02.呂布討伐前後
呂布との戦いで曹操は伏兵と偽兵を用いた。
伏兵は茂みや森や丘陵の陰などに配して機を窺って奇襲する部隊で、偽兵は旗や金鼓によって軍隊が居ると見せかけることだ。これらは割合珍しくなくて、実行者は白起に韓信、孫臏、田単、李広、馮異と枚挙に暇が無い。伏兵は大抵退路や補給線を遮断する働きをして、偽兵は敵をその場所に引き付ける役割をする。
194年、張邈の反乱が起きると多くの郡県が呼応して、曹操は鄄城を除く兗州の全てを喪失した。張邈は陳宮の勧めで、袁紹の元から逃亡してきた呂布を迎え入れ、残存する曹操の拠点を潰しに向かう。
曹操は荀彧の薦めを受けて、徐州攻略を切り上げ兗州に帰還する。そして濮陽で呂布との小競り合いを繰り返しつつ別将を派遣して反乱した郡県を懐柔或いは平定し、195年になる頃には呂布に対抗出来る勢力を確保した。
糧食の不足から呂布は濮陽より山陽郡に移り、曹操は豪族李氏の後援を受けて済陰郡に入る。このとき袁紹は曹操を傘下に入れようとしたが、曹操は程昱の進言を受けて断った。
呂布の勢力は、1万余りだったという。并州からずっと呂布に従ってきた精鋭数百騎。また新たに募兵されただろう高順の兵士が700人。張遼の兵士は減っていなければ1000人程度だが、分からない。1万余りというのは呂布傘下の諸将の兵士を全部合わせればそのくらいにはなるだろう。
ところで曹操の勢力も1万以上と程昱伝にある。
195年夏、呂布は山陽郡の東緡から曹操の駐屯地へと攻撃を仕掛けた。曹操の兵士はちょうど掠奪に興じていたので千人に満たず、婦女子を城壁に登らせて守らせた。そこで呂布は周囲に堤や森林があることから伏兵を疑って一旦撤収し、10km南の位置に宿営する。
そして翌日、呂布が再び現れると兵の半数を伏兵として堤に隠し、合戦になったところで伏兵を出して戦い、打ち破った。続いて曹操は定陶を攻め落として済陰郡を平定する。
呂布は逃亡する。そして兗州を捨て、沛の劉備を頼って徐州へ移った。また曹操は陳留郡の張邈を破って兗州を取り戻すと献帝を迎え入れ、このために袁紹との確執が起きた。
これまでの策略は成功続きだった曹操だが、ここで難所が訪れる。名軍師賈詡と戦わねばならなくなったのである。
197年、張繍が賈詡と共に反乱を起こした。
張繍は涼州武威郡の出身で、叔父の張済に従っていた。
張済は元々は董卓に仕えていて、董卓の死後は涼州人内の派閥争いを調停する役割を担うが、それ以外の余所者とは反りが合わずに争いを引き起こし、衰微して荊州に逃れてから掠奪を働くようになる。そうして荊州牧劉表と戦うことになって戦死し、その跡を張繍が継いだ。
張繍はここで同郡出身の賈詡と出会い、それから曹操陣営につき、すぐに離反した。張繍は曹操が張済の妻を妾にしたのを恨んでいて、そのことが曹操に洩れて殺されそうになったためである。
張繍は軍隊を移動させようとし、輜重が重いので軍隊を武装させたまま陣営を通行することを求めた。曹操がこれを許可すると、張繍は陣営の中で曹操を襲撃した。曹操は典韋や子息二人、そして良馬の死を以って生き延びたが、それでも自身の大腿に矢傷を負った。そして撤退中に張繍の追撃を撃退して舞陰に駐屯し、張繍は賈詡の勧めで劉表を頼って穣に駐屯する。両者の距離は100km近く離れている。
荊州牧劉表が拠点とする襄陽は舞陰よりも穣に近く、曹操が出兵すれば先んじて救援が出来た。
曹操は穣へ攻撃を行ったが、途中で撤退した。袁術が再び北上し、陳王家(後漢の封君劉寵)を攻め滅ぼしたためである。袁術の陳への思い入れとかは省く。
さて、賈詡の制止を無視して張繍はこれを追撃したが、曹操が抜かりなく殿軍に精鋭を配していたため、張繍は敗北して帰還した。そこで賈詡は追撃することを薦めた。張繍がそれに従うと、勝利を得たのを機として軽装になって現地に急いでいた曹操軍を撃破せしめた。
袁術を撃破した後、曹操は舞陰へはいかず、許へと戻った。張繍に対して曹洪が代わりに派遣されていたが勝てず、張繍が南陽一帯に勢力を持ったためだ。
曹操は改めて南陽に進軍し、舞陰ほかを攻め落とした。
198年、曹操は再び穣を包囲する。そこで劉表は兵を送って曹操の後方を断った。曹操は少しずつ陣営を連ねて撤退を始める。当時の曹操の目的地である安衆県は穣から大体20kmほど離れている。普通なら1日弱の行軍距離だ。それを一日1-3kmで行軍しているとして、一週間以上かけて移動する。
