03.冀州平定
袁紹との戦いは官渡の決戦に加えて、多くの小競り合いと外交謀略からなる。
とはいえ後者は省く。
199年、曹操が黄河を渡って黎陽に至ると、袁紹は軍勢を率いて南下を開始した。曹操は撤収して官渡を守る。
200年になると、袁紹は白馬を襲撃し、延津で渡河して東進する。
この動きは先に曹操が奪った河内の射犬に迫る動きのようにも見えるが、許を狙った東進の方が正しいように思う。許には献帝が居る。河内攻略後に曹操が置いた河内太守魏种は、袁紹が迫ったときも動かなかった。呂布の蜂起の時には裏切ったにも拘らず。袁紹が延津で渡ってくれて安堵したことだろう。
長江流域の諸勢力が昨年血を吐いて死んだ袁術の残党の吸収にかかったので、曹操は劉備討伐に出陣した。この機に袁紹は延津を守る于禁を攻めたが、そのうちに曹操が官渡に戻ってきた。
袁紹は曹操陣営の襲撃で諸将や諸陣営を失いつつも曹操の防衛拠点を着実に撃破し、最終的に曹操の本陣がある官渡に対して、陽武に陣を敷いた。
200年8月のことである。互いの距離は直線で40kmほど。歴史地図によると当時の黄河は陽武より北を通っている。
互いの軍勢の規模はそれぞれ記述されている。魏武帝紀に1万にも満たず、袁紹伝に歩兵10万騎兵1万とあるのだが、これでは曹操が以前よりも勢力を減らしていることになる。有り得ない。袁紹十万は盛ってるように見えるが、後漢書(140年)における青・冀・幽・并四州の人口をあわせると1200万人ほどになり、戸数は205万戸。晋書には戸数しか記されていないのだが、あわせると50万戸。冀州が特に多い。これなら十万は供出できるようにみえる。ただ当時戦災でどれだけ減っていたのかは分からない。
曹操の方をかなり多めに見積もり、袁紹は現状維持というのが一般論のようである。
袁紹にゆっくりと陣営を移動しながら官渡に至る。袁紹の多くの陣営が東西に連なっていた。その距離数十里ということだから1里415mとして、その長さは精々40km程度だから陽武から長々と連なっているのは確かのようである。曹操の行った連営1-3km間隔と同じならば20前後の陣営があることになるのだが、確かなことは分からない。曹操はこれに対抗して陣営を幾つかに分ける。
何に対抗しているのか。多分包囲されることにだろう。
ここで両者は一度合戦した。
曹操は敗れて陣営に戻る。 陣営は普通城砦を模す。その規模は兵数に合わせて大小変化するから一概に言えない。1人が3.5m^2を占有すると仮定して、1万人を敷き詰めると大体150-200m四方を占有する。兵士を詰め込むだけでこれだから厩や物資倉庫、様々な用途の屯営、櫓に通路を加えるとずっと増える。
袁紹は陣営を攻めるために土山を築く。曹操は袁紹に対抗して高台を築いた。水経注に拠れば、曹操の築いた高台は後に官渡台(曹公台または中牟台)と呼ばれるようになる。袁紹の土山は分からない。
袁紹は櫓を建てて、櫓と土山から曹操の陣営に対して射掛けた。鏃は鉄だったり銅だったりする。弓か弩かは分からないが、射程は精々200-400mだからそれより近くに土山が築かれたのだろう。
曹操陣営の兵士は盾を被った。
当時の盾は片手持ちで取っ手があり、少し湾曲している。長さはまちまちで大体1m前後、幅60cmほど。方形をしている。矢に耐えるわけだから、材質は金属だろう。少々重いが、被って身を守るのには十分だ。騎兵は盾を持たない。まだ鐙が無いから踏ん張れなくて意味が無いのだろう。
また袁紹は官渡台にトンネルを掘って曹操陣営を攻めようとするが、曹操は塹壕を掘って対抗した。塹壕というが、所謂空堀だろう。水を引いたようには見えない。これまで水攻めを二度も用いた曹操のことだから、水を入れれば自滅するようなものだろう。掘るとしたら土山の内側になるのか。
霹靂車(発石車)は移動能力を持つ投石器だという。注釈として引く魏氏春秋では、春秋時代から使われていたことを示唆する。三国時代に書かれた漢書の注に飛石という兵器があり、また史記蒙恬伝で投石競技をしているからスリングは昔からあったのだろうが、大型兵器の運用例は無い。大型兵器を搭載する車の方は問題なかっただろう。墨子には様々な兵器を搭載した車が出てくる。
