竜と天使の物語 1
鷲の物語
海が鳴いている。
凍りつき、押し砕けながら、低く鳴いている。
千年樹の森に舞う、わずかに潮の臭いを含んだ雪だけが、私達を包み込んでいる唯一のものだった。
「少し外を見てくるよ」
私はまだ眠っている妻にそう言い残すと、まだ覚めない翼を広げ、巣から飛び立った。
大陸の最北部にある北の大海。千年雪と呼ばれる永久凍土に閉ざされたこの地は、三日三晩の荒れ狂うような吹雪に見舞われた。
痩せ細った土地にありがなら、豊かな実りをもたらす千年樹の森はたちまち凍りつき、力強き流れで南から海の幸を運ぶ大海も、その鼓動を止めた。
未だかつてない出来事に、この地に住まう者たちは不安な日々を過ごすことを余儀なくされた。
しかし、その日の朝、私が不思議な海の鳴き声を聞いて目を覚ますと、吹雪は嘘のように収まっていた。穏やかな朝の森には夜明けのカーテンが差し込んでいた。
私は人間の家ほどの太さがある巨樹の間を縫うように飛び、やがて海へと出た。
だが、そこには海ではなく、白い大地が地平線の彼方まで続いていた。否、それは水平線と言った方が正しいだろう。渦巻く北の大海は、広大な流氷に閉ざされていた。
いつもは様々な生き物達で賑わう大海に、動く影は見えなかった。眼下には果てしなく続く白銀の世界だけが、悠然と凍てつく巨体を横たえていた。
「これが言い伝えに聞く『白き天災』か……」
今から千年も昔、大陸中を雪で閉ざした災害があったという。『白き天災』と呼ばれるそれは、大陸の各地で大規模な飢饉を起こした後も、千年間に渡って北の大地を溶けない雪で閉ざした。
私は眼下に広がる光景が、伝えに聞く『白き天災』の再来であると確信した。ここではかなり年長な方の私だが、海が全て凍りつくような光景など見たこともない。
氷は三日ぶりの日の光を浴びて温められたのか、低い唸り声を響かせながら、鼓動を取り戻した一つの巨大な生物のように、ゆっくりと動いていた。
私は見回りのために、どこまでも続く白い世界を北へと羽ばたいていた。
その間、流氷は次々と割れていった。割れ目から青い海面が見えた。
すると、そこから雪アザラシや海キツネなど、この大地に住まう、様々な生き物達が姿を現し始めた。
彼らは海の中の巣穴に隠れて、氷が割れるのを待っていたのだろう。
彼らが現れると、どこからともなく海鳥達がやって来た。
中には私の仲間達もいたが、私はこのまま飛ぶことにしよう。また後で、春に群れを成してやってくる飛び鰯の話でもしようじゃないか。
私はかつてない寒波の影響を心配していたが、その必要はなかったようだ。皆、それぞれ逞しくやり過ごしたのだ。
私が安心していると、突然、氷の割れ目から海がドーム状に膨れ上がった。
すると、現れた巨大な黒い物体の天辺から、勢いよく潮が噴き出した。
彼らもその時を待っていたのだ。
それは私が知る中で、この海でもっとも大きな生き物だろう。
流氷の上に出てきた者達が、驚いて逃げて行ってしまった。
だが、根は優しい奴らで、様々な海を旅した話を私に聞かせてくれる。
だから私は海の上の話をしてやるのさ。鯨と話をするのは私の楽しみの一つだ。
北の大海を悠然と泳ぐ鯨達を見下ろしていた私は、ふと地鳴りを耳にした。
見れば、遠くでカリブー達の群れが、白い雪煙を巻き上げながら流氷を渡っていた。白き水平線へ続く大移動は、ただひたすらに、北へ、北へと向かっていた。
流氷が来るのを見計らって、この大海の先にあるという北の大陸へと渡ろうとしているのだろう。千年樹の恵み以外は、餌の乏しい陸地側に住まう彼らのことだ。新たなる餌場を求めて、かの伝説の大地に夢馳せたのだろう。
北の大陸には、かつて最も栄えた人間達の文明があったそうだ。
だが、千年前に起こった大戦争によって滅び去り、今では誰も住まぬ土地となっているらしい。
人が住まなくなったが故に豊かな自然が栄え、今では精霊達が自由気ままに暮らしているという。
それはこの北の地に住む者なら、誰もが聞いたことのある古い言い伝えだった。
「む、あれは……」
海を渡るカリブー達を不安げに眺めていた私の瞳に、何かが写った。
辺りはカリブー達が巻き起こした粉雪で、一面真っ白だ。
だが、私は彼らの群れの中に、確かにその姿を見たのだ。
遥か遠くの陸地を跳ねる雪ウサギの足跡さえ見逃さぬ私の目が、見まがうはずもない。それはカリブー達とは逆方向に歩いていた。
「なぜ、こんなところに人間がいるのだ?」
カリブーの群れの中に、私は一人の人間の姿を捉えた。
カリブー達は人間を避けながら北へと走っている。
人間はカリブーたちとは逆、南に向かって歩いていた。
今朝まで、吹雪の荒れ狂う大海でしかなかった場所に、なぜ人間がいるのか。
そんなことは私の預かり知るところではなかったが、興が生じた私は近くへと降りてみることにした。
私は海から突き出した氷の上に留まると、その奇妙な人間を観察することにした。
そ奴は、ひび割れる氷に行く手を阻まれながらも、かろうじて渡れる足場を探して歩いていた。
真っ白な絹のローブに身を包み(寒さから身を守る羽毛もない人間というのは、気の毒な生き物だ)、頭から生えた毛は雪のように白く、顔に浮かぶ海のように青い二つの瞳と白い肌は、一瞬、人間の雌を思わせるが、体つきから見て、おそらく雄だろう。それもまだ若い。青年といったところか。
カリブー達の巻き起こした雪は、まるで荒れ狂う吹雪のように辺りを取り巻いていた(カリブー達が巻き起こした? 否、果たしてそれだけだろうか――)。
しかし、宙を舞う雪は、まるで青年を中心にして取り巻いているかのようにも思えた。それは力強い狂おしさを含んだ、美しい雪の風だった。
日はもう既に高い。割れゆく氷は唸り声を上げながら、南の彼方に霞んで見える陸地まで続いている。
それを横目に、私はこの人間がどうしてこんな場所にいるのかを考えた。
言い伝えが確かであるのなら、北の大陸にまだ人間が残っていたとは考えにくい。人間を乗せた船が、流氷にでも流されたのだろうか。
と同時に私は、この人間がこの氷の海を渡れるかどうかに興味が湧いた。
このような『白き天災』を、たった一人の人間が無謀にも渡ろうとしているのだ。運よく南の陸地まで辿り着けるか、それとも大海に飲み込まれ、藻屑と消えるか。
そんな他愛もないことを考えていた私は、ふと青年の青い双眸が、近くにいた私の姿を捉えていたことに気が付かなかった。
青年は歩みを止め、一時の間、私を眺めていた。
そして、おもむろにこちらに向き直ると、私の方に向って歩き出したのだ。
私は一介の鳥類を演じるため、すぐに飛び去ろうと考えたが、その後、青年が取った予想だにしない行動に、思わず広げた翼をたたんでしまった。
「待ってくれ。すまないが、道を尋ねたいんだ」
青年は何を思ったのか私に声を掛けてきたのだ。
おかしな奴だ、迂闊にもその言葉に耳を貸してしまった私は、答えるべきか否か迷った。このまま飛び去ってしまうべきだろうか。
しかし、逃げなかった時点で、青年の目には、私が不自然に捉えられてしまっただろう。だが、いきなり話しかけてくるとは予想外極まりない。
私はとりあえず、このまま黙っていることにした。
「ねぇあんた、君はこの辺りに詳しくはない? 道が聞きたいんだけど」
いったい何だというのか。
私が黙っていても、青年の青い瞳はまっすぐに私を見つめていた。
その瞳は誠実で、濁りのない、とても澄んだ良い瞳だった。
「……いかにも。私はここら一帯のことについては誰よりも良く知っている」
結局、私の方が根負けして、あっさりと嘴を開いた。というよりは、この青年はごまかせないだろうことを悟ったからかもしれない。
人間と言葉を交わすのは、何十年ぶりのことであろうか。
「それなら『帰らずの城』までの道のりもか?」
「!」
私は次に青年が口にした言葉に開いたクチバシがふさがらなかった。
「……もちろんだとも。だが、もしや、お主はそこまで行くつもりなのか?」
我々の言葉を解する者と話すことは希少なこととはいえ、私に限らず大抵の動物達は、人間と話をすることを避けるものだ。
にもかかわらず、私は自ら人間の青年に問い返してしまった。
青年は静かに頷いてみせた。
千年前、北の大陸の文明をも滅ぼした大戦争は、二つの人間の大国の争いが発端だったといわれている。皇帝が治める帝国と、王が治める王国だ。
二つの大国はそれぞれ『竜』と『天使』にまつわる創世の神話を国の起源としていた。しかし、『天使』を信仰する帝国と、『竜』を信仰する王国との間に、次第に軋轢が生じた。
二つの大国の宗教的な小競り合いは、やがて世界中を焼き尽くす大戦争に発展した。架空の存在を巡って殺し合いができる人間とは哀れな生き物だ。
戦争は王国側の勝利に終わったが、すでに多くの命が失われてしまっていた。
世界が悲しみで覆われてしまったことにより、『白き天災』が起こり、その結果、大地を今のような雪に閉ざされた地にしてしまったのだという。
その史実を語り継ぐ場所、それが『帰らずの城』だ。
千年樹の奥地を越えたさらにその先、北の大海の辺境にあるというその城を、実際に私も目にしたことはない。
だが、大戦争の終焉が迎えられたというその場所で、城は千年もの間、海風にさらされながら、不気味な出で立ちで残っているという。
「私が知る限り、その城に立ち入った者が帰ってきたという話はない。それは人間でさえ、他の動物でさえ……故に、私の勇敢な仲間達も近づくことは決してない。それをなに故、お主はあの場所へと赴こうというのだ?」
私は青年に問わざるを得なかった。このような場所に突如として現れた彼は、なぜ、あの場所へと向おうとしているのか。それが私の興をくすぐったのだ。
青年の答えは酷く端的なものだった。
「人を探しさのようなものさ」
人間とは時に稀有な行動を取る生き物だということは知っていた。
青年の目的がどことなく滑稽に思えて、私は喉を鳴らした。
「ふむ、自らの身を危険にさらし、それでも歩を進めるか、人間よ」
「……俺は他に旅をする理由を知らなくてね」
生憎、とでもいうような青年の態度だったが、私はその奥に言いようのない青年の覚悟を垣間見た気がした。
私が空を仰ぐと、いつしか雪の風は収まっていた。キラキラと光るスノーダストの空に浮かぶ白い光の球が、世界を優雅に見下ろしていた。
青年は冷たい光を降らせる空を、どこか寂しげに見上げていた。そのような哀愁の表情を浮かべる人間を私は知っている。
「旅人か。久しいな」
私もかつて人の営みを旅したことがあった。そこで見かけた旅人という者達は、人間の中でもとても稀有な存在だった。彼らは自らの居場所を持たなかった。大きな権力や富にも関心を寄せることはなかった。
全ては己の旅の目的のために、彼らは世界を巡っていた。世界を巡ること、それ自体を目的とする者もいた。
私は人間の中でも彼らのことは良く思っていた。
「……いいだろう。ここで出会えたのもこともまた何かの縁だ。私がそこまで道案内をしてやろう」
私は青年にどこか懐かしさのようなものを感じ、自ら案内役を買って出た。
「おい、それは本当か?」
「ああ。私は嘘をつかないさ。それよりも、早く渡らないと足場が無くなってしまうぞ。私が空から先導してやろう」
「悪い。恩にきるよ」
私は翼を大きく広げ、飛び立った。
晴天の空に照らし出された流氷の動きは、先ほどよりも早くなっていた。
私は空から氷の動きを見極めながら、青年を誘導して飛んだ。人間の歩みに合わせて飛ぶのもたまにはいいものだ。
そんなことを考えていると、どこからともなく雌の鷲が飛んで来て、私の近くに寄り添った。青年がこちらを見上げている。
「隣を飛んでいるのは私の妻だ。連れ添ってもう十年になる」
私が恋しくなったのか、巣から出てきたようだ。
私も妻に合わせて飛んだ。まだ若い、自慢の妻だ。
「悪いが私は少し出かけてくるよ。……なあに、寂しそうな顔をするな。すぐ戻ってくるさ」
彼女はしばらく私の傍を離れなかったが、やがて寂しそうに喉を鳴らすと、風に乗って離れていった。
