01.徐州戦役
孫子注には二つの戦勝が触れられている。
その一つが193年から194年にかけての徐州戦役である。
そこには、敵城が小さくて堅く、その上兵糧が豊富なら攻めてはならない。故に曹操は華・費の地を放置することに因って徐州17城を奪ったと記されている。
この記述は193年秋に徐州の10余城を攻略したという武帝紀の内容に該当する。
華と費は泰山郡に属し、水経注によれば濮陽より東南に流れて沂水に注ぐ瓠子河流域にある。
少なくとも費の故城は残存していて、起伏の多い陵地帯にあり、その規模は1km×2kmであったという。
堅固な城だったといっていいだろう。
グーグルマップと歴史地図を利用すると、蒙山と尼山に挟まれた枋河沿いに古代の費県城があることが分かる。華県城はその北か北東、或いは西にあったようだがはっきりしない。
泰山郡は兗州に属すから、192年より形式の上では兗州牧に任じられた曹操の領有地だったが、
193年には陶謙によって奪い取られていた。
この頃、陶謙は幽州を保有し形式上は六州を統治する公孫瓚と揚州・荊州の一部を握る袁術に協力して、兗州の曹操や冀州・青州の一部を握る袁紹らと対立していた。前者は二人とも露骨に自身の帝位を望んでいて、後者二人は献帝を戴くことを目標にしている。
かつて袁紹は劉虞擁立を支持していたのだが、帝位を望む公孫瓚と対立し、その争いで公孫瓚は従弟の公孫越が戦死したために怨恨が生まれ、両者の争いは劉虞が死んでからも続いた。
192年、徐州牧の陶謙は公孫瓚の要請で兗州東郡の発干に駐屯していたが、曹操と袁紹によって打ち破られる。陶謙は軍勢を失って徐州へと撤退し、徐州の下邳にて天子を称する闕宣や仏教徒の笮融と連合した。闕宣は数千程度の勢力を持つ徐州の豪族であり、笮融は布教活動によって数百程度の勢力を得ていた。
193年、陶謙は曹操を攻め、華と費と任城を奪った。
費は堅固な城であったが、曹操の軍勢は袁術へと向けられていたから対応出来なかったのだろう。また曹操と同盟を組む袁紹は公孫瓚との戦いに明け暮れていた。
陶謙は機に乗じて要害を奪い取り、徐州の豊富な穀物で兵糧を満たした。
同年夏、曹操は劉表の支援を受けて袁術を撃退すると、陶謙の対処へと向かう。曹操は定陶に布陣する。定陶は、先に陶謙が奪い取った任城より100-120kmほど西にある。任城のさらに東に費と華があり、そこからずっと南下していくと下邳に行き着く。
まず曹操は恐らく任城を攻略した。しかしこの後、東の費に向かわず、南進して傅陽に進み、彭城に至った。
孫子に言う。
「その必ず赴くところに出でて、その思わざるところに赴く」である。
曹操軍の先鋒曹仁は騎兵を率いて彭城よりさらに進んだ所で陶謙軍の先鋒呂由と交戦し、続いて彭城の東で両軍本隊による会戦が行われた。このとき陶謙側で彭城への補給を受け持っていた笮融が補給物資を売りさばいて南方に逃亡したため、陶謙は郯に撤退して曹操は勝利した。
そして曹操は併せて17城を攻略すると徐州東南部で掠奪と虐殺を行う。兵糧不足を補う意図もあっただろう。まだ屯田は行われていないし、当時曹操の軍勢は青州兵を傘下に入れたために頭数が増えている。
その後、陶謙は青州刺史田楷の助力を受けて曹操が物資不足で撤退するまで下邳と郯を守り抜いた。
194年夏、曹操は再び出撃して襄賁、費、華、即墨、開陽、ほか1城を攻め落とす。陶謙は守りに徹して郯から出てこず、費と華はこのとき取り戻された。
武帝紀を見ると193年と194年の戦役で合計16城余りになるから、孫子注の記述は両年併せて17城とみることも出来るのだけれど、この場合、曹仁伝によれば194年に費と華を攻めているから内容が一致しない。193年に17城を落としたか後代の加筆だろう。
少し戻るが193年の初春、袁術との戦いで曹操は都城への水攻めを行っている。この水攻めというのは、春秋戦国時代から用いられている戦術で、地形と気候の条件さえ揃えば実行することが出来た。
中国の都城は大抵川沿いにあるか、川から引いてきた渠に面していて、時々は都城内にも引き入れられている。これは冶金業や紡績業で利用されるだけでなく、軍事的な水堀としても利用され、墨子によれば船を浮かべて戦っていたりもするのだが、河北での例はほぼ無い。
水攻めの実例は幾つかある。
例えば戦国時代の初期、智伯が晋陽に趙襄子を包囲した戦いで水攻めが行われた。晋陽へと汾水を注ぎ、城壁は三版──130cmほどを残して水没した。晋陽の城壁の元々の高さは分からない。城郭が水没してもその内部の王候の居住地にはまた城壁があるし、社稷のための小高い丘があるから、そこである程度は凌げる。
趙襄子はその間に、智伯と同盟を組む韓康子と魏桓子を誘い、離間させて智伯を滅ぼしたという。
他にも白起が鄢城の戦いで水攻めを行っている。楚の精鋭が堅守する楚国の要地であり、容易に抜くことは叶わなかった。このため大規模工事が行われ、漢水から鄢城に向けて幅60m長さ40kmほどの水路が造成される。鄢城は水に呑まれ、数十万人が死んだという。
楚の軍勢も崩壊し、白起は一気に楚の首都まで攻め落とした。
都城に対するものでなければまだ他にもあるが省く。
さて、曹操が袁術の駐在する太寿に水攻めを仕掛けた。太寿の場所はわからない。しかし袁術の逃走路を見ると、陳留郡に入るも劉表に補給を断たれて曹操と袁紹の連合に匡亭で敗れ、封丘では於夫羅と黒山賊を味方につけるも包囲を恐れて襄邑へ向けて撤退し、太寿で敗れて寧陵に逃れ、それから九江郡に逃れたとある。ここから類推すると、陳留郡の渙水・睢水流域になる。
曹操が太寿の水路を決壊させると、袁術は逃走した。
元々あった水路を利用したわけだから、当時の弱小勢力でも実施できたのだろう。




