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04.赤壁に敗れる

 袁尚は幽州に逃れて烏丸族を頼った。

 烏丸族は遼水流域に住む遊牧民で、漢の力を借りて匈奴に対抗しようという狙いから、漢王朝に仕えていた時期が比較的長かった。後漢の頃、匈奴が分裂して弱体化した後は鮮卑が台頭したため、漢と鮮卑を両天秤にかけるようになる。その鮮卑が分裂すると公孫瓚の側に付き、間もなく袁紹の懐柔によって袁家との同盟関係が築かれた。

 その王権は既に血統に拠っていたが、勢力としては強い者に従うという論理に従っていた。


 曹操は袁譚を滅ぼして袁家の大きな支えだった冀州を獲得すると、青州・并州を鎮撫する。206年には青・并の両方で反乱が起きるも制圧し、207年、幽州へと遠征に向かった。


 曹操は鄴より出発し、直線で780km離れた幽州柳城を目指す。田疇が案内役となり、道路も作らなければならなかったから半年ほどの行軍になった。

 鄴より300km程北にある幽州の入り口である易京に至ると、郭嘉の献策を容れて輜重を置いて急行した。そして更に200km北東の無終に着いたのが5月。これより北は燕山山脈なので、海沿いに向かう。しかし7月に洪水があったため海沿いを進むのを止めて、幽州出身の田疇の案内で古い間道を西に進み、130km西の盧龍関に至る。ここから北東に山岳を切り抜けて140km進み、鮮卑の領域を横切って柳城まで80km辺りに至ったとき、烏丸の偵察が先んじて曹操の軍勢を発見し、烏丸は戦いの準備を始める。

 歴史地図とグーグルアースを使うとこんな感じになるが、道は真っ直ぐではないだろうから実際はもっと長い距離になる。


 8月、曹操軍は白狼山を登った。そして曹操が見晴らしの良い高台に登ったところ、烏丸の軍勢を発見する。高い所に登って賦を詠むのは曹操の趣味の一つだ。山越えの賦もしっかり残されている。

 しかしこのとき曹操は偵察目的で高地に登った。李広や孫権のように大将自ら偵察に行ったというわけではなく、城壁に登って敵情を見るようなものだろう。実際偵察は少数精鋭で行う。このときは田疇が兵士500を率いて全軍を先導していた。

 そこで曹操には烏丸の陣形が整っていなかったように見えたとある。

 洪水のために進路が無く攻め込まないと偽った結果、烏丸が動揺したという話はあるが、少なくとも烏丸は、かつて漢と匈奴との戦いであったように攻撃を全く想定せず酒宴をしていたわけではなく、不完全とはいえ布陣していた。

 曹操は袁紹を降していたし、その威勢は田疇によって知らされているから、烏丸の論理からすれば曹操側に付くのが当然である。血統主義と実力主義の矛盾は、ともすれば実質の無い権威によって従わざる得ない状況を作り出し、烏丸の諸部族の陣形は整わなかった。

 とにかく曹操は陣形が整っていないことに気付いて急襲した。

 所謂高所優位という奴で、曹操は烏丸を一気に攻め破った。高所を取ることが優位であることは孫子にもある。

 曰く「凡そ軍は高きを好んで低きを憎む」である。

 通例山岳は基本的に攻めるときに有利であり、陽動或いは必然性によって少数で守るときにもそれなりに有用で、そして主力軍が山地で防衛するのは下策である。

 烏丸単于蹋頓は戦死し、20万人──の通例に拠れば実際はその十分の一が曹操に降り、当時の烏丸の王たちは袁尚らと共に遼東の公孫康の元に逃亡した。

 数ヶ月に及ぶ長期遠征になったが、戦い自体は長引かなかった。郭嘉は袁尚が北方異民族を頼った時点で攻城戦は起こり得ないと即断して輜重を置いたのだろう。

 袁尚の首を手土産にして公孫康が帰順し、幽州は平定された。烏丸単于の代理は曹操に帰順し、また鮮卑と漢の間で烏丸は揺れ動くことになる。



 曹操は少なからず敗戦を喫した。最も有名なのが赤壁の戦いだが、このとき奇策らしい奇策は明言されていない。


 208年頃、関中の馬騰や蜀の劉璋も帰順していた。荊州の劉表と江東の孫権にもその意志はあったようで、劉表と孫権は使者を送り、孫権は官位を与えられた。しかし彼らは互いに争っていたため、その態度を一つに定めることが出来なかった。


 曹操が劉備を急襲して攻め破ると荊州は曹操の傘下に収まった。劉備は諸葛亮の仲立ちで江東の孫権を頼る。江東の豪族たちは当初融和路線を支持していたが、これを荊州進出の足掛かりと見た周瑜と魯粛によって方針は転換された。

 曹操は孫権を攻めるために荊州南郡の広陵から進発し、対する孫権は曹操迎撃のため周瑜らを西方に派遣する。周瑜らは夏口に駐屯する劉備と合流し、赤壁で曹操を迎え撃った。


 広陵から赤壁までの行軍の最中、曹操の軍勢に疫病が発生した。そして赤壁での緒戦で曹操は敗北する。この戦いの細かい描写は無い。


 普通水軍は弓や弩を撃って戦う。これに対して防衛する側は皮革を屋根にして防ぐ。戦場では金鼓に合わせて水夫が櫂によって前進・後退し、普通の移動には帆も共用される。船と船を繋いで固定して浮き橋にしたり、浮き砲台にしたりもする。これに対して水中に潜って舫を斬ることも行われた。

 勇士が敵船に乗り込むようなロマンチックなことはあまり無いが、その備えとして戈を持った兵士が置かれる。


 互いの錬度を見るに、呉の軍勢は黄祖と戦い続けた実績がある。水軍を操る多くの武官が居り、長江の地勢についても深く精通していた。また劉備の部下には何故か水軍を運用出来る関羽が居る。後に関羽が荊州に置かれたのもそれが理由だろう。関羽は夏口へと逃亡するときの戦いで楽進と文聘に敗れているが、他に適当な人材は無い。

 曹操側は曹操の手勢というより荊州の水軍だったという。208年初頭に鄴付近に築かれた池で訓練した曹操の水軍は、まだ練度が低く主力にはなり得なかったように思う。その荊州水軍だが、孫権の軍勢と長年交戦していた荊州水軍の黄祖は、この年の初めに孫権に打ち破られていた。黄祖を含む諸将も斬られるか捕虜となり、将の多くを喪失している。

 或いは荊州の連中に、臣従の意思を証明させるために遠征を強要した線もある。

 赤壁の特徴は、曹操陣営において曹操以外この戦いに加わったのが誰か良く判らない点にある。劉表降伏後、江夏で荊州水軍を担ったように見える文聘も赤壁には出てこない。


 曹操が北岸に撤収したとき、呉の武将黄蓋が降伏を約束する。これまでの曹操の勝因の中で、敵陣営の内部分裂や裏切りは大きなウェイトを占めていた。荊州出身の黄蓋が裏切るとして、信用されるとすれば同州出身者が多い筈の荊州水軍からの擁護があっただろう。


 しかし黄蓋は降伏を偽って火計を仕掛け、曹操の軍営を焼いた。曹操は残った船を焼いて撤収し、樊口に布陣していた劉備と周瑜は追撃を始める。

 劉備と周瑜の追撃は南郡に至り、曹操は荊州に駐屯していた曹仁と徐晃と楽進に後方を任せて本国へと帰還した。曹仁らは一年ほど耐えるも敗走し、荊州の南半分は孫権の手中に入った。

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