ふと、私は青年ががしている者とはどんな者だろうかと考えた。
彼はとても懐かしい匂いのする人間だ。私が人の営みを旅して巡っていた頃、どこかで会ったことがあっただろうか。
「青年よ、名を聞こう」
私は下を歩いている青年に言い放った。
「私の名はユーグリッド。北の竜鷲『ラグエル』一族の長だ。長いんでみなユド、とそう呼ぶ」
「僕の名はナハルだ」
ナハル。それが白き天災を渡ってきた人間の名か。私も随分と長く生きてきたが、この世には稀有なことがまだまだあるらしい。
「さあ、行くぞ。大地は近い」
雪は止んでいた。
まるで彼をとどけ終えたかのように。
それが、私と青年との出会いだった。
第一話 村娘の物語
遥か遠い昔、竜と天使は恋をしました。
天と地がまだ青い川を隔てて在った頃、まだ創造と破壊を繰り返していた大地が、人間達の争いに染まることなく在った頃、竜と天使は恋をしました。
竜は天空に更なる高みを夢見、光を求めました。
天使は大地に留まり、竜と共に暮らすことを望みました。
でも、神はそれを許しませんでした。
天空は大地より離れ、大地は天空より離れ、いつしか二人の間には決して渡ることのできない青い海が生れました。
永遠の別れを前に、竜と天使は約束を交わしました。
再びこの世界のどこかで出会うという約束を。
それは遠い昔の物語。
遥か遠い昔の物語……。
1
雪深い森の中を歩いていた。
道なき道を、ただひたすらに歩いていた。
雪を掻き分けるようにして進む私の足の感覚は、もうとっくの昔にどこかへ行ってしまった。
きっともう駄目になっているんだろう。それでも私は歩くことをやめなかった。
お母さんは正しかったのだ。きっと間違っていなかったのだ。
村のみんなは信じてはくれないけれど、私はお母さんを信じている。
だから、私は行かなければならない。
行って確かめなければならないのだ。
――ナイア、あの場所へ行ってはだめ……。
――ナイア、戻ろう。今ならまだ間に合う……。
どこからともなく声がした。
私は自分のクロークの裾を踏んづけて、雪に突っ伏すように倒れ込んだ。
それだけで、私の全身は雪に埋もれてしまった。
雪の中から何とか体を起こそうとしたが、体が上手く動かなかった。そういえば、手の感覚もほとんどなくなっている。
見れば、手は裾を握り締めた形のまま、赤く腫れ上がり、指を動かすことすら出来なかった。
――ナイア、戻れなくなってしまうよ……。
――ナイア、引き返そう……。
「うるさい。私の邪魔をしないで!」
もうあの村に戻るつもりなんてないもの。『声』達にそう告げると、私は目の前にフワフワと浮いていた小さな光の玉を乱暴に振り払った。
もう誰にも邪魔されなくなんかない。そう思って立ち上がろうとした私は、再びその場に倒れてしまった。足が動かなかったのだ。
振り返って後ろを見ると、雪の上にできた私の足跡が、薄い赤色に染まっていた。
ああ、私はもうこんなになってしまっていたんだ……。
吹雪が止んでいる昼間なら、もしかしたら、あの場所まで辿り着けるんじゃないかと思ったのだ。でも、そんな私が甘かった。
足が使えなくなってしまったことを悟ると、私は力なく身体を雪の上に横たえた。
雪の積もった森の中は、何も音が聞こえなかった。
木々の向こうに見える冷たい空は、どこまでも遠く、蒼く澄みきっていた。
「ごめんね、お母さん……」
まだ暖かい私の涙が頬から落ちて、雪に吸い込まれて消えた。
一羽の鷲が空から降りてきて、近くの木の枝にとまるのが見えた。きっと遠くから見ていて、私が力尽きて倒れるのを待っていたのだろう。
どうせ食べられるのなら、『帰らずの城』にいるという竜に食べられる方がよかった。そしたら、竜はいるんだって証明できるから。
なんだかもう眠くなってきて、私はまぶたを閉じた。
でも、これでやっと楽になれる。全てから開放される。
そしたら、お母さんと会えるだろうか……。
暗闇が訪れる一瞬、近くに誰かがいたような気がした。けれど、私には既にどうでもいいことだった。
ただ、その時の雪は、とても優しい香りがした、そんな気がした。
2
「……」
瞼を開くと、見慣れた天井がそこにはあった。千年樹を切り倒して造られた木組みの天井だ。部屋にはほのかに甘い香りが漂っていた。
私はこの家のあらゆる物が嫌いだが、この部屋だけはとても好きだった。二階の一番客室は、私の一番お気に入りの部屋だった。晴れている時には程よく日が差し込み、全部で三つある部屋の中では唯一、専用の暖炉がついていて、冬はとても暖かかった。掃除の途中で寝転がると、いつの間にか眠ってしまうくらいだ。
私はハッとした。
いけない。何で私、客室で寝ているんだろう!
また掃除の間に居眠りしてしまったのだろうか。客室の、しかも一番いい部屋で居眠りをしていたなんて、モーラおばさんに知られたら、また酷く怒られてしまう。
棒で叩かれるくらいならまだいいが、この寒い時期にご飯を抜きにされてしまうのだけは、なんとしても避けたかった。
私は慌ててベッドから身体を起こそうとした。
でも、直後に手足に激痛が走って、私は思わず小さく悲鳴を上げた。
「まだ起きない方がいい」
突然かけられた声に私はびっくりした。
声のした方を見ると、窓際に備え付けられた木の机に、誰かが座っていた。
「目が覚めたのか。食欲があるのなら、そこに置いてあるものを食え」
とても優しい声色をしたその人物は、ベッドの横を指さした。ベッドの脇のテーブルには、パンとお芋のスープが置いてあった。
私はいきなりのことで、よく状況が飲み込めていなかった。
目の前の人物は、雪のように真っ白な髪の毛をしていた。私は一瞬、女の人かと思ったけれど、例えるのなら、そう、とても綺麗な男の人だった。
私はそんな男の人を見たことがなかったから、しばらく、ポカンと眺めていた。
でも、すぐに手足に痛みを感じて、私は顔を歪ませた。
見 れば、私の手はまるでミイラみたいに包帯でぐるぐる巻きにされていた。布団の下を覗くと、足の方も同じように包帯が巻かれていた。
「昨日、森で倒れていたあんたをみつけてな。近くに村があるとユドに聞いて、君をここまで運んだんだ。手当ては済ましてあるから、後はゆっくり休めば、ここは君の家なんだろ?」
私は白い青年にそう言われて初めて理解した。その直後、底知れぬ絶望感が私を襲った。
私はあろうことか帰ってきてしまったのだ。
「どうしたんだい?」
私が黙っていると、青年は心配そうに聞いてきた。
私は俯いたまま、震えが止まらなかった。
「……ここは私の家なんかじゃない」
私の声は低く唸るような響きだった。私はあふれ出す感情が抑えられなかった。
そう、ここは私の家なんかじゃない。
「……どうして助けたの? どうして連れてきてしまったの? 私なんか……私なんか、あのまま森で死なせてくれればよかったのに!」
「!」
青年はハッとしたような表情を浮かべた。
何かを言おうとした彼を、私は視線から振り切るようにして、勢いよくベッドから立ち上がった。でも、直後に激痛が走り、バランスを崩して壁に寄りかかった。
「むちゃすんなって。君さ、今、ひどい凍傷にかかっているんだ。死ぬぞ」
私は青年の忠告を無視して、壁伝いに這うようにして歩くと、部屋のドアの取っ手を腕で回し、部屋から出た。
今は誰とも喋りたくはなかった。できることなら、今すぐにこの家から出て行ってしまいたかった。
廊下に出た私は、半ば倒れこむようにして二階の手すりに寄りかかった。
その時、一階の玄関にいた人たちが、部屋から出てきた私の姿を捉えた。一階と二階は吹き抜けになっている。一階には他の村人と立ち話をしていたモーラ叔母さんの姿があった。他の村人は村長さんと役場の男達の二人だ。四人は何か深刻な話をしていた途中のようだった。
モーラおばさんは脂肪に挟まれた細い目で私を見るなり、大きな顔を一気にクシャクシャにして怒りを顕にした。そして、恰幅のいい図体をのっしのっしと揺らしながら、まっすぐ私の方へ向かって階段を上ってきた。モーラおばさんの大きな身体が階段を一段踏むたびに、家が微妙に軋む音がした。
二階へ上がったモーラおばさんは、私の前で仁王立ちすると、見下した瞳で小さな私をずぃっと睨み付けた。
それだけで、私は蛇に睨まれたカエルのように縮こまってしまった。
「おばさん、私、あ、あの……」
家出の件を取り繕おうとして、私は何かを言おうとしたが、その前におばさんの太い腕が私の頬をピシャリと凪いだ。
私のような痩せっぽっちは、たったその一撃で、無様に床に倒れ込んでしまった。
「まったくこの子は! あんた一人が村を抜け出したおかげで、どれだけの村人が迷惑したと思っているんだいっ!」
モーラおばさんがまた手を振りかぶったので、私は両腕で顔を庇った。
「モーラおばさん、ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」
私はあまりの恐怖に、だらしなく鼻水をたらしながら泣きじゃくった。
モーラおばさんは、村長や他の村人のいる前だからなのか、今日はそれ以上、私を叩いてこなかった。
その代わり、内蔵が震えるくらいのもの凄い剣幕で、私を怒鳴りつけた。
「ごめんで済むと思っているのかい。えぇ? 育ててもらった分際で、いったいあたしになんの恨みがあるって言うんだい。二度とあたしにこんな恥をかかすんじゃないよ!」
おばさんは怒鳴りながら、私の腕を乱暴に掴むと、「動けるようになったんだったら、さっさと今日の水汲みにお行き! いつまでも寝ているんじゃないよ!」と吐き捨てて、私を引きずるようにして歩き出した。
私の骨ばった腕では、モーラおばさんの太い腕の力には敵わない。私はまるで人形のように廊下を引きずられていった。
唐突に、モーラおばさんの腕を掴んだ手があった。
見上げると、傍に白い青年が立っていた。
「おいって。いくらなんでも凍傷の娘をそんな風に扱うのはどうかと思うよ」
青年の声はとても穏やかだったが、どこか威厳のあるような響きがあった。
モーラおばさんは、青年の思わぬ行動に怯んだ様子だった。
「そ、そういうことなら仕方ないね……」
彼のおかげで私はおばさんの手から開放された。
「……旅人さん、あんたにはこの子を連れ戻してくれたことを感謝しているよ。でもね、できることなら、この子にはもう関わらないでおくれ。この子は……」
「モーラや」
モーラおばさんの言葉を遮ったのは老婆の村長だった。
「よそ様の前で話すことではない。それより、お前も今から集会所へ来ておくれ」
村長はそう告げると家の外へと出て行った。一部始終をただ黙って見ていた役場の男達は、哀れみの目で私を見てから、ため息混じりに村長に続いた。
無様な格好のまま嗚咽を漏らし、泣きじゃくっている私に、手を差し伸べてくれる村人は、誰一人としていなかった。
おばさんが外へ姿を消すと、青年は私を抱き起こしてくれた。
「部屋へ戻ろうぜ。ったく、包帯を巻きなしじゃねーか」
3
私はひとりしきり泣きじゃくった後、ようやく落ち着きを取り戻した。旅人は私が泣くのをやめるまで、そっとして置いてくれた。
それから私と彼は自己紹介を済ませた。彼の名前はナハルというそうだ。生まれてこの方、一度も聞いたことのないおかしな響きの名前だった。
「さっきは酷いこと言ってごめんなさい」
私の手の包帯を外している彼に私は謝った。
彼は「ああ、別に」と窓のどこか遠くをみながら、適用に流すように答えた。
そのやり取りだけで彼の素性がなんとなく伝わってきた。
「君はあの婦人に雇われているようだけど、疎開か何かなのか?」
「疎開? 違うよ。私は生まれも育ちもこの村だよ」
それを聞いた旅人は、少し不思議そうな顔をした。無理もない。こんな小さな村の宿屋で雇われているなんて、疎開してきた子供みたいだから。
この大陸全土を治めている王国は今、王様の政治が不安定になっていて、各地で内乱が起きているのだそうだ。だから、彼は私が戦争で疎開をしてきた子供だと思ったのだろう。でも、実際もそんな感じだったけれど。
