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07.最後の敵

 漢中で戦うには長大な補給線が要る。それは劉備にとっても曹操にとっても同じだった。特に曹操は、先の張魯戦での失敗を教訓にしなければならなかった。


 蜀の後方では成都に居る諸葛亮が物資と兵士を用意する。どちらも郡太守に集めさせたのを送り出した。そのために楊洪は、漢中攻めに向かった法正の代わりに蜀郡の太守となる。

 諸葛亮は以前、荊州で劉備が兵を徴発しようとしたとき、当時の戸籍が全く頼りにならないとして改めて戸籍調査して徴兵するように進言している。また趙雲伝に引く趙雲別伝には、蜀を平定した後で趙雲が賦役と徴税を行うように薦めたとある。賦役と徴税には戸籍制度が必要だから、蜀でも荊州と同様に戸籍調査して徴兵したのだろう。

 まだ周辺異民族は蜀の統御下に居らず、このとき彼らに賦役や徴税を求めることは無かった。

 輸送技術は未発達で、輸送ルートもまだ十分には整備されていないから人力になる。男は漢中の戦いに駆りだされ、女に輸送を担わせた。劉備の兵力はそこまでして、曹操の率いてきた軍勢10万と夏侯淵率いる5万の兵力に対抗できるものになった。



 孫子には「兵は多くを益として貴ぶに非ざるなり」というが、多ければ有利なのには違いない。しかしその分、費やす物資が莫大なものになるとも言われている。

 曹操は多勢で険阻な漢中へと進まねばならなかった。故に入念な計画と十分な備えが必要とされた。奇策とは言えない磐石の準備が、漢中の戦いにおける曹操の戦術だった。


 このとき曹操は遠征途上にある各郡の太守に後方支援を頼んだ。

 曹操は劉備征伐の折、扶風太守張儼に兵士を漢中へと送るよう命じた。このときはまだ曹操は許より関中へと向かうところだった。扶風郡はちょうど漢中郡の北にあり、斜谷道や散関道、子牛道などで繋がっている。ただこの命令は扶風出身の兵士たちの反対を受けて履行されず、扶風の兵士たち2万人は代わりとして小数に分けられて順々に荊州の関羽討伐へと派遣されることになった。

 曹操はまた河東太守杜畿と京兆尹鄭渾に命じて曹操の大軍が漢中に入った後の物資輸送の任を与えた。険阻な山道であるというのに、数千万袋の補給物資を運んだ。河東郡では5000人が徴発されるも逃亡者は一人も出なかったというが、京兆尹鄭渾の補給輸送はその勲功第一とされた。

 さらに弘農太守の賈逵を派遣して斜谷道を偵察させる。斜谷道は全長210km。漢の武帝期に開通した道であり、陽平関の東に在る。この道は涼州と漢中を結ぶ道の一つだった。張魯との戦いのとき散関を経由しての補給が漢中に繋がらなかったので、改めて斜谷道を整備したのだろうか。或いはこのとき夏侯淵が死んだ直後で、漢中の確かな情勢を窺おうとしたのだろう。しかし厳しい賦役を嫌がる一部の者たちは反乱を起こして関羽の元に逃れた。


 漢中攻めは張魯のときと併せて二度有るから、どちらか判別がつき難い箇所が一部ある。ただ張魯のときには補給が繋がらなかったのだから、こちらに回すほうが正しいだろう。


 曹操は長安から陽平関に出発するまで半年ほど待機していた。物資不足で戦っても仕方ないから、移送に相当労力を割いたのか、或いはインフラ構築に苦心したのだろうか。

 曹操は遠征の度に労働力を徴発してインフラを築いている。

 インフラは公共事業と考えがちだが、過酷な労働が強制的に課される点で論外である。

 曹操伝には運河が凍結していたため住民を使って氷を叩き割らせていたところ、役務を嫌って逃亡した話も有る。また曹操伝に引く曹瞞伝には、泥濘になった道を通す為に下草で埋めさせ、彼らの上を馬が踏み潰して行ったと言う。

 宮殿の造営や要塞の建築修繕、道路や渠を通す事業があり、渠については大体三国食貸志に纏まっている。

 例えば袁尚討伐のときに築いた淇水運河、烏丸討伐のときの平虜渠と泉州渠。陸路では、前述の烏丸への遠征のとき数百km分の山を平らにして谷を埋めた。また元々漢中への道はかつての益州刺史劉焉によって橋が落とされたため不通になっていたが、遠征の度に整備された。

 219年の春頃、夏侯淵が戦死したという知らせを受けて、曹操は長安より漢中へと進軍を始める。曹操はこの行軍中にも悠々としていて、袞雪という詩を残した。



 さて、劉備は夏侯淵を討ち取ると、陽平関を攻めようとしていた。

 陽平関は、最初劉備が漢中に親征しにきたときに自らが駐屯していた関であり、夏侯淵との定軍山の戦いのために一時的に放棄していた。夏侯淵が敗れたのを機に、郭淮と張郃は残存兵力をまとめて陽平関を奪い取り、劉備らは漢水左岸に移ってこれと対峙した。

 郭淮は劉備を打ち破る計画を立てる。このときの方策は、潼関の戦いの項目でも触れた、河より退いて敵を引きつけ半分渡った所で攻め込むという平凡なものである。

 策謀の士法正を従える劉備はその手に乗らない。しかしちょうど曹操が進軍を始めたから、到着するまで足止めするのに十分な偽兵となった。


 3月、曹操が斜谷を抜けて陽平関に至ると、劉備は漢水を離れて高地に陣営を構えて守勢に立った。戦いは劉備の優位に進んだようで、曹操に随って漢中に攻め入った校尉王平が降伏する。