しかし張繍は手を出さない。慌てて逃亡しているようならば一気に攻めたのだろうが、前年の失策を踏まえて、入念で統率された撤退には攻撃を仕掛けなかったのだろう。
曹操は苦労して安衆に到着する。そして張繍は劉表と合流すると、要害に拠って一度は曹操軍を撃破する。
その夜、李通が曹操の元に援軍を率いて来た。この幸運によって曹操は漸く意気を取り戻した。曹操は夜間に要害にトンネルを掘って輜重を通し、奇襲の部隊を配した。
夜明けになると、張繍は曹操が逃げたと考えて追撃を行った。そこで曹操は奇襲の部隊を放って、歩兵と騎兵で挟み撃ちにして張繍を打ち破った。
とはいえ穣を陥落させて張繍を降伏させることは出来なかった。
前年の例を考えれば、穣は賈詡が守っていた。賈詡の名軍師たる所以だろう。
曹操は南方を後回しにして徐州に目を向ける。このとき豫州刺史で徐州を握っていた劉備が呂布に打ち破られ、曹操を頼ってきたのである。
さて、孫子注に触れられるもう一つの戦いは、198年の呂布討伐戦である。
「用兵の法、十なれば即ちこれを囲む」という孫子の言葉について、曹操は「十を以って敵一とすれば、即ちこれを囲う。これは将軍の智恵勇猛等しく、兵の利と疲れ均しきときなり。もし守る主が弱く攻める側が強ければ、十倍の兵力は用いず。曹操が下邳にて倍の兵力で囲い、呂布を捕らえた所以なり」と注釈する。
呂布は徐州に逃れると、すぐに劉備から徐州の主導権を奪い取った。その後しばらくは劉備の味方をして袁術との仲を取り持とうとする。197年に袁術が帝号を称すと袁術と仲違いした。そして南に袁術を破り、北に臧覇と和解する。しかし198年、劉備の兵士が呂布の馬購入資金を奪った為に、呂布は劉備を攻撃した。
曹操は劉備救援のためにまず夏侯惇を派遣するが敗北し、続いて自ら出陣した。そしてまっすぐ東進して呂布の将軍侯諧の守る彭城を攻め落とし、呂布が拠点とする下邳に迫った。
198年10月、呂布は三度出撃して三度とも敗北し、下邳に立て篭もる。そのうち一度の出撃は、陳宮の勧めだったが失敗している。臧覇は救援に来たが、張遼は来なかった。
曹操が包囲を始めると、真っ先に呂布の将軍侯成が降伏する。また徐州で裏工作をしていた陳登には弟三人がいて、みな下邳で人質になっていたが、呂布の刺姦趙弘が裏切って三人の弟を救出した。
ここで曹操は、呂布の勢力は上下が一致しておらず与し易いと見た。しかし二ヶ月経っても攻め落とせず兵士も疲弊していたので曹操は撤退を考える。
荀攸と郭嘉が継戦を求めたので水攻めを実行した。曹操は泗水と沂水を決壊させる。そうして一ヶ月ほどすると、呂布の武将宋謙と魏続が陳宮と高順を捕らえて降伏した。呂布はまだ城に残っていたが、結局降伏した。
呂布陣営の内訌の事情は色々推測出来ても、これというものが無い。
水攻めのことは以前に書いた。しかし提案者は曹操ではなく、ここ最近臣下に加わった荀攸と郭嘉である。戦力が倍しかないから正攻法ではどうにもならないと判断したというのは疑い無い。
この戦いのとき呂布陣営は、敗北続きで戦意は落ちていただろうし、大した謀計も無く見通しの甘い陳宮の策略は、諸将の不満の種になっていただろうことは分かる。そのため兵士も将軍も弱兵になっていた。
しかし当時の曹操陣営も連戦が続いて疲弊していたと武帝紀にある。曹操自身の注釈からすれば、このとき倍の兵力だけではまともに攻め落とせなかったというべきだろう。
戦いは呂布陣営の自壊によって何とか終わり、曹操は呂布の降将たちに徐州の統治を委任する。
曹操は、江東の孫策に対する備えに陳登を置き、九江の袁術に対しては劉備を置いた。また以前から荊州の張繍・劉表に対しては陽安郡に李通が置かれていて、関中の馬騰らに対しては司隷校尉鍾繇に軍権を与えてられていて、河南尹として夏侯惇が任じられていた。
そして袁紹の勢力と接する青州南部には臧覇を置く。まだこの辺りは安定していない。また冀州に接する兗州東郡には劉延が居たが、どうやら大して備えられてなかった。
曹操自身は兖州牧としての治所昌邑に居た。ただ何をしていたのか分からない。
199年、司州河内に割拠していた張楊に対する両陣営の謀略をきっかけに曹操・袁紹間で戦いが起きた。