「私は、この家で住まわせてもらっているの。お父さんは元からいなくて、お母さんは私が小さい頃に死んじゃった。それから私はここに引き取られたの。他に引き取ってくれる家がないわけじゃなかったけど、おばあさんやおじいさんばっかりの村だから」
ベッドに座ったまま、私は水の言葉を読み上げるように話をした。
青年は、申し訳ないことを聞いてしまったという顔をしていたが、私は別に気にしていなかった。私のような親のいない子供は今時珍しくもなかったから。
私の暮しているムーウィス村は、周りを雪深い山と深い森に囲まれた、人口五百人ほどの小さな集落で、冬になると全てが雪に埋もれてしまうような村だった。
冬の間は、首都との行商路が使えなくなってしまうため、村人は自分達の村だけで冬を越さなければならない。かといって、もともと自給自足を主としていた辺境の村だから、冬越しの準備さえしてあれば、その年に飢饉や重税でもない限り、特に問題はない。ここはそんな閉ざされた村なのだ。
私が働いているモーラおばさんの家は、村で唯一の宿屋だ。こんな村でも、北の大海を見にやって来る物好きの旅人や、動植物の生態系を調査しに来る首都の学者、そして、『あの場所』へ行こうとする冒険者たちなどが訪れる。最北端に位置するこの村は、そうした者たちの拠点にもなっているのだ。
様々な人々が、首都からお金と珍しいものを運んでくるので、モーラおばさんの宿屋は村の中では比較的、というより、かなり裕福な方だった。それを示すようにモーラおばさんの体格は横長だ。
だから、私は村の決定でモーラおばさんに引き取られることになった。
ところが、モーラおばさんはその性格にかなりの難があり、おばさんの私に対する扱いは、それは酷いものだった。
時には丸二日、ご飯を抜かされる時もあった。モーラおばさんは、昔あった飢饉の辛さを私に学ばせるためだと言っているけれど、そのお陰で私はいつまで経ってもゴボウの一人歩きだ。
また、おばさんの癇癪はすさまじいものがある。以前、暖炉に使う薪を拾って来いと言われ、近くの森で乾いた木の枝を集め来たときのことだ。おばさんは木の枝を背負って森から出てきた私を見るなり、「そんな小さな木じゃだめだ、薪をお割り!」と言って、薪割り用の斧を手渡されたことがある。私には薪なんて割ったことなんてなかったから、いつまでも薪が割れなかった私は、その日、夕食を抜きにされてしまった。
薪割りのコツを覚えるのにはけっこう苦労した。やっとのことで割り終わった薪をおばさんのところへ持っていくと、おばさんは薪を持った私を見るなり、「いったいどこからそんな薪を盗んできたんだい! 自分で割ったふりをして、あたしの目を誤魔化そうったって、そうはいかないよ!」と言って、私はお尻を叩かれた末、「今日は一晩納屋で反省をおし!」と納屋に放り込まれた。
もうやりたい放題だ。おかけで薪割りと、納屋で寝るときの技術だけは、自慢できるほどになっている。
そんな私は生まれてこの方、一度もこの村から出たことはなかった。それは家出の一つや二つもしたくなる。まあ、今回の件はもっと他に理由があるのだけれど。
それはともかく、外界のことをあまり知らない私は、宿で働くようになってから出会った旅人という人たちに、いつしか憧れを抱くようになっていった。
この村に来た旅人たちの話を聞くことが、私の唯一の楽しみだった。
特に南にある首都からやってきた旅人達の話は面白い。首都にはまるで山のように大きなお城があり、豪華絢爛な装飾が施された建物がたくさん立ち並んでいるのだとか。鎧を着た騎士たちが街を堂々と闊歩しているのだとか。ランタンに彩られる夜の繁華街には、大陸中から食べきれないほどの様々な食材が集まるのだとか。
実は私のお母さんも首都の出身なのだけれど、お母さんが生きていた頃、まだ小さかった私は、首都へ連れて行ってもらったことはなかった。
「ナハルはどこから来たの?」
彼はいったいどんなお話を聞かせてくれるのだろうか。私はわくわくする気持ちで聞いた。でも、彼から返ってきた答えは意外なものだった。
「北だよ」
「え、北?」
「そう、北からさ」
私は驚くというよりも、まず、不思議に思った。北から来たということは、いったいどういうことなのだろうと。
この村は南にある首都から旅人が訪れることはあっても、また首都へと戻る旅人以外は、北からやって来る人なんていない。この村より北には人の住まない深い千年樹の森と、氷と雪に閉ざされた北の大海が広がっているだけなのだ。
私はふと、彼の視線が包帯の解かれた私の手に注がれていることに気づいた。
冷たい川の水を桶で、毎日、何度も運んだりする私の手は、普段から擦り傷だらけだった。おまけに今は凍傷になってしまっている。モーラおばさんに叩かれた傷跡も少々。そんなボロボロになった手を、私は無意識のうちにスリスリと、擦り合わせてしまう癖がある。
ナハルは黙って私の手をとると、新しい包帯に巻き直してくれた。
足の包帯を取り替える時は顔が真っ赤になった。真っ黒で傷だらけの足を人に見られるのは初めてだったから。
彼が包帯を巻いている間、私は顔を赤らめながら、ずっと横を向いていた。「この部屋、暑いね」と仰ぐまねをして、恥ずかしさを紛らわせてみたり。
部屋には彼以外にもお客さんがいた。
カリブーの角飾りの上に、大きな鷲のような鳥が留まっていた。
私が不思議そうに眺めていると、その鳥はプイッと顔をそらしてしまった。
「これでしばらくは変えなくても済むだろ」
彼は不思議な優しさに包まれた人だ。いろいろな旅人を見てきたけど、今まで出会ったことのないタイプの人だ。そんな人の旅の目的を聞いてみたかった。
「ねぇ、ナハルはどうして旅をしているの?」
「人を探しているんだ」
「その人はどんな人なの? もしかして女の人? その人は今どこにいるの?」
私は彼を質問攻めにしてしまった。旅人と話す時の私の悪い癖た。
「優しい女性だよ。今は……きっと近くて…遠いところにいるよ」
「そうなんだ……」
それを聞いて、私は少しだけ残念な気持ちになる。
私は一四歳にしては村の他の子供よりも、かなり背が小さい方だ。おまけにゴボウみたいで女の子としての特徴もほとんどない。
私がもう少しだけ大人だったらならなあ、とかそんなことを考えてみる。
彼の大切な人とはいったいどんな人なのだろう。私は見てみたかった。
ただ、その人のことを話す彼は、穏やかなのだけれど、どこか寂しげでもあった。
「あ、そうだ。ナハルはこんなお話しを知っている?」
私は唐突にあることを思い出した。
私は目をつむると、一つ一つ思い出すように彼に話し始めた。
遥か遠い昔、竜と天使は恋をしました。
天と地がまだ青い川を隔てて在った頃、まだ創造と破壊を繰り返していた大地が、人間達の争いに染まることなく在った頃、竜と天使は恋をしました。
竜は天空に更なる高みを夢見、光を求めました。
天使は大地に留まり、竜と共に暮らすことを望みました。
でも、神はそれを許しませんでした。
天空は大地より離れ、大地は天空より離れ、いつしか二人の間には決して渡ることのできない青い海が生れました。
永遠の別れを前に、竜と天使は約束を交わしました。
再びこの世界のどこかで出会うという約束を。
それは遠い昔の物語。
遥か遠い昔の物語……。
「……これはね。私のお母さんが、小さい頃によく話してくれたお話なんだ。私、このお話が大好きだった。お母さんはいつも子守唄代わりに話してくれたんだ。今では最初のくだりしか思い出せないけどね」
「それって…」
ナハルが目を丸くして親身になって聞いていてくれたので、私はとても嬉しかった。
「けれど、何だか哀しい物語。神様は酷いわ。どうして、二人を許してあげなかったんだろう。竜と天使は可哀想よ。永遠に離れ離れだなんて……」
どうして、彼らは別れなければならなかったのだろう。恋をすることがいけなかったのだとしても、この神様の仕打ちはあんまりだ。
「でも、それが彼らの運命だったんだろう」
呟くように言った彼の言葉は、どこか重いものがあった。
諦め、それとも使命感だろうか。多くの旅人を見てきた私にはわかる。そういったものを背負ったことがある人だけが持つ、どこか気高い、そんな雰囲気。
「運命か……ねぇ、ナハル」
「ん?」
「えっと……ううん、やっぱり、なんでもない」
私は言いかけたが、途中で恥ずかしくなったので笑ってごまかした。
でも心の中で、ナハルとその大切な人がちゃんと会えたらいいな、とそう願った。
私はちょっとだけ胸が締め付けられるような感じがして、話をそこまでにした。でも、なんだろう。彼と話をしていると、凄く心が暖かくなる。
「大好きなお話しを聞かせてくれて、サンキュな」
ナハルが元のように穏やかに微笑んでくれたので、私は息を一つついて、ベッドから立ち上がった。
「さあ、暗くなる前に水汲みに行かなくっちゃ」
「動いても大丈夫なのかい?」
正直に言えば痛い。でも、これくらいなら何とかなるはずだ。彼が心配してくれるだけで私は嬉しかった。
「うん、これくらいへっちゃらだよ。後で、モーラおばさんに怒られる方がもっと怖いもの」
また来るね、と私は言い残して静かに彼の部屋を後にした。
4
「人間の優しさというものが、私にはいまいちわからんな」
少女の足音が遠のくのを確認した後、私は閉じていた嘴を開いた。
「昨日今日で知り合った者にそこまでできる気が知れぬよ、人間というものは」
私が言っているのは、ナハルがあの小娘にそこまで情をかけてやれることについてだ。まして、あの小娘はまったく関係のない人の子だ。助け合いというのだろうが、見ず知らずの者にまでそれをする人間の行為が、私にはよく理解できない。
「もちろん、分かり合える者とそうでない者は居るさ。それはユド達の一族だって同じだろう?」
「それはそうだが……昨日助けた雄鷲が、今日になって自分の子供達を狙ってくるとも限らぬ」
「あの子は雄鷲じゃないよ」
「やはりわからんな、人間というものは」
まったくおかしな人間社会の習わしだ。それならばなぜ、本来近しい者であるはずのあの太った人間の雌が、小娘を庇うようなことをしないのか。
「ナハルよ。お主もあの小娘の腕を見たであろう」
「……」
ナハルは何も答えなかったが、私の言わんとしていることはわかっているだろう。
あの娘の腕の傷跡は、ただの仕事傷だけではない。人為的な傷跡も多くあった。
獲物に困ったとき、母が自らの子を食べることは自然界では珍しくない。
だが、あの太った人間の雌には、小娘をいたぶったところで得はないはずだ。やはり、人間という生き物は理解しがたい。
私は窓の傍へと移動した。ここは暖が取れるが、長居しすぎると羽が傷みそうだ。
「ナハル、窓を開けてくれ。腹が減った。野ネズミでも捕まえてくるよ」
「こんな雪の中、大丈夫なのか?」
「ふん、我らの目を侮るなよ。お前の分までわけはない」
「……お、俺は遠慮しておくよ」
あいかわらず、何を食っているのかわからん奴だ。ここ数日、ナハルが何かを口にしているところを見たことがないが。
「ここは開けておくよ」
ナハルは窓を開け、私が入れる大きさに固定してくれた。
「うむ、夜までには戻る」
といっても、もうすぐ日も暮れる。私は空へと羽ばたいた。
私も鬼ではないさ。まあ、一匹くらいは分けてやっても良いか。
5
ここ数日、激しい吹雪が連日続いていたせいか、森は一面の雪に覆われていた。雪で反射した夕日の光が、森を黄昏色に染め上げていた。森の木々達は黄色い雪のコートと帽子でおめかししていた。薄手のクロークの上に、もう一枚ショールを羽織っただけの格好の私は、服の袖と襟をかき集めた。
私は一人、凍った小川のほとりで自然と寄り添っていた。
スノーダストがキラキラと降り注いでいるのを見つめながら、私はもう一度耳を澄ませる。他に生き物の声はしない。雪の下で流れる水の音と、自分の鼓動だけが聞こえる唯一のものだった。
今ここに私の一人を妨げるものは何一つとしてない。そんな時、彼らは囁く。それは寂しい冬を少しだけ暖かくしてくれる。彼らの声を聞くことが、私の一人の楽しみ。
――ナイア、もう大丈夫なの……?
