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06.孫権を降す

 潼関で馬超を破って以来、曹操は夏侯淵に命じて涼州の制圧を命じていた。夏侯淵は3年間の戦いの末に宋建を破って涼州を平定したのだが、その間、漢中の張魯は涼州の豪族らを支援し続けていた。


 曹操は10万を率いて関中から南進し、武都の氐族を破って漢中に入り、陽平関で張魯の将軍張衛らと対峙する。張衛は連山地帯に長大な陣営を築いて守っていて、攻め落とせなかった。

 曹操は先鋒の張郃に道路を造らせたものの兵糧は輸送できず、現地の住民や氐族から奪って確保していたのですぐに欠乏する。


 武帝紀には、撤退したと見せかけて相手の防備を解かせ逆襲して張衛を破ったという。

 張魯伝に引く魏名臣奏と世語には、曹操は撤退を決定していたのだが、前衛部隊の高祚が道に迷って偶然敵陣営に行き当たり、そのまま陣営を攻め落としたという。


 撤退すると見せかけて敵を油断させるのは、韓信が井陘の戦いや高密の戦いで行っているほか、匈奴の冒頓単于が劉邦に対して行っている。

 しかし少なくとも曹操が撤退の準備をしていたというのは他の伝にも見られるから確かだし、守備を解いたというものの彼らは相変わらず連山地帯に陣営を留めていた。

 後者の場合、連山地帯の陣営だから複数の陣営があるのだろうが、一つ一つの陣営はそれほど多数で無いだろうし、一つを攻め落とされると張衛がそれを救うのは困難になる。通説では補給線が最大の弱点なのだが、これはどちらにとっても問題だった。


 いずれにしても張衛は逃亡し、張魯は巴中に移り、曹操は漢中の南鄭に入る。蜀の劉備は黄権を派遣して迎え入れようとするも、巴中から漢中へと戻ってきて曹操に降伏した。

 この戦いで兵糧は限界に達して負傷者も多発していたというから、得隴望蜀とはいうけれど、この状態で険阻な道を越えて巴蜀へと攻め込むのは無理だっただろう。


 この年、隙を突いて孫権は合肥を攻め、また劉備はまた黄権を派遣して空白地になった巴中を獲った。

曹操は夏侯淵と張郃と徐晃を漢中に配して備えとし、鄴に帰還する。



 合肥の戦いで孫権は張遼らに惨敗する。その主因は疫病の流行だった。張遼は孫権ら首脳陣の居る逍遥津を襲撃して名声を得たが、大局は左右していない。

 しかし曹操はこれを高く買ったのか、或いは孫権の動きに警戒したのか濡須口への再侵攻を決める。


 216年から217年に掛けて濡須口で防塁に頼って守る孫権に対し、曹操は居巣より江西に進む。張遼と臧覇が先鋒として派遣されるが、先に築かれた防塁に拠る呂蒙の迎撃を受け、また悪天候のため水位が上昇して孫権の水軍が接近したため、陣営を築く前に引き返した。

 それでもどうにかして孫権を敗走させて、戦いは1-2ヶ月程度で終わった。この戦いは213年に行われた濡須の戦いと混ざっててはっきりしないことが多い。

 例えば周泰はどちらかの濡須の戦いの後に濡須の督になるのだが、214年の濡須督は蒋欽であり、217年の濡須の戦いの際には呂蒙が督になり、周泰の後任の督が222年の濡須の戦いで活躍する朱桓なのだから、周泰の伝の記述は217年のものであると推定できる。しかし悪天候を理由に、董襲や徐盛の操船の失敗による苦戦をこのときの戦いに当て嵌めるのは性急である。長期間に渡って対峙しているのだから悪天候になることだってあるだろうし、この頃の船は風にやたらと弱かった。

 結果的に孫権は降伏する。孫権側が壊滅的な打撃を受けたわけではないだろう。というのも江東の豪族たちの狙いが魏ではなく、劉備に奪われた荊州へと向けられていたという事情がある。三国時代において魏は終始水軍で呉に勝ることは無く、晋代になって漸く対抗できるようになる。

 どんな意味で優勢だったのかといえば、単純な水夫の数と将士の練度と船の数が主要で、造船技術にそれほど差があったのかは疑わしい。そもそも船の技術は拿捕によって手早く──といっても一朝一夕とは言えないが、共有されるものだ。実際、楼船という大型の船を作ったという記述は魏と呉のどちらにもある。また海洋向けの船も両国で作られている。

 孫晧の時代には、呉の将軍たちの多くは彼らの所有する兵士を率いて晋に投降しているほか、晋では盛んに造船が行われている。


 その後、219年には孫権がまた合肥に攻め込んでいる。この年は関羽が曹仁を包囲し、呂蒙と陸遜の策によって関羽が斬られた年である。同年に居巣に駐屯していた張遼を曹仁の救援に送っているし、同じく居巣に駐屯していた夏侯惇を後方の召陵に移しているから、合肥への侵攻は魏の要請で中断され、孫権は豪族たちの意向に合わせて荊州へと矛先を移したのだろう。この年の合肥の戦い自体が関羽を誘い出す罠だったと見るのは、関羽が樊城を攻めた事情がたまたま洪水が起きた所為なのだから、行き過ぎな気がする。

 呉は荊州を得た後になって、漸く北方を優先するようになる。



 さて、どのような事情にせよ217年に孫権は降伏し、残すは巴蜀を領する劉備のみとなった。

 漢中に駐屯していた張郃は、劉備に奪われた巴中より住民を移住させようとして南進する。

 そこで劉備は張飛を派遣して、張郃を漢中に追い返す。劉備は勝ちに乗じて漢中へと張飛を派遣するも、曹操の派遣した曹洪によって撃退される。

 続いて劉備は親征を開始し、黄忠に夏侯淵を討ち取らせた。これを受けて曹操は自ら漢中へと赴く。

 曹操にとって最後の戦いが始まった。

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