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05.騒乱を招く

 武帝紀の寸評にいう。曹操は韓信や白起の奇策を完備していた、と。どちらも紀元前3世紀に活躍した武将で、その戦術は主に史記で知ることが出来る。両者は伏兵と偽兵を上手く用いた。しかし使った計略は一様ではなく、情勢によって変化した。


 孫子に「遠くとも(偽兵によって)近くにいると見せかける」とある。これを孫子注では「進まんと欲すれば去る道を治めん」と解釈し、韓信による臨晋の戦いでの戦術に触れる。

 臨晋の戦いは、紀元前204年、漢の左丞相韓信と魏王魏豹の間で行われた戦いである。臨晋は河西と河東を繋ぐ黄河の渡河地点である。当時、橋の建造技術が無かったわけではないが、全体或いは大部分が木造だったため長期的には維持できず、渡河は大体渡し場を用いていた。

 このとき韓信は臨晋で多くの船を配備して渡河の姿勢を見せて陽動をさせつつ、本隊を北の夏陽から筏で渡河させ、先に魏の首都の安邑を攻めた。そして魏豹が慌てて安邑に戻ってきたところを迎撃して破ったという。


 211年、曹操と曹仁の率いる主力軍は、臨晋より南にある黄河の渡し場に布陣していた。ここは黄河が南北の流れから東西の流れに移る湾曲地帯より東南にあり、北面に黄河が伸びている。おかげで黄河を渡らずに河東から河西へと行けるのだが、その経路は関所によって塞がれていた。

 曹操は馬超ら関中の豪族連合と関所を挟んで睨みあう。

 潼関の戦いである。


 これより前、鍾繇は漢中に張魯を攻めようとして3000の兵を集め、また威嚇として関中の豪族に対して人質を要求した。3000程度では心許ないのか、曹操は夏侯淵を向かわせる。

 当時、張魯の勢力は漢中に割拠していて形式上は曹操に臣従していたし、その実際の狙いは関中の豪族に対する威圧であるという記述が正しいように思う。

 しかしこの牽制は悪い方に働き、劉璋が曹操を恐れて劉備を蜀に引き入れるきっかけとなった上に、

これまで鍾繇に従っていた涼州の豪族たちは人質の要求に対して反乱を起こした。


 徐晃伝によると、両者が対陣している間、徐晃は兵4000を率いて北の蒲阪津──即ち臨晋で黄河を渡って河西に防御柵を築いていた。武帝紀にはこれに朱霊も同行していたとある。これに対して梁興が兵5000を率いて柵の完成する前に夜襲を仕掛けたが、数的優位にも拘らず撃退されている。

 涼州人は精強であるというからおかしい。多分、朱霊もそれなりの軍勢を擁していたのだろう。


 この機に曹操率いる主力軍は潼関から北にある黄河を渡ろうとするが、軍勢を渡河させている途中で騎兵突撃或いは騎射を受けた。

 渡河の途中で攻め込むのは著名な宋の襄王に公子目夷が薦めた戦術で、孫子にも「川を渡って来たらば、水の内で迎えず、半ば渡らせて攻めることが利なり」とある。そして馬超自身、以前に鍾繇の傘下で袁尚の配下と戦ったとき、この戦術を用いていた。涼州の軍閥は数万を斬って大きな勝利を得た。

 曹操はどうにか渡河を果たすと、別働隊によって築き上げられた防衛陣地を頼りに南へと移動し始める。馬超らは警戒して西に後退し、黄河から渭水へ分かれる渭口の南岸に留まった。

 曹操は渭水の北岸でこれと対峙する。結果的に主力軍が陽動の役割をし、目的は達せられたが損害は大きかった。


 曹操は偽兵を多く配置して密かに渭水を渡河させる──即ち臨晋の戦いのように。そして渭水南岸に陣営を築き、夜に馬超らが陣営を襲撃してくると伏兵を出して撃退する。

 曹操は攻勢に出ることなく、敵の緊張が弛緩するのを待った。その後、両陣営間で会合が開かれ、ついで賈詡の策で韓遂と馬超に疑心を抱かせた後に合戦を約束する。それにどれだけ効果があったのかはともかく、曹操は軽装の兵士と騎兵を用いて挟撃することによって合戦に勝利した。張繍と戦ったときに行った戦法である。


 戦いの後、馬超ら残党は漢中や涼州に逃れた。ちょうど河間で反乱が起きて、曹操は関東に帰還する。夏侯淵は留め置かれたが、張魯討伐は先送りにされる。涼州反乱のときに多くの人々が漢中に入り、その多くが張魯の軍に加えられたほか、逃亡してきた馬超を受け入れたために、張魯の勢力はより強大になっていた。



 潼関の戦いの少し後、曹操が荊州北部の人々を大規模移住させようとしたため、人々に動揺が起きていた。この動きから曹操の侵攻が再びあると見て、孫権は濡須に防塁を築く。大規模移住の理由は、先に平定した関中の人口を充実させるためだろう。後に漢中を獲得したときも似たことをしている。

 荊州北部の人々が江東に移り出すと、曹操は江南への遠征を再び行った。


 濡須口は、合肥城の面する巣湖を南下して濡須河に入り、さらに南下して長江に合流する地点にある。この一帯での戦いは既に二度行われていたが、どちらも決定的な勝利を得ていなかった。

 例えば208年には赤壁の戦いの最中かその後に孫権が軽装の騎兵を率いて劉馥の守る合肥を包囲している。そして包囲から100日ほど過ぎたとき長雨があって城壁は崩れかけ、さらに曹操の派遣した救援隊は疫病に罹っていて辿り着いておらず、合肥城は陥落しそうになった。このとき蒋済が偽計のために送った手紙から曹操の大軍が救援に来ることを知り、孫権は撤退したという。

 そして209年には曹操が合肥に到来する。赤壁の戦いが208年の年末だから、蒋済の手紙は事実だったかもしれない。

 また同年に合肥の西方にある皖城で陳蘭の反乱が起きて、呉の韓当が陳蘭の救援に向かい、張遼らと交戦している。韓当が敗れると孫権が舒城へと救援軍を派遣するも敗北し、陳蘭は斬られた。


 213年、曹操はその軍勢を40万と称して濡須口に進軍し、江西に置かれていた都督の公孫陽を捕らえる。廬江、蘄春、九江の三郡は当時の曹操の領有だったから、領土関係から言って江西の濡須口付近は当時の孫権の領域の最前線に当たる。

 孫権は7万を率いて迎撃に赴き、長江を挟んで曹操軍と対陣した。

 曹操は一月余り孫権と対峙する。このとき既に呂蒙の築いた防塁のために曹操は先へと攻め込むことが出来なかった。孫権が舐めプしつつ敵陣の偵察をしたり、甘寧が少数で陣営に急襲を行ったりと挑発してくるが、曹操は乗せられずに撤退する。


 214年、この機に呂蒙らが西の皖城へと派遣される。呂蒙は皖城を攻め落とし、廬江、蘄春、九江の三郡を奪い取った。

 曹操は皖城陥落の一ヵ月後に戻ってきて再び合肥を来訪すると、改めて張魯討伐に向かうため、張遼らを合肥に配して備えとした。

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