――ナイア、また遊ぼう……?
ふわふわとした小さな光達が、雪の中から現れ、私に囁いてくる。
「お礼が言いたくて来たの。あの時はありがとう。私の手足、あなたたちが護ってくれたんでしょ?」
あんな雪の中を軽装で歩いていた私は、普通なら手足を失うほどの凍傷を負っていたと思う。でも、私はこうして歩けるし(やっぱり痛いけど)、手も動かせる。ナハルの手当ても良かったけれど、一番の要因は彼らが護ってくれたお陰だった。彼ら――私も具体的な正体は分からないけれど、お母さんは彼らのことを「微精霊」と呼んでいた。
私は物心がついた時から彼らが見え、彼らの声が聞こえた。他の人に見えないものが見え、聞けないものを聞くことができることは、私が村人から気味悪がられる理由の一つでもあった。けれど、今では彼らが私の心の支えにもなっていた。私はお母さんと同じものが見ているということが嬉しかったのだ。
私は顔を膝に埋めた。
「ねぇ。私、今考えると凄く怖いの……雪の中で一人死んでしまうのって、あんなにも寂しくて冷たいんだね……」
今更だけど、冬の森で力尽きた私は、偶然通りかかったナハルに助けてもらわなかったら、今頃、あの雪の上で本当に死んじゃっていたのだ。
それはとても怖いことだった。モーラおばさんに引き取られてからというもの、この村では辛い事ばかりだった。村人たちからは「あの女の子供だ」と気味悪がられ、他の子供たちは私に近づこうともしなかった。時には酷いことも言われたり、石を投げられたりすることもあった。その度に私はいっそのこと死んでしまいたいと何度も思った。でも、それはあんなにも寂しくて恐ろしい事なのだ。
光が何か瞬く。
――ナイア、泣かないで……。
――ナイア、生きて……。
「生きてだなんて、無責任なこと言わないでよ……居場所がないのに生きることの辛さは、たぶん、あなた達には分からないと思う」
微精霊たちにそんな文句を言っても仕方がないことはわかっていたけれど。
「それでも生き続けていたら何かいいことがあるのかな……今、私はいったい何のために生きているだろう……」
優しかったお母さんの記憶が私の心の支えだった。でも、今となってはそのお母さんの顔さえ良く思い出せない。時間が経つに連れて、記憶はだんだんと薄れていく。もし、完全にお母さんのことを思い出せなくなってしまったら、私はどうなっちゃうんだろうか。その先のことはあまり考えたくはなかった。
「……聞いてくれてありがとう。私、もう行くね」
私が立ち上がると光たちは消えた。
私はお尻についた雪を払うと、頭上を見上げた。近くの木の枝に鷲がとまっていた。たぶん、ナハルの部屋にいた鷲だ。部屋から出てきたのだろうか。その爪には三匹の野ねずみらしき物体が捕らえられていた。周囲の気配に敏感な私は、鷲がさっきから後ろにいることはわかっていた。
「……」
おかしな鷲だった。私と鷲はしばらく見つめ合っていたが、私は氷水の入った桶を持つと、何事もなかったかのように、その場から立ち去ろうとした。
でも、それは見せかけで、次の瞬間、私は唐突に叫んだ。
「あっ、あそこに雪ウサギがいる!」
「なぬっ、どこだ! どこにいる?」
鷲は意図も簡単に私の罠に引っかかった。
「あ。やっぱりあなた喋れるのね」
「ぬっ……き、汚いぞ小娘っ!」
鷲は抗議の目で睨みつけてきた。でも、もう遅い。ナハルの部屋で見かけた時から、どことなく胡散臭い鳥だなと思っていたのだ。
これは私が人の言葉がわかる動物と話すときの常套手段だった。長く生きた動物の中には人の言葉を解するものも少なくない。でも、彼らは人と接することを嫌うので、こういう方法をとるのだ。雪うさぎは私達にとってもご馳走だ。鷲が引っかかったのも無理はない。
「ごめんね。でも、私の話を盗み聞きするのもどうかと思うけど」
「む……」
鷲は言葉を詰まらせた。そうして私は話し相手を作り上げた。
私は再び小川のほとりに座って、鷲とお話しをした。鷲は以外にもおしゃべりな鳥だった。さっきまではうんともすんとも言わなかったけれど。
「……じゃあ、ナハルが言っていたユドというのはあなたのことだったのね」
「このことは他言無用だぞ、小娘。人は人語を操れる動物を魔物として恐れる」
私はこくりと頷いた。
この鷲はナハルの道案内をしているそうだ。それで私は気がついたのだが、ユドと話ができるということは、ナハルも私やお母さんと同じように、微精霊が見える人なのかもしれない。見える人は今までお母さん以外に出会ったことがなかったから、私はもしそうならと思うとわくわくした。
私は帰ったらナハルともっとお話しがしたいと思った。彼もやっぱり辛いこととかあったのだろうか。彼が見てきた世界のことをもっと知りたかった。ちっぽけな世界に住んでいる私は、もっと大きな外の世界のことを知りたかった。
私はそんなことを考えながら、ユドの立派な翼を見つめていた。
「あなたにはどこへでもいける翼があっていいね。私にも翼があれば、どこへだって行ってしまえるのに」
それを聞いたユドは滑稽とばかりに喉を鳴らした。
「放浪などとは居場所なき者の所業だ。今は旅に憧れていても、旅に出れば、今度は故郷が恋しくなるだろう」
そういうものだろうか。でも、あいにく私には帰りたくなる故郷という場所がない。この村には辛い記憶ばかりだ。
「ところでお主は、なぜあのような森に一人でおったのだ。冬の散歩にしては、いささか寄り道が過ぎたようだが」
鷲の問いに私は一度、周囲を確認した。他に誰もいないことを確認すると私は小さな声で言った。
「『帰らずの城』に行こうと思ったの」
「!」
驚く様子を見るに、鷲もあの城のことは知っているようだった。
ここの村人達にとって『帰らずの城』は禁忌とされる場所だ。昔から、城に近づいたら天災が起こるとされていた。だから、『帰らずの城』という名を口にしてはいけなかったし、旅人が来ても、城への道は決して教えてはならなかった。
「私、そこへ行って、お母さんが言っていたことが正しかったと証明したかったんだ。私のお母さんの名前はルシエっていうの。綺麗な名前でしょう? 元々は首都の考古学者だったんだ」
「ほう」
鷲は感心したような声を上げた。それもそうだ。首都は別名、王都とも呼ばれる。大陸で最も栄えた王都は、人類のあらゆる英知が集められる場所だ。そこの学者だったお母さんも、それなりに高名だったそうだ。
その研究内容を除いては。
「人間の考古学といっても様々あるが、お主の母は何の研究をやっておったのだ?」
「物語の研究だよ」
「物語、とな?」
「お母さんは、竜と天使に纏わる創世の神話についての研究をやっていたんだ」
竜と天使は、神話の中に登場する架空の存在だ。人間がこの世界を支配する前に、世界を支配していたのだそうだ。でも、お母さんが言うには、神話の中の竜、つまりドラゴンは、かつて大陸全土に生息していたらしい。それが未だに架空の存在でしかないのは、存在した証拠が見つかっていないからだ。
「これはあくまで神話であって、ドラゴンなんているわけがない、お母さんの研究を誰も見向きもしなかった。でも、お母さんは最後まであきらめなかった。お母さんは、千年前の帝国が最後に滅んだという『帰らずの城』に、何か手がかりがあると思ってこの村にやってきたの」
「お主の母もあの城に魅せられた一人か。確かに、竜が住まうという噂話は私も何度も聞いたことがあるが……」
城に立ち入った者は皆、戻ってこなかった。城の手前で怖くなって逃げてきた旅人や冒険者達は、聞いたことのない不気味な雄叫びを聞いたという。そして、皆が口々に言うのだ。あれはドラゴンに違いないと。
「でも、実際にその姿を見たものは誰もいなかった。声を聞いたという人たちも、やがて、謎の死を遂げた。お母さんはドラゴンの存在を証明することで、竜と天使の物語の真実を暴こうとしたの」
「真実、だと?」
「うん。今の王国の歴史書には創世神話についてこう書かれているの」
神様はこの世界初めに竜と天使を作り出した。
竜と天使は仲良く暮していたのだけれど、神様は次に人間を作り出した。
人間は天使のあまりの美しさに捕われて、竜と天使の奪い合いになってしまった。
竜はとても強く、多くの人間は殺された。でも、千年前まで続いた帝国最後の皇帝ゼーレムは、その竜を殺して天使を奪ったの。
天使は悲しみに暮れ、その涙によって世界中を雪に閉してしまった。それが最初の『白き天災』。世界は滅びを待つ他はないかのように思われた。
そこに現れたのが、今の王国を築き上げた王様のご先祖様。初代の王様は他の竜達と協力して帝国を追い詰め、皇帝をやっつけた。でも、その戦いで竜達は傷つき、死に絶えてしまった。天使と結ばれた王様は、竜に安らかに眠ってもらうために、人目につかない場所に竜を手厚く埋葬し、千年間にも渡る王国を作り上げた。
「それが今、王国の起源とされている歴史で、世界創世の神話とされているの」
「なるほどな。だが、その歴史には疑念が残るぞ。もし、天使が開放されたのならば、北の大海を覆う千年雪も解けよう。此度の『白き天災』もどう説明するのだ」
ユドの疑念はもっともだった。
お母さんの話によれば、北の大海はもともと暖かな海だったという。けれど、そこは千年も昔から、人を寄せ付けない雪に閉ざされた地となっているそうだ。
つまり、雪が天使の涙によって引き起こされたとするのならば、天使は開放されたのだし、雪は溶けていいはずなのだ。
まあ、あくまで神話のお話なんだけれど。
「お母さんは、歴史というものは、常に戦争の勝利者によって塗り替えられてしまうものだって言ってた。だから、お母さんは神話の原典にこだわったの。お母さんが発表した研究結果は、国王が制定した国の歴史とは異なるものだった。千年前、竜は戦いで死に絶え、国王が天使を娶ったという歴史を、お母さんは否定したんだ」
後から聞いた話では、それが理由でお母さんは国を追われたそうだ。
「いったいどう違うというのだ?」
「千年前、皇帝が竜を殺して天使を奪ったというのは実は嘘で、竜は生きていたの。でも、竜は皇帝が掛けた呪いで、光を失ってしまった。皇帝は天使を閉じ込めて、竜と会えないようにした。皇帝が掛けた呪いのせいで、竜は天使を探すこともできず、この世界のどこかで再び出会うという、竜と天使の約束は果たされることはなかった。そして、天使は閉じ込められた場所でやがて命を落としてしまうの。それを悲しんだ皇帝は自ら命を絶った。でも、残された竜は、天使がもういないことを知らずに、未だに彼女のことを探して城を彷徨い続けているの。それがお母さんの言う本当の歴史で、神話の真実」
「なんと救いようのない物語か」
「うん、とても哀しいお話……」
私はお母さんの口から聞く竜と天使の物語が好きだったけれど、それは最初のくだりだけで、後の部分は、それは悲しい物語なのだ。