ローマでは1世紀頃から弩を元にした投石器が造られ始めるが、中国の弩に挑戦的な変化はなく、性能向上と汎用化に向かって精巧さと頑丈さを得た。しかし必要性に迫られると、前例が無いにも拘らず投石機は作り上げられて実用化された。そのデザインは分からないが、こちらも所謂投石器というより大型の弩から発射したものであるように思う。
曹操はこれで袁紹の櫓を悉く破壊した。
200年10月、曹操陣営の補給が限界を迎えつつあるとき、袁紹に属す許攸の裏切りによって袁紹が大規模な補給作戦を計画していることと、そのための補給部隊が烏巣に駐屯していることが知らさせる。
曹操は夜間に自ら出陣し、夜明けになって烏巣に辿り着く。
曹瞞伝によればその間、袁紹軍の旗幟を用い、枚を咥えて移動した。旗とのぼりと訳されているが、幟という種類の旗のようだ。水陸攻戦図には横幅のかなり長い旗が描かれているが、こういったものだろうか。簡単に偽造は出来ないから、戦場で拾ったか奪ったかしたのだろう。
枚は声を出さない為に咥える小枝で、田単や章邯が用いたことがある。
補給線が撃破され、また張郃が本隊戦を嫌がったせいで袁紹は敗れた。
戦いは三ヶ月で終わる。大きな勝利だったにも拘らず、孫子の注釈において官渡の戦いは触れられていない。
それから半年ほどで袁紹は病死し、袁家の後継者を巡って袁譚・袁尚兄弟の争いが起きる。その内乱に乗じて曹操は冀州に進出して魏郡陰安に至るが、鄴を攻略する前に荊州の劉表が動いたため撤退した。袁家の争いは再発し、袁尚は鄴に拠点を置き、袁譚は平原に逃れた。
204年2月、袁譚が曹操に救援を求めたことから、曹操は再び鄴を攻めた。
袁尚は袁譚攻撃に赴いていたので、このとき鄴は審配によって守られていた。曹操はまず土山を築き地下道を掘るが、審配は塹壕を掘って対応した。曹操が官渡で用いた策だったが、審配は官渡に居たから通用しない。
審配の将軍馮礼が裏切って門を開き、曹操の軍勢300人を入れた。そこで審配は城壁の上から大石を落として通路の門に当てて塞ぎ、閉じ込めて殲滅した。城門の上から非常に重い石を落とす計略は、墨子の備城門編にある。
包囲から三ヶ月。曹操は土山と地下道を潰すと、鄴を包囲して丸一日かけて周囲に堀を掘削し、幅深2丈──4.5mほどになると漳水を決壊させて城に水を注いだ。三度目の水攻めである。しかし今回は決定打とはならず、審配は篭城を続けた。
曹操は水攻めを諦める。この後、使者が出入りしたり、糧食を保つ為に老人や子供が城から出されたというから、堀も放棄されたのだろう。
長い包囲のために城内で餓死者が多く出たが、降伏しなかった。というのも援軍を期待していたためだ。
袁尚は平原の包囲を止めて来たのだが、鄴はそこから距離は200kmほど西に進んだところにある。さらに鄴西の山に行くとしたら鄴を過ぎて回りこんで行く必要がある。急行しただろうから、1週間と経っていないだろう。
7月には袁尚が西山から救援に来て、使者と狼煙によって援軍の到達を審配に知らせた。そして審配と協力して内外から攻め立てた。
救援による解囲計画は、審配にとって決め手になるはずだっただろう。戦国時代、三年間続いた邯鄲包囲戦では魏の信陵君と楚の春申君が救援に来て解囲されたことがある。他に敵を内外から攻める方策は項羽が提案した位だった気がするが、はっきりしない。
で、普通は孫武や孫臏が行ったように直接やりあわず後方を攻める選択が採用される。孫武は蔡が楚に攻められたとき、蔡どころか楚の本隊をも迂回して楚に侵攻し、蔡を救った。また孫臏は趙や韓が魏に侵攻されたとき、直接救援を送るのではなく魏の首都大梁を攻めようと見せかけて趙や韓を救った。こういった類例は多く、特に戦力差が酷いときに用いられる。
だからこそ曹操は、袁尚が大道ではなく西山から攻めてくることを喜んだのだろう。曹操の補給線は兗州東平郡の安民から水路で西に進んで黎陽に至り、陸路で北に長く伸びている。守備隊も置かれていたが、時々袁尚の軽装部隊による襲撃があった。これは難なく撃退されたが、主力が向かえば危険だっただろう。
曹操は両軍を各個に対応し、審配が敗北して城に閉じ篭ると袁尚軍を包囲して壊滅させた。審配の手勢は元々少なかった。そこに敗北が圧し掛かったのだから、曹操は包囲の人数を減らしても良いと判断する。
8月、審配の甥の審栄が裏切って城門を開き、市街戦の末に鄴は陥落した。包囲は七ヶ月続いたものの、先の官渡よりも輜重妨害は軽微で、滞りなく行われたようだ。




