ボクは急いで近寄って、足元に擦り寄った。


「心配かけてごめんね。お医者さんに診てもらったら、ちょっと疲れが溜まってたみたい。それと……風邪も引いてたっぽいよ」


 ヒデはそう言って、ソファにどさっと座った。そして、袋から薬を取り出して、ボクの方に目をやった。


「大丈夫! 薬飲んで、ちゃんと休めば元気になるってさ。ホーくん、ありがとう」


 その言葉に、ボクは少し安心した。ヒデの手が久しぶりにボクの頭をゆっくり撫でてくれて、その温かさが気持ちよかった。

 少し青白かった顔にも、ほんの僅かだけど色が戻ってるような気がした。


 それから数日、ヒデは少しずつ元気を取り戻していった。薬を飲んで、ちゃんとご飯を食べて、寝る時間を増やしてた。

 ボクが膝に乗ると、また嬉しそうに笑ってくれるようになった。

 絵を描く時間はまだ少ないけど、机に向かう姿が戻ってきたのを見て、ボクの胸のモヤモヤも少しずつ消えていった。


(よかった……)


 ボクはヒデの傍で丸まって、静かに目を閉じた。部屋にはまた、絵の具の匂いとヒデの優しい息づかいが戻ってきていた。


 更に数日が過ぎて、ヒデとボクの日常が少しずつ元の形に戻りつつあった。

 朝、窓から差し込む光が部屋を暖かく照らす中、ヒデは布団から出てきて、ボクに「おはよう、ホーくん」と声をかけてくれた。

 その声に力が戻っていて、ボクは安心してニャーと返事をした。


「よし、今日はちょっと描いてみようかな」


 ヒデがそう呟いて、机に向かう姿を見た時、ボクの耳がピクッと動いた。

 久しぶりに聞くその言葉に、なんだか嬉しくなる。

 ヒデは絵の具のチューブを手に取って、パレットに色を絞り出す。

 まだちょっと震えてぎこちない手つきだったけど、筆を動かし始めると、だんだんその動きにリズムが生まれてきた。

 絵の具の匂いが部屋に広がって、ボクはその香りを嗅ぎながら、ヒデの足元に座った。


(やっと戻ってきたな)


 ボクはそう思って、静かに目を細めた。

 ヒデが絵を描いている時の顔は、いつもより生き生きしてる。眉間に寄っていたシワが消えて、口元に小さな笑みが浮かんでた。

 時々、ボクの方を見て、


「どうかな、ホーくん?」


 なんて聞いてくるから、ボクはニャーと小さく鳴いて応援した。

 その日から、ヒデの生活に少し新しい習慣が加わった。朝ごはんをちゃんと食べて、薬を飲んで、少し散歩に出かけるようになったんだ。

 最初は近所の公園まで行くだけだったけど、日が経つにつれて、歩く距離が少しずつ伸びていった。ボクは窓際でヒデの帰りを待つのが日課になって、外から聞こえる足音に耳を立ててた。


「ただいま、ホーくん。今日はちょっと遠くまで行ってきたよ」


 ヒデがそう言って帰ってくるたび、手には何か小さなものが握られてることが多かった。時にはコンビニの袋、時には道端で拾ったきれいな葉っぱ。ある日なんて、小さな花を手に持って帰ってきた。


「ホーくん、見てよ。これ、僕らが出会った公園の脇に咲いてたんだ。絵に描いたら映えるかな?」


 ヒデはそう言って、花をボクの鼻先に近付けてきた。

 甘い匂いと花粉、ボクは思わずクシャミをした。


「あはは、ごめんごめん」


 ヒデが笑う声が部屋に響いて、なんだか嬉しい気持ちになった。

 それから、ヒデの絵にも変化が現れ始めた。今までは暗い色が多くて、どこか寂しげな絵が多かったけど、最近は明るい色が混じるようになった。

 青や黄色、緑がキャンバスに広がって、ボクが見てもなんだか元気が出るような絵。ヒデは時々、ボクを膝に乗せて、その日の進捗を見せてくれる。


「ホーくん、どう思う? ここ、もう少し色足そうかな」


 ボクはニャーと鳴いて、ヒデの手を軽く頭で押した。すると、ヒデは嬉しそうに笑って、


「よし、ホーくんのOK出た!」


 なんて冗談っぽく言って、また筆を動かし始めた。


 ある晴れた日の午後、ヒデが久しぶりに大きなキャンバスを広げた。

 机の上に置かれたそれは、今までよりずっと大きかった。ボクが興味津々で見上げてると、ヒデが少し照れくさそうに言った。


「実はさ……お医者さんに診てもらった時に、ちょっと考えたんだ。元気になったら、でっかい絵を描いてみようってさ……そしたら、なんか気持ちが晴れる気がして」


 その言葉を、ボクは耳を立ててじっと聞いた。

 ヒデはその大きなキャンバスに、ゆっくりと筆を滑らせ始めた。

 何日も何日も、最初は線だけだったのが、色が加わって、形になってく。

 ボクはヒデの横で丸まって、その様子をずっと眺めていた。

 時間をかけて、絵は少しずつ完成に近づいていく。

 そこには、雪の日の公園が描かれてた。

 ボクらが出会った公園。あの聖夜の景色を切り取ったかのような絵。

 ぼんやりとした温かな街灯の光、雪の上に残った足跡が、ヒデとボクのことを思い出させた。


「完、成……!」


 ヒデがそう言って、完成した絵をボクに見せてくれた時、その顔には誇らしげな笑みが浮かんでいた。


(いい絵だな)


 そう言うようにボクはニャーと鳴いて、ヒデの膝に飛び乗る。

 ヒデの手がボクの背中をゆっくり撫でてくれて、その温かさが胸に染みた。


「ありがとう。これからも、ホーくんと一緒にいろんなもの描いていきたいな……」


 当たり前だろ。

 ヒデの言葉に、ボクは目を閉じて、静かに喉を鳴らした。

 部屋には絵の具の匂いと、ヒデの穏やかな息づかいが満ちてて、ボクはその中で安心して丸まった。

 外から暖かい日が差して、部屋を照らす。

 これからも、ヒデとボクの日常は、また新しい色で塗り替えられていくんだろう。

 ボクはそう思って、ヒデの傍で眠りについた。











 ――その翌日、ヒデは布団から出てこなかった。

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