私は旅人から文字を教わって、王国の歴史書に書かれていることと、お母さんが話してくれたことを照らし合わせてみたことがある。すると、歴史書に書かれていることはお母さんが言っていた本当の歴史とは大部違うものだった。
王国の歴史書は、千年前の戦争が終わった後に王国が造ったものだから、信用できない。お母さんは口癖のように言っていた。
それと、この物語にはまだ続きがあるそうだ。
「でも、お母さんが必死になって研究した文献や続きのお話は、お母さんが死んじゃった時に村人たちが家ごと燃やしちゃったの。だから、今残っているのは私の記憶だけ」
「そうか……お前の母は周囲から理解されずとも、最後まで真実を探求することを貫いたのだな」
私は頷いた。首都の学者とはいえ、『帰らずの城』について調査するお母さんのことを、村の人たちは良く思ってなかった。ただ、村人も禁忌のことについては半信半疑だったそうだ。
「でもね、母さんが城について調査を初めた時に、偶然、大雪と飢饉の年が重なったんだ。村でたくさんの子供が死んじゃって、中にはモーラおばさんのお腹の子供もいたって……モーラおばさんの旦那さんも、首都に助けを求めようと向かった先で力尽きてしまったって聞いた。それでお母さん、村中から禁忌に触れた責任を問われることになって、村から追い出されることになっちゃったんだ……」
これはお母さんが死んでしまった後、村長から聞いた話だ。モーラおばさんは私のお母さんの話になると、私を酷く叩くので、聞くに聞けなかったのだ。
「だが、飢饉など珍しくもなかろう。人は解明できない事象に遭遇すると、何の根拠もない観念的なものに、原因をこじつけようとするものだ。やはりくだらんな、人間というものは……己の恨みを払拭せんがために、忌み子を作り上げ、それを甚振るとは」
モーラおばさんはお母さんのことを恨んでいるのだ。そして、その生き写しである私も。案外、それが人間という生き物なのかもしれない。
「村を追われた母さんは帰らずの城に姿を消した。戻ってこないから村人も死んだものだと思っていた。でも、失踪からちょうど一年後、お母さんは村に戻ってきた。生まれたばかりの私を連れてね」
「なんと……お主達は『城戻り』であったか!」
ユドはとても驚いたようだ。それもそのはずで、『城戻り』なんて滅多にいるものじゃない。私は幼かったからまったく覚えていないけど。
「村に戻ったお母さんは、帰らずの城にいたことを村人達に話した。城が直接禁忌とは関係がないことを彼らに伝えようとしたの。そして、お母さんは竜をそこで見たと言った」
「不可思議な話だ……お主のこともそうだが、竜など本当に存在するのか?」
「村の人達はやっぱり誰も信じなかったけれど、それでも、私だけはお母さんを信じてあげたいの」
その後、お母さんは村で孤独に研究を続けながらも、私を育ててくれたのだ。
「母を想う娘の心優しさに私は心打たれたよ。きっとお前の母は、さぞかし優しかったのだろうな」
「うん。とっても優しいお母さんだよ! だから、私なら大丈夫」
「よし、野ねずみの一匹を分けてやろう。うれしく思うが良い」
「あ、ありがと……」
それにはさすがの私も困ったが、鷲がせっかくくれる言うのだし、私はネズミを受け取ることにした。
ネズミはもう酷く弱っていて、私の手の中で尻尾を垂らしていた。
それを見て、私は俯いてしまった。あることを思い出してしまったからだ。
同時に心の奥底から何か熱いものが込み上げてくるのがわかった。
「……そんなお母さんも、私が四歳の頃に再び城へと姿を消したことになっているの」
「ことになっているとは……?」
私は目尻が熱くなるのがわかった。続きはとても哀しい記憶だから。
「村の人たちは森を探したって言っていた。でも、結局、お母さんは見つからなかった。私はおかしいと思った。いつだったか、真実は『声』達が見せてくれたんだ。真っ赤に染まった雪、森の中でもう動かなくなったお母さん。お母さんは……次の飢饉を恐れた村の人たちに…………」
「!」
そこまで言って私は言葉を閉ざした。外で屋根から雪が落ちる音がした。
私は溢れ出る涙を何度も何度も拭おうとしたが、それらは抑えきれずに私の目から溢れ出してきた。
「そうか……さぞかしお主は村人達を恨んでおるだろう」
「……お母さんがいないと泣き叫ぶ子供の私まで、村の人たちは殺すことが出来なかった。恨みたい気持ちがないって言ったら嘘になる。でも、昔、お母さんと約束したの。何をされても、この村の人たちを悪く思っちゃいけないって。彼らはただ、怖がっているだけなんだって。お母さんは村の子供たちから石を投げられたり、大人たちに嫌がらせをされたりしても、いつも笑ってた。私を守りながら、悲しませないようにしてくれた。だから、私もお母さんとの約束を守りたいの」
「お主は強いのだな」
鷲の声は少し涙ぐんだような声だった。鷲も泣くことってあるんだろうか。
「モーラおばさんは怖いけれど、それでも身寄りのない私を引き取ってくれた。空腹ほど耐えがたいものはないってことは、おばさんから嫌というほど教えられた。だから、飢饉を恐れた村の人たちの気持ちも、今では分かる気がするんだ……」
私は息をそっと手の中に吹きかけた。
すると、手の中がまるでホタルみたいに光り出し、暖かくなった。
しっぽがぴくりと動き、手の中でなにやらもぞもぞと動き出した。
それは私の手から雪に落ちると、慌てて、木の幹の根元に隠れてしまった。
「お主……!」
「お母さんは人前では見せちゃいけないって。でもユドは人じゃないからいいかなって」
「精霊術の類か……だが、それは人が用いれば……命を削ることになるぞ」
そんな高尚なものだったなんて初めて知った。
私は微精霊が見えるだけじゃなく、生まれつき不思議な力を持っていた。大昔は魔法なんてものがあったみたいだけど、私の力はその名残だろうか。でも、力は弱く、私にできることといえば、弱ったネズミを元気にしてあげるくらいなものだ。
それで私の命が削られたところで、小さな命が助かるのなら私はそれでもいい。
「私ね、最後にお母さんの言葉を確かめたかったんだ。私はお母さんが正しかったって証明したかった。不思議なお城の話、竜の存在を」
三日三晩も吹雪が続いた時、モーラおばさんはそれを私とお母さんのせいだって責め立てた。吹雪が止んだ朝、気がついたら私は城に向かって走り出していた。そして、力尽き、ナハルとユドに助けられたのだ。
「しかし、小娘よ。言っておくが、あの場所へ行くのはやめておけ」
「でも……」
「みすみす命を捨てるような真似をしなくても良かろう。どうしても行くというのならば機会を伺え。母の言葉を確かめるためにも、今は身体を休めよ」
「うん……ありがとね。ユド」
鷲はどこかそっけないところもあるが、とても思いやりのある鳥だった。
彼らが作ってくれた機会を私は大事に使おう。それと、後でナハルにもちゃんとお礼を言おう。
「ねぇ。ところで、私は小娘じゃなくて、ちゃんとナイアって名前があるんだけど」
「泣き虫は小娘でよかろう。まったく、近頃は人間としゃべる機会が増えたものだな……」
ユドは本当に困ったようため息をついた。でも、それは自分の責任もあるんじゃないかと私は思ったが、命の恩人ならぬ恩鳥にそれを言うのはやめておいた。
「もうすっかり暗くなってしまったな」
野うさぎを捕えそこねた、とか嫌味を言っている鷲の言葉で思い出した。
「あっ、モーラおばさんにまた叱られる!」
私は水汲みの途中だったのだ。今晩の夕食を抜きにされないように、鷲との会話をそこで中断して、私は駆け出そうとした。
その時、私は森の中にたくさんの光があることに気がついた。
それは松明の光だった。見回りをする村人のものだろうか。でも、見回りにしては数が多すぎる。
私が不思議に思っていると声がした。
――ナイア、逃げて、彼らが来る……。
――ナイア、彼を追っているわ……。
「どうした」
「あの子達が逃げてって言っている」
「微精霊の警告か。不吉な」
そうこうしている内にも、光は徐々に近づいて来ていた。
「あれは……王都の軍隊だな」
「王様の? 首都から助けが来たのかな」
『白き天災』が起こったために、村長が首都へ救援を要請したということは聞いた。でもこんなに早くに助けに来てくれたのだろうか。
「にしては様子が変だぞ。小娘、伏せておれ」
私はユドに言われるがままに、雪の陰に伏せた。
やがて、編隊を組んで現れたのは武装した騎士団だった。ユドが言うように救援に来たのなら、武装する必要はない。馬に乗った騎士達は暗い山道をたいまつの明かりを頼りに、深い雪を掻き分けながら村の方向へと向かっていった。
「あれは王族の親衛隊に違いない。まさか王が来ているのか? しかし、これは戦争にでも行くかのような体裁だぞ……」
「きっと集会所へ向かうんだ。わたし、様子を見てくる!」
「おい、待たんか!」
私は桶を放り出して、村へと向かった。胸騒ぎがした。
6
突然、押し寄せてきた騎士団に、村は物々しい雰囲気に包まれていた。
騎士団は五十騎を越える大編隊だ。私が村の集会所についた時、木霊す馬のいななきに、村人たちが何事かと広場へ出てきたところだった。
私とユドは気づかれないようにして集会所の裏へと周り、物陰から集会所広場の様子を伺った。
もともと集会所には、村長を初めとした村の大人達が全員集められていた。広場にはモーラおばさんの姿もあった。村長が前へと出て初々しく頭を垂れた。
「お前がこの村の長か」
「さようでございます」
馬に乗った位の高そうな騎士と村長の会話に、村全体は緊張に包まれていた。
「我らは首都より国王陛下の勅命にて馳せ参じた王都親衛隊第二師団である。この師団は第一王位継承者であられるハーヴェス様が率いておられる。今からお前たちが聞く我らの言葉は、陛下のお言葉そのものと弁えよ」
村人たちから驚きと畏怖、あるいは感嘆の声が上がった。
王都親衛隊といえば、国王直属の軍隊の中でも最も位の高い人たちのことだ。その職に就くことは軍隊の中でもっとも名誉なことだとされ、部隊は屈強な上級貴族たちで構成されているという。第二師団ということは、その上から二番目ということになる。
そんな王国屈指の親衛隊を、第一王位継承者が率いてやって来たのだ。村人たちは次々にその場に跪いた。王位継承者はその御姿を直接見ることが失礼に値するほど身分が高い人なのだ。
その王子様はいったどこにいるのだろうか。私は騎士達を見渡したが、どの人たちも豪華な鎧を着込んでいて今ひとつわからない。
「では問おう。王都の王立考古学研究所の元学者であったルシエ・クエスターという人物がこの村にいることは確かか」
「!」
騎士が挙げた名は、なんと、お母さんの名だった。
でも、なぜお母さんの名前を挙げたのだろう。私は騎士の言葉に耳を傾けた。