 また黄忠は曹操の兵站を攻めるため斜谷の方へと進軍し、趙雲はその軍勢を随行させた。先に夏侯淵を討ち取った黄忠だからと曹操は自ら迎撃に向かったところ、戻らない黄忠の様子を見るために騎兵隊を率いていた趙雲と遭遇する。唐突な遭遇に曹操は一旦退くが、再び還ってきて趙雲の包囲を始めた。しかし趙雲の軍勢は騎兵中心だから、包囲を突破して漢陽の陣営に逃れることが出来た。ここで趙雲は偽計を用いて曹操を退かせ、その機に乗じて攻撃を仕掛けて撃退した。

 一方、黄忠の兵站襲撃だが、こちらは成功しなかったようである。曹操の補給は滞り無く行われ、二人の太守は優れた成績を収めた。そのうち京兆尹鄭渾が勲功第一なのだから、彼が黄忠による兵站攻撃に対応したのだろう。黄忠が長く帰ってこなかったことや、戦った様子が記されてないことから察するに、鄭渾が巧みに補給計画を組んだため、黄忠は鄭渾の輜重隊を見つけ出すことが出来なかった。


 さらに劉備は劉封を出撃させて曹操に挑戦させる。

 多くの伝で劉備は高山で固守していたとあるのだが、以上のような例外が見られる。となると両軍主力での会戦はなく、互いの哨戒線における散発的な小競り合いが有ったという意味なのだろう。


 ところで張飛と馬超は前年に曹洪によって軍勢を粉砕されているので登場しない。その曹洪は張飛を撃退して以来、漢中西の武都郡下弁に駐屯し続けていた。ここは涼州に繋がるルートに当たるので、劉備が涼州の羌族と連絡せぬように備えていたのだろう。

 下弁より南下すると馬鳴閣があり、ここから東に行くと漢中、南に行くと蜀の梓潼郡がある。梓潼太守の張翼は劉備の漢中遠征に随行していた。

 劉備はここから漢中へと入ったのだろう。また馬鳴閣から下弁へのルートを断ち切ろうとしたが、こちらは失敗している。

 曹洪は下弁より曹操の助力に赴いたり、劉備の補給線を狙うことも出来たはずだが、基本的には守りに徹した。とにかく曹洪には策謀に富む曹休や辛毗が付いているのだから、何かしら出撃すべきでないとする事情があったのだろう。



 5月、曹操が漢中に入って二ヶ月が過ぎるが、その戦術は冴え渡らない。張魯戦のように補給が足らなくなるということは無かったようだが、小競り合いのうちに偶然敵陣を攻め落とすような奇跡は起きなかった。弱点の補給線を突けず、守り手が決戦を望まない以上、戦いは膠着する。

 この頃、劉封に対抗するため呼び寄せようとした曹彰は、代郡から遥々南下している最中だったが、彼が到着する前に曹操は撤退を決定し、主簿の楊脩はその準備を始める。


 曹操は漢中の防衛地点を放棄して撤退する。ただ漢中の人々の強制移住を行い、敗戦の代償とばかりに労働力を掻っ攫って行った。

 今度の強制移住はそれほど反対されなかった。移住対象になったのが、元々以前の関中動乱に際して漢中へと移ってきた移民たちだったからだろう。

 一方、劉備は勝利を得ると、劉封を漢水より荊州へと進ませ、孟達と協力させて荊州北東部を平定させた。間もなく平定したばかりの郡から軍勢を集めろと関羽が言ってくるが、無理な話だろう。


 曹操が漢中遠征のため長安に駐屯していた頃から、荊州では曹仁と関羽による樊城の戦いが始まっていた。

 219年10月、漢中の敗北を終えて洛陽に帰還した曹操はすぐ関羽討伐へと赴くが、到着する前に徐晃が曹仁を救出していた。

 曹操最後の戦いは敗北で終わった。


 三勢力が鼎立した頃より、曹操の戦いに奇策といえるものは見えなくなる。この事情を考えると幾つも思い浮かぶ。

 例えば、まず三勢力それぞれに優れた策士が居たため通用しなくなった。呂蒙や法正がこれに当たる。賈詡や郭図相手にも苦戦したわけだから、曹操の策略は元より完璧とは言い難い。

 また老齢が理由にされることもしばしばある。最後に策が冴え渡った潼関の戦いのときに56歳。張魯との戦いを入れれば60歳。それから急速に耄碌したというならこれで良い。

 率いる兵が膨大な数になれば、傘下の諸将に任せる部分も多くなり、策略がその体を為さなかったかもしれない。その初期から官渡の戦いまでの間、曹操は1万を超えない手勢を自ら指揮していた。勿論、他の武将がそのほかの兵力を運用していたのだろう。しかし曹操自ら軍を指揮する様は漢中の戦いまで見られるし、曹操の死まで青州兵は付き従っていた。

 或いは、策略を用いて勝利を繰り返した為に、諸勢力は曹操の策を強く警戒するようになり、また長い戦いの間に戦術論が累積され、年齢による保守的な考えへの移行と共に、曹操自身が奇策より万全の備えのほうに重きを置くようにしたようにも見える。

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