騎士たちはどうやら、お母さんの研究に関して調査に来たらしい。村長はお母さんが十年前に行方不明になったこと、もう研究に関連するものは何も残っていないことなどを説明した。私は感情を押し殺してそれを聞いていた。
「ルシエ・クエスターが残した『竜と天使の研究』の序章、『創世の予言の解読』によれば、『白き天災』が再び現れし時、我らの王に仇を成す竜が、北より現れると記されている。吹雪の後、北より現れた者あれば、今すぐここに連れてきよ」
騎士の言葉に私もユドも戸惑った。
「北からって、ナハルとユドのことだよね……」
「だが、私が国王に狙われる理由など検討もつかん。だとしたらナハルだが、あやつ、国王に何かしでかしたのか?」
北からやってきた不思議な旅人。それを探す王様の兵隊……ナハルはいったい何者なのだろうか。
「白き橋が青き湖にかかりし時、古の竜達は北より再び相まみえん……」
「小娘、それはいったい……」
「竜と天使の創世神話の最初に記された、創世の予言の言葉だよ」
これはお母さんがこだわった神話の原典でもある。私が好きなあのお話しのくだりは、お母さんがこれの第一節をわかり易くしてくれたものなのだ。
白き橋、青き川、北よりやって来る古の竜たち……この言葉とナハルに何か関係が……。
その時、ざわめく村人の中でまっさきに手を挙げた者があった。
「それなら私の営む宿にいるよ。こんな大雪の時に北からやってくるなんて、やっぱり、怪しいと思ったんだ。それとね、この村にはルシエの子供がいるんだよ――」
私はモーラおばさんの言葉に我が耳を疑った。
隊長格の騎士はそれで納得したような表情を浮かべた。そして、周囲の騎士たちに命令を下した。
「北より現れし者とルシエの子を捕えよ! そして、村人を全員集会所の中へと集めるのだ!」
隊長格の騎士が合図を出すと、周囲の騎士達は即座に動き出した。村人たち全員にどよめきの声が広がる。騎士たちは次々と村人たちを捕まえ始めたのだ
「お待ちください。なぜ、村人達まで捉えるのですか? 私達は……ぐっ!」
隊長格の騎士が抜いた剣が、村長の胸を突いた。老婆の村長は、力なくその場に倒れた。恐怖の叫びが広場に轟いた。
村人達は一目散に逃げ惑った。それを追いかける騎士達。村は一瞬にして嵐のような悲鳴に溢れかえった。
モーラおばさんが連れて行かれるのが見えた。私は雪を蹴って走り出した。
「小娘、どこへゆくのだ!」
「ナハルが危ないの」
ナハルに知らせなきゃ、そう私は思った。
足の痛みに顔を歪ませながらも、私は無我夢中で走った。
騎士達は、抵抗する村人はその場で殺し、捉えた村人たちは手当たり次第に集会所に放り込み始めた。
「王国親衛隊の名が聞いて呆れる。これはただの虐殺ではないか!」
ユドが怒り狂った声を上げた。私の心臓は破裂しそうなくらい脈を打っていた。
私は宿の裏へまわると、雪の中に隠してあった梯子を窓にかけた。この梯子はモーラおばさんのお叱りを回避したり、旅人の部屋に忍び込んだりするために使っていたものだ。
ナハル部屋の窓は空いていた。
「ナハル!」
はしごを登ると、私は彼の名を呼びながら中へ入ったが、そこにナハルの姿はなかった。
一足先に逃げたのだろうか。ナハルの部屋を出ると、私は他の部屋を探そうとした。すると、物凄い音がして、騎士達が扉をぶち破って入って来た。
「あ、あの子だよ。あの子があの女の子供だよっ」
騎士に捕らえられたモーラおばさんが、私を見るなり叫んだ。
窓の外を見ると、集会所から火の手があがっていた。
そこから、村人達の叫び声が聞こえてきた。
心臓はこれでもかと脈を打っているはずなのに、私は全身から血の気が引いた。
「なんということだ。やつら、初めから村人を全員殺すつもりだったのだ。小娘、逃げろ!」
私がユドの声とともに踵を返して、ナハルの部屋に駆け込もうとした時、目の前を矢が通りぬけて、壁に突き刺さった。
クロスボウを持った騎士が私に狙いをさだめていた。
「殺すなよ。ルシエの子供は生きて捕らえろ」
クロスボウを持った騎士は私の足に狙いを定めた。私は戦慄した。
恐怖で足が竦んで動けないでいる私を捕えるため、剣を持った騎士たちが階段を駆け上がってきた。
もう、逃げられない。私がそう思った時だった。
階段を上る騎士たちに突っ込んだ白い影があった。
ナハルだ。彼が先頭の騎士を蹴り倒すと、騎士達はドミノのように階段を転げ落ちていった。
「ナハル! 危ない!」
「!」
私に向けられていた矢は、彼に向かって放たれた。
でも、その弓矢はナハルに当たる前に、彼の目の前で弾かれた。
ナハルは剣を携えていた。彼は騎士の一人を押し倒した時に、同時に剣を奪っていたのだ。その剣で、彼は飛んでくる矢を空中で弾いたのだ。目にも止まらない早業だった。
ナハルは二階から跳躍すると、次のクロスボウを装填しようとしていた騎士に向かって剣を振り下ろし、手のクロスボウを叩き割った。弓を破壊された騎士は剣を引き抜こうとしたが、既に遅く、ナハルの剣は騎士の脇に突き刺さっていた。
騎士は、脇から血を流しながら、地面にうずくまった。
その間、階段から落ちた騎士達がすぐさま起き上がり、ナハルを取り囲んだ。
「奴ら、さすがに手馴れておる。ナハルよ、ここは分が悪いぞ!」
でも、ナハルの退路はすでに塞がれていた。
何とかしなきゃ、と私は思ったが、彼にその必要はなかった。
騎士達はナハルを取り囲むなり、訓練された動作で一斉攻撃を仕掛けた。
素人目に見ても動きに躊躇はなかった。
ナハルは騎士達の包囲攻撃の一箇所を崩すと、活路を作った。
そこから騎士達を一人一人、目にもとまらぬ剣さばきで切り崩していく。
ナハルが剣を振るうたびに一人、また一人とその場に騎士が倒れていった。そして、すぐ後には痛みに呻き苦しむ騎士達が全員、床に倒れていた。
「王都の精鋭達が一瞬にして……あやつはいったい何者なのだ?」
本当に全てが一瞬の出来事だったのだ。王国の騎士達がまるで子供のように見えるほどだった。でも、彼らは王国でも最強といわれる親衛隊だ。それを切り伏せたナハルは只者ではなかった。
「ユド、ナイアを連れて裏の窓から出るんだ」
「わかった。小娘、行くぞ――」
ユドが私を連れ出そうとした時だった。ナハルに迫りくる影があった。
直後、剣と剣が激しくぶつかる音が轟いた。
突如として振り下ろされた剣を、ナハルは振り返って寸前のところで止めていた。
「ほう。今のを止めるか」
現れたのは赤いマントを羽織った男だった。頭は燃えるような金色の短髪。その手に握られた剣は既に村人の血に塗れ、赤く染まっていた。
「親衛隊の寄りすぐりが一人の若者相手にこの様とはな。この大陸では見たことのない剣技だが、それをどこで覚えた?」
男は感心した様子でナハルを見ていた。ナハルは相手を睨んだまま何も答えない。
「まあいい。貴様が北からやってきた者か? 余に応えよ」
「……お前は何者だ。なぜ俺とその子を狙う?」
「我が名はハーヴェス。第一王位継承者にして、王の剣。これから死ぬお前に我が父上の崇高な目的など、知る必要はない」
王家の人間! 歳はナハルより少し上くらいだ。
王子は言い終わるなり、床を蹴って、ナハルに切りかかった。
彼から放たれた斬撃は、ナハルの持っていた剣にぶち当たり、激しい火花と轟音を散らした。耳が痛くなるほどの凄まじい音に、私は思わず耳を塞いだ。
間髪入れずに、王子はナハルへと攻撃を繰り返す。どれも目にもとまらぬ速さで、岩をも砕きそうな重みがあった。
ナハルはそれを全て受け止めていた。しかし、あまりの猛攻に受け止めることしかできないというような感じだった。ハーヴェス王子は他の騎士たちとは明らかに別格だった。二人の間で繰り広げられる剣の打ち合いは、先ほどの騎士達たちとは次元が違った。
剣が激しくぶつかり合う音を聞きつけて、入口から他の騎士達が続々と現れた。
「小娘、ここにいてはあやつの足を引っ張るだけだ。逃げるぞ」
「でも、ナハルはっ?」
「大丈夫だ。あやつは、おそらくまだ本気を出していない」
私にはさっぱりだが、ユドにはわかるのだろう。でも、なんでナハルは本気で戦わないのか。
そこで私はふと気が付いた。もしかしたら、私たちがいるから本気を出せないでいるのかもしれない。きっと彼は私を庇うためにあの場に残ったのだ。
私はナハルのことが心配で仕方がなかったが、ユドに言われた通り、ナハルの部屋から逃げることにした。
「王族の中に血色を好む王子もいるとは聞いたが、あやつがそうか。王国の内乱もどこか頷けるな」
私はあんな凶暴な王子が第一王位継承者だなんて信じられなかった。内乱は王位継承問題によるものだというユドの話も、納得がいった。
私はナハルの部屋の窓から外へと飛び降りた。
私が逃げられれば、きっとナハルも後を追って来られるはずだ。
そう思って、家から村の外の方へ離れようとした時に、家の陰から現れた人物に私は腕を掴まれた。
「逃がしゃしないよ!」
モーラおばさんだった。おばさんは私がここから逃げてくると踏んで先回りしていたのだ。モーラおばさんは私をものすごい腕力で掴んできた。腕の骨がミシッと音を立てた。
「痛いっ、離して!」
「この忌々しい子! あの女さえ現れなければ! お前さえ生まれなければ! お前達親子なんかあの城の化け物に食われちまえばよかったのさ!」
「!」
そのおばさんの言葉には私の心に深く突き刺さった。今まで嫌味のように言われたことはあったけれど、そこまで強く、本心から怒鳴られたことはなかったからだ。おばさんの目は恐怖と憎しみと怒りに満ち満ちていた。でも、それはとても悲しい目だった。おばさんはその瞳でまっすぐに私を見据えていた。
おばさんの目に飛びかかったものがあった。
「今だ、小娘!」
私はおばさんの手を振り払って駆け出した。走りながら振り返ると、目から血を流しながら、呪いのような言葉を叫び連ねるおばさんがいた。
「憎しみに捕われた人間とは、哀れなものだ……」
ユドが私を追って飛んできた。おばさんの向こうに騎士たちの姿が見えた。
「ルシエの子供がいたぞ! 捕えろ!」
手にはクロスボウを持っている。モーラおばさんはそのクロスボウで射られて、その場に足を折った。
「……!」
私は崩れるおばさんから無理やり目を背ける。
どうしてこうなってしまったんだろう。走る私の脳裏にモーラおばさんの呪いの言葉が焼きついていた。
私だって叶うことなら、竜に食べられてしまいたかった。
「はぁっ……はぁっ……」
雪の上を走る私の足は既に限界だった。きっと凍傷を負ったまま無理をしたのがいけなかったんだろう。心臓も限界だった。だから騎士達は矢を射ずとも、私を徐々に追いつめていた。
その時、騎士たちを飛び越えて現れた白い影が、もうフラフラになって歩けなくなった私を抱き上げた。
「ナハル……!」
彼は無事だったのだ。
ナハルは飛んでくる矢を次々にかいくぐると、雪の山道を風のように駆け抜けた。徐々に騎士たちの姿は遠くなり、やがて見えなくなった。
7
大分山奥まで入った。辺りは暗く、夜になって森は吹雪いてきた。
大きな千年樹の森の入口まで来たところで、ナハルは私を雪の上に下した。
「ナハル……」
私は心配になって彼の名を呟いた。彼の息は上がっていた。それでも彼は優しく「もう大丈夫だ」と私に言ってくれた。
彼が助けてくれなけば、私は今頃、あの騎士たちに捕まっていただろう。
でも、私はこれからどうすればいいのだろうか。みんな殺されてしまった。帰る場所も無くなってしまった。私は完全に一人になってしまった。
ナハルはこれからどうするのだろう。ユドは道案内といっていたけれど、どこへ向かうのだろう。できることなら、彼について行きたい。私は彼と一緒に旅がしたい。もう私にはそれしか残されていない。
私をナハルの旅に連れてって。私はそれが言いたくて、ナハルの手にすがりつこうとした。でも、私の手は空を掴んだ。
ナハルは私から少し離れたところまで歩いていくと、静かに振り返った。
「ユド、今までありがとう。ここからは自分で行くよ」
「もう良いのか」
「ああ。でも、最後にだけ頼み事がある……ナイアをよろしく頼む。彼女が落ち着けるような安全な場所まで送り届けてやってくれないか」
「えっ」
「承知した。その願い、聞き届けよう。あの城へ行けば、もうお主とも会えぬかもしれしな」
もう会えないとはどういうことだろうか。ナイアの中での不安が極限に達した。
「ナハル、あなたが目指していた場所って、あの城のことなの?」
ナハルは答えなかった。でも、私は続けた。
「ユドはそのことを知っていたの?」
「……そうだ。お前がついて行くと言い出すと思い、黙っておったのだ」
そんなのずるい。そんなのずるよ。
私は動かない足に命令して、ナハルの元へ駆け寄ろうとしたが、よろけてその場に手をついた。それでも、雪から身体を起こして、私は乞うように言った。
「ナハル、お願い。私も連れてって……!」
「小娘、お前は自分が何を言っているかわかっているのか。あの場所は危険な場所なのだ。お前を連れていけるわけがなかろう」
ユドにそういわれても私は懇願し続けた。しかし、ナハルは冷たく私を突き放した。
「君を城へ連れていくことはできない」
「どうして……いやよ。そんなのいやだよ……村はみんな焼けてしまった。村のみんなも死んでしまった。お母さんと過ごした故郷も何もない。もう私にはどこにも居場所なんてないの……!」
お願い、私を連れてって。でないと私、どうしたらいいかわからない。
もう、一人は嫌だ。一人は嫌なんだ。
その時、ナハルが私を抱きしめた。
彼の包容はとても強いのに、どこか優しく、かすかな雪の香りがした。
「君には未来がある。新しい居場所はきっと見つかる。普通の人として生きるんだ」
彼は私の耳元でそう囁くと私から離れて行った。
「待って……行かないで……」
お願い。あなたの邪魔にはならないようにするから。
「普通の人として生きろ……お前の道を……」
最後に彼の言葉が聞こえた。でも、ナハルが振り返ることはなかった。
彼はどんどん小さくなっていって、夜の吹雪とともに闇の中に消えて行った。
私は彼を追いかけることはできなかった。
私は泣き叫んだ。喉が張り裂けるくらいの大声で泣き叫んだ。
私を一人にしないで。もう一人は嫌だ……。
後には無言で私を見つめるユドと、無様に泣き崩れる私だけが残された。
8
千念樹の洞の中で泣き疲れて寝た夜、母が去ってゆく日の夢を見た。その日も吹雪の夜だったことを覚えている。その年も雪の日が多く、村人たちは飢饉を恐れていた。だから、お母さんは集会所に呼ばれた。
お母さんのことが心配になった私は、吹雪の中、家を抜け出して、集会所の中の様子を窓からこっそりと見ていた。
村人達から激しく問いただされるお母さんが見えた。ああ、帰らずの城の呪いなんて存在するはずはないのに。
「呪われし親子めっ……お前達が帰らずの城に立ち入ったばかりに!」
「そうだ。あの娘が呪いの元凶なのだ。この女は呪いを持ち帰ったのだ」
「待ってください。あの子には罪はありません。罪なら城に立ち入った私にあります」
お母さんは必死で私をかばおうとしてくれた。黙ってことの成り行きを見ていた村長に母は懇願した。
「村長……私はこの村を出て城へ行こうと思います。でも、あの子だけは……ナイアだけはどうか、ここに置いてやってください。お願いします……」
私はいてもたってもいられなくなって家へと戻った。納屋のようなみすぼらしい家にはお母さんの本がたくさんあった。私は本をいくつか手に取ると、それを抱きかかえるようにして泣いていた。
お母さんが帰ってきたら嫌だって言おう。私も行くって言おう。
私は泣き疲れて眠ってしまった。
「……めんね……ごめんね……」
まどろみの中で聞こえた声は、今思い出せばお母さんの声に違いなかった。
私が悲しまないように、お母さんはその日に村を出て行ったのだ。
そして、私はひとりぼっちになった。
みんな私をおいてどこかへ行ってしまうのだ。
宿で出会った旅人たちも、お母さんも、ナハルも。
「いや……みんな私を一人にしないで……」
夢と現実の狭間で見た光景。雪道を去っていくお母さんの姿と、ナハルの姿が重なって見えた。
9
翌日の昼下がり、私とユドは村の焼け跡にいた。
騎士団は既に出発したらしく、後には焼け崩れた家と、村人たちの亡骸が残されていた。モーラおばさんは憎悪の表情を顕にしたまま、背中に矢を受けて、雪の上で既に事切れていた。
――お前達親子なんかあの城の化け物に食われちまえばよかったのさ……。
そうなるべきだったのかもしれない。おばさんが言うように私達親子は、この村に居てはいけなかったのかもしれない。
「小娘よ、案ずるな。これはお主たちのせいではない。この者たちの度重なる業がこの結末を引き起こしたのだ」
ユドはそう言ってくれたが、私は贖罪の念に駆られていた。そんな村人たちの最期に立ち会い、一人だけ生き残った私は、それでも村の人達の死に涙が出たのだ。私にそんな資格はないというのに。
涙のもう半分は孤独感と、ナハルに置いていかれた損失感だった。
私はそれからいろんなことを考えた。村の人たちのこと、モーラおばさんのこと、ナハルのこと。母さんのこと。長い時間、そこで自分を振り返っていた私は、ナハルが去り際に行っていた言葉の意味を考えた。
そして、それまでこの小さな村に自分を縛りつけていたのは、他ならぬ自分だったのだということに気が付いた。
私は抜け出そうと思えば、この村からいつでも抜け出せたのだ。でも、そうしなかったのはその先に行くのが怖かったからだ。
結局、私自身が踏み出せていなかっただけで、私が生きる理由なんて最初から一つしかなかったのだ。
鷲は私が気持ちを整理している間、ずっと私の傍で待っていてくれた。
「ねぇユド、お母さんが死んじゃった時に、燃やされてしまって残ってないけれど、この村には私とお母さんが暮した家があったんだ……」
「うむ」
「みすぼらししい納屋みたいな家だった。でも、そこでお母さんはたくさんの本に囲まれながら、研究を続けていた。この村での日々は辛いことばかりだったけれど、お母さんとの大切な思い出もたくさんあったの」
「そうか……」
「だけど、お母さんとの思い出は私の中に残っている。私にはもうそれしかない。だから、最後にそれにすがってみたいと思うの。わがままを言ってもいい?」
「どうせ、もう決めておるのだろう」
この鷲は察しがいい。
私の居場所なんて、生きる意味なんて一つしかないもの。それ以外に私の落ち着ける場所なんてないのだ。私は涙を拭った。
「ようやく泣きやんだか、小娘。人間の子守など少々癪ではあるが、あやつの頼みだ。お前の気持ちが落ち着ける場所とやらまで付き合おうぞ」
私はお母さんがやり残したことをしてあげたい。それに、初めて、自分と同じ『声』が聞ける人と出会ったのだ。
お母さんはひょっとして、彼がこの村に来て私と出会うことを分かっていたんじゃないかと思う。それは私の憶測だけれど。
「行こう、帰らずの城へ」
お母さんが向かったあの場所に。ナハルの元に。
私は再び鷲と共に雪道を北へと歩き出した。
第二話 帰らずの城
1
どれほどの時の中を待ち続けていれば、再びあなたは私の前に現れてくれるのだろう。
どれほどの生と死を数え続けていれば、再びあなたと巡り会うことができるのだろう。
割れたステンドグラスの窓から差し込む白い光だけが、少女にとって外の世界と繋がる唯一のものだった。
かつて礼拝堂として使われていたらしき空間。周囲を形取っていた白い石壁は風化が進み、所々が剥がれ落ちてしまっている。天井を彩っていた壁画も、彫刻が施された石柱も今は無残に崩れ、大理石の床に石片を散らばしている。それらは、この場所に多大な年月が経過していることを物語っていた。
もの寂しさで溢れた廃墟に、その歌声は響いていた。
歌声は、傷つき廃れたこの場所をなだめるかのように、慰めるかのように、まるで、この場所に降り積もった永い悲しみを静かに洗い流すかのように、定められた音域の波を響かせていた。
歌声の主である少女は廃墟に静かに佇んでいた。
眩いの光を思わせる白い髪に、齢、十六ほどの透き通った肌。風になびく薄手の滑らかなシルクのドレス。華奢で端麗な少女の姿は、おおよそこの場所には似つかわしくないものだった。
まだこの礼拝堂が絢爛な輝きを放っていた時ならば、壁画より現れた女神、あるいは天使と見間違うほどだろう。それほどまでに彼女の纏う雰囲気は高潔で、そして、気高かった。
そんな彼女の歌声は、凛としているが、どこか淡い優しさを帯びた響きだった。旋律を奏でる薄っすらと淡い唇は、微弱な空気の振動を生み出し、時の止まったはずの廃墟に新たなる時を生み出していた。
その美しい歌声は誰に向けられたものなのか。歌声を聞き届ける者は、しかし、この場所にはいない。
無機質な時を数える礼拝堂で、ただひとり彼女だけが、紡がれる時の住人だった。まるで、周囲が彼女だけ残して先に朽ちてしまったかのようだ。
なぜ、少女はこのような寂しげな場所に一人でいるのか。その理由を知りうるのは哀しみの当事者のみである。
無残にも崩れ落ちた壁は、唯一の出入り口である礼拝堂の入口の扉を塞いでしまっていた。高い場所に取り付けられた割れたステンドグラスには、手さえ届かないだろう。
窓の外からは絶壁に打ち付ける波の音が微かに聞こえてくる。ここは断崖絶壁に建てられた塔のような場所なのだろう。仮に窓から逃げ出しても、その先に足場ははない。
そこはさしずめ少女の檻であった。
唯一、外界とこの場所を繋ぐのは割れたステンドグラスだけだ。
彼女の居る礼拝堂には、翼を持つものしか辿り着けなかった。
少女にこの場所から出ようとする様子はない。しかし、それは諦めなどではなかった。少女は何かを待つように、ただ廃墟で歌を歌い続けていた。
ふと、少女の歌が止む。
閉じられていた瞳の奥から、妖艶な赤い二つの瞳が現れる。それは血のように赤く、美しい二つの瞳だった。
少女が割れたステンドグラスを見上げると、一羽の白い小鳥が不思議そうに首をかしげながら、下にいる少女を眺めていた。歌声に誘われて来たのだろうか。
小さな来客に、少女は初めて微笑みを浮かべた。
小鳥は少女の元へと飛んできて、少女の掲げた細い左手の指先へとまった。
少女が指先を胸の前へと降ろしても、小さな空の住人は逃げようとはしなかった。それどころか、少女の腕を伝って肩へ、肩から右の腕へと器用に飛び移ってみせた。
少女はうれしそうに小鳥を目で追いかけていた。まるで小鳥は少女と遊んでほしいかのように、彼女の身体の上で跳ねて回った。
一人と一羽はそうして、廃墟の中でひと時を過ごした。
ふと、少女は割れたステンドグラスから見える空を見上げた。少女の手のひらの上で、心配そうに小鳥が鳴いている。
ステンドグラスの外に、巨大な黒い影が走った。遅れて、ゴウッ、という大きな風の音がして、ガラスがガタガタと振動した。
巨大な翼を持つ何かは旋回し、ガラスの隙間から見える遠くの空で姿を現した。
それは大きな黒い竜だった。歪な骨格の翼を持ち、頭部から長い尾の先に渡って、鋭い角が生えている。黒い影はおぞましい雄叫びを上げながら大空を暴れまわるようにして、空を飛んでいた。それは苦しんでいるとも、何かを探しているようにもとれた。
竜の姿を、少女は哀れみの瞳で見つめていた。
小鳥が少女の手から飛び立った。
「さようなら……」
少女が呟いた。綺麗で澄んだ美しい声だった。
小鳥は礼拝堂の窓から天高く大空へと羽ばたいていった。
大空へと飛んでゆく小鳥を、少女は見えなくなるまで見つめていた。
2
目が覚めると涙が頬を濡らしていた。とても寂しい夢を見た。
会ったこともない人の夢だった。その人はとても孤独な時間を生きていた。
でも、どうしてそんな夢を見たのかは、私にはわからなかった。
私が目覚めた時には日も高くなっていた。虚になった樹に空いた穴から、眩しい日の光が差し込んでいた。
「起きたか。寒くはなかったか」
私の胸の中で鷲が心配そうに顔を上げた。
「うん、大丈夫。ユドは私のこと、心配してくれるのね」
「無論だ」
村を出てから三日目の朝、私とユドは帰らずの城を目指して、千年樹の森の奥地を進んでいた。ここは家くらいの太さがある大きな杉が立ち並ぶ森だ。夜は決まって吹雪いたので、私はユドとともに、千年樹の根元に空いた虚の中で夜を過ごした。
夜眠るとき、私はユドを抱えて眠った。ユドの体温はとても高かったので、私は夜の寒さを凌ぐことができた。
そんな城までの道のりは険しかった。村を出てからずっと森ばかり歩いていた。
私は焼け残った村の食料を持ち出して、飢えをしのいだ。それでも、お腹が空いた時は、ユドが私の食べられそうな物を獲ってきてくれた。
中でも千年樹の実は、村では滅多に食べられないご馳走だった。実は秋に落ちて、冬の間、深い雪の下に埋もれてしまうが、ユドが高い場所にある実をわざわざ私のために落としてくれた。
濃いバターのような果肉は栄養満点で、村では妊婦に食べさせるために採集される。食べるとお乳の出がよくなるからだ。
「私もこれ食べたら大きくなるかな……」
「む、背でも伸ばしたいのか?」
「う、うん、まあね……」
無意識に呟いてしまい、反応されてたじろいだ。彼が鷲で良かった。
この森を海の方向に行けばユドの故郷である北の大海があるのだそうだ。そこでは海の幸が豊富なので、鷲はあまり実を食べないそうだ。
明るい間は帰らずの城を目指して歩きっぱなしだった。私は城がこんなに遠かったなんて知らなかった。
思えば随分と遠くまできてしまったんだな、と私は妙な寂しさ感じた。
お母さんはこの道を厳しい道のりを、生まれたばかりの私を抱えて城から戻ったのだ。
ふと、私の前に、しばらく見かけなかった白い光たちが私の前に現れた。
――ナイア、本当に行ってしまうの?
――ナイア、あの場所へ行ったら戻れなくなってしまうよ?
微精霊たちは私を心配してくれているのだ。でも私ならもう大丈夫。
「私、決めたの。だから、心配しないで」
もう迷いなんてなかった。それだけ告げると、微精霊たちは姿を消した。
歩きながら、なんで今頃、彼らが突然現れたのだろうと考えていると、しばらくして、千年樹の森が開けた。森の先には切り立った断崖絶壁が広がっていた。
大陸の最北部、北の大海から押し寄せる荒波に、長い年月をかけて削らた崖だ。辺りには霧が立ち込め下は見えないが、激しく打ち付ける波の音が響いていた。裂けるような風の音が、この場所に亡霊の声のように響いていた。
ギザギザに続く断崖絶壁の向こうに、城らきし黒い影が見えた。白は深い霧の中で何も言わずに鎮座していた。
「あれが帰らずの城……」
「なんとおぞましい。羽が逆立つようだ……」
ユドの野生の勘が何かを感じ取っているのだろう。私も何かの違和感を覚えていた。その原因はすぐに気がついた。ここには微精霊達がいないのだ。
まるで、空間全体が何か邪悪な空気に包まれているかのようだ。私は身震いした。
「引き返すか?」
「ううん、行こう」
もう引き返すわけにはいかない。私たちは絶壁に沿って造られた足場を伝って進んだ。あの城が造られたという千年前は、もっと道幅も広かったのだろう。長い年月の間に、波で削られた足場は脆く、所々が崩れてしまっていた。馬が一頭ようやく通れるくらいの幅しかないだろう。
「何でこんなところにお城なんかを建てたんだろう」
「千年前の大戦争の時、皇帝がもしもの時、最後の砦とするために建てられたのやもしんれぬな」
そして、実際にこの場所は最後の砦となったのだ。
城へ至る道中で、ユドは私に色々なことを終えてくれた。彼は城のことだけでなく、森での生き方や、北の大海の生き物たちのことや、人間の暮らしのことについても知っていた。彼は昔、大陸を旅したことがあるらしい。彼も旅人だったのだ。いや、旅鷲かな?
「ユドって物知りだよね」
「伊達に長くは生きておらぬよ。五十羽目の妻を娶った辺りから、月日はもう数えてはおらぬがな」
「ごじゅっ……?」
そんなユドって何歳なんだろう。私の感覚では、長生きしている動植物は人の言葉を理解することがあるけれど、ユドほど流暢に喋る鷲も珍しかった。
「ひゃっ」
そんなことを考えていた私は、風に煽られて思わず崖から落ちそうになった。
「気をつけよ。海の底は大戦で死んだ屍だらけだろう。油断していると亡霊たちに引き込まれるぞ」
「怖いこと言わないでよ」
おそらく、何千、いや、何万という兵士がここで死んだのだ。だとしたら、死体を海に投げ捨てていてもなんらおかしくはない。
私は微精霊が見えるが、『あっちの人たち』も見えてしまうことがある。まだ明るいから見えないのかもしれないが、確かに、さっきからねっとりとするような感覚が肌に纏わりついていた。
こんな場所にナハルが探しているという人はいるのだろうか。
城が近いのか、道幅も徐々に広がってきた時だった。
「もうすぐ城門のはずだが、急に霧が深くなってきたな……む、あれは?」
ユドが霧の中を凝視したので、私も霧の中に目を凝らす。
だが、私はそこで見てはならないものを見てしまった。
「ひっ!」
思わず引きつった悲鳴が出た。私たちの目の前に現れたのは、先にこの場所へ向かった、王国の騎士達だった。
ただし、その絢爛な鎧は砕かれ、身体は引き裂かれ、バラバラになっていた。
馬さえも首や胴体が大きく抉られ、あるいは損失し、無残な体裁を晒していた。
「なんだこれは……あやつがやったのか?」
ナハルは確かに強い。でも、村で騎士達を切り伏せたとき、殺すことまではしなかった。彼は人を殺めてしまうほど冷たい人じゃない。
騎士達の死体は五十近いかった。ほとんど全滅したといっていいだろう。
私はあの王子様の姿を探したが、この血の海では人を判別することさえ難しかった。
目の前に広がる光景を凝視していた私は気分が悪くなり、その場で膝を折った。
「小娘、大丈夫か」
「う、うん……」
村人の悲惨な姿を見た後とはいえ、人の死体を見慣れたわけではない。
「しかし、この傷口、何かに食われたような後だな」
遺体の多くは剣による傷跡ではなかった。大きな口で噛み砕かれたかのようだ。そこから考えられることは一つだった。
まさか、と私が考えたとき、前方から何か音が聞こえた。ガシャガシャと鎧が擦れる音だった。
「霧の中に何かいるぞ」
霧の中に何か大きな影が見えた。風が吹いて、霧が少しだけ晴れる。
霧の中から現れたのは大きな黒い翼だった。
しかし、それは鳥の翼なんかではなかった。
翼が大きく動いて、その向こうにあったものが現れる。
歪な黒い角、鋭い牙に大きな顎。全身に生えた黒い鱗と、異様に長い尻尾。
途方もなく巨大なトカゲの呈を成したその姿は、まさしく、竜、だった。
「――ッ」
その竜がしていたことに、私は悲鳴にならない叫びをあげた。
巨大な黒い竜は、ワニのように大きな口で、騎士の死体を鎧ごと丸呑みにしていたのだ。でも、それは食事というよりも、どこか憎しみを咀嚼するような感じの食べ方だった。犬が縄張りに入った猫を噛み殺しているみたいな。
お母さんの言っていたことは正しかったのだ。でも、今の私には嬉しさも喜びも何も沸き起こってこなかった。ただ、ただ、私は恐怖の虜になっていた。
勇敢な鷲であるユドも、全身の羽を逆立たせて警戒していた。
竜の鋭い瞳が、傍らにいた私たちを捉えた。すると、竜は翼を大きく広げ、喉を引き裂いたような雄叫びを上げた。私の全身から一気に血の気が引いた。
竜は直後、もの凄い勢いで突進してきた。
「こ、小娘っ、逃げるぞ!」
私は恐怖のあまり、足が竦みそうになっていたが、無理矢理、足に命令を送って、来た道を一目散に逃げ出した。
「道が細くなったらあの岩場の陰へ隠れろ!」
竜の足はとても早かった。迫り来る竜の牙が私を捉えようとしたが、私は間一髪のところで、岩場の陰へと飛び込んだ。
そこは足場も急激に狭くなっており、竜は私たちをこれ以上追えないと判断すると、絶壁から滑空するようにして、霧の中へと飛び立っていった。
私ははち切れそうになっている心臓を抑えながら、岩場の影でただ震えていた。息が上がり、呼吸が苦しい。走ったはずなのに、全身に寒気がした。
「あのようなおぞましいものが、本当にこの世に存在するとは……」
ユドは信じられないという様子だった。私も正直、信じられない気持ちだった。
私は竜にいてほしいと願った。でも、実際に目にした竜は、私の想像とかけ離れたものだった。物語に出てくるようなロマンチックなものではない。なんというか、憎しみの塊のような存在に私は思えた。
私はしばらく呼吸を整えていたが、ふと、近くにふと誰かの気配を感じた。
私が周囲を見ると、岩場の暗がりに誰かがいた。




