02
横に流れていく景色を眺めつつ、俺はドアに背中を預けていた。
通勤ラッシュは過ぎたようで、電車の中は座席の空きが目立っていたが、俺は座ることなく外の景色を見つめていた。座らなかったことに対して特に深い意味合いはない。だがあえて言うのならば、なにもしないことが嫌だったからかもしれない。たとえそれが窓の外を眺めるだけの、意味のないものだとしても、何かしらの行為を意識して行わなければ、自分のことを永遠と考え続けてしまうはめになりそうだったからだ。
……しかし、ずっとこのまま逃げ続けることもできないだろう。
そう思って、俺はポケットから手持ちの荷物をすべて取り出した。
駅へと向かう前、俺は倒れていた場所に戻ってみたが、鞄の類は見つからなかった。ゆえに荷物と呼べるものは、ズボンのポケットに突っ込まれていたこれらだけである。
所持品は大まかに分けて二つ。
一つは鍵で、それぞれ別の種類の鍵が四つ、カラビナ風キーリングにまとめられている。本来はホルダー部を腰に付けて使用するようだが、歩くたびに鍵同士がぶつかって響く金属音が鬱陶しく、再びポケットにうずめておいた。記憶がなくなる前の自分も、同様の理由でポケットに入れていたのかもしれない。
もう一つは名刺入れのようだった。黒の革で作られたシンプルなデザインで、中にはカード類や紙幣が詰め込まれていた。ICカードも入っていたので、電車に乗る際にも別段苦労することはなかった。
しかしいずれも実用性を重視したものばかりで、俺自身のことを知る手がかりとなるものは何もなかった―――このたった一つを除いては。
俺は重なって入れられていたカードから一枚を取り出し、再度その記載内容を確認した。
―――夕ヶ裏高等学校在籍 塩谷 憲二―――
「俺、だよなぁ……」
改めて貼られた顔写真と、ガラス窓に映った自身の顔を見比べる。何度見てもそこには塩谷憲二と瓜二つの、もとい同一人物の姿が映っていた。
自分のことだというのに、まったく実感がわいてこない。それどころか何の確証もないというのに、この学生証に書かれている情報に疑いを持ってしまう。何が正しく、何が間違っているのか、俺にはそれを判断するための基準が圧倒的に欠けていた。しかし、だからこそ、現在の状況を打破するための唯一の手がかりとして、この情報を見逃すことなどできなかった。
目的の駅まで、そう長くはかからなかった。ホームを降りて改札を抜け、駅構内から外へと出る。むしろ時間がかかったのはその後の方で、見覚えある建物を尻目に突き進んだのはいいものの、まったく目的地に近づいている気がしなかった―――というよりも、自分が地理的にどのあたりにいるのかが理解できなくなった。いわゆる迷ったという状態に陥り、通行人に道を数回聞いてみたが、それでも事態は好転せず、結局はたまたま見つけた交番で地図を出してもらい居場所を確認することとなった。自分が目的地から離れていただけでなく、そこから隣の市に迷い込んでいたと分かった時には、さすがに警察の方も驚きを隠せないようだった。どうりで見覚えのない場所なわけだと納得してから、「そのまま警察の人に保護してもらえれば良かったのでは?」という発想が出てくるころには、交番は遙か後方に位置していた。そのときは「記憶がないだけで生活に支障はないから大丈夫」と自らを正当化してみたが、しかしすでにこの状況自体がその弊害であり、「あれ、もしかして俺は馬鹿なのかな?」と冷静に考えてしまう自分に悶々とするといった物悲しい話もあったのだが、それ以外は何の問題もなく目的地にたどり着くことができた。ついでに自分には土地鑑はあっても方向音痴であるという疑惑が浮上したのだが、それは後日改めて検討することとした。なんにしても、自分のことがわかるのは前進であるとみなすべきだろう。それほどまでに、俺は自身のことを何も覚えていないのだから。
*
駅を降りたのは昼時前だったと思うが、目的地にたどり着く頃には夕暮れ時となっていた。そういえば食事をとっていないということに気が付いて、だが今は目的を果たすことを優先するべきだと己に言い聞かせる。
手元の学生証へと視線を落とし、記載された住所をもう一度読み上げる。それが自分の立っている場所と一致することを確認し、俺は視線を戻した。
そこはありふれたマンションの一角だった。
出来上がってから多少は年数が経っているようだが、全体としては小綺麗な外観を保っている。新緑を思わせる草木が、敷地の周縁に沿うように植えられており、それらが清涼感を演出し、快適さを印象付けるつくりとなっていた。なんというか、不動産チラシで「一度は住んでみたい! 暮らしと自然の調和が生み出す快適空間!」といった触れ込みで売られていそうな感じの住居である―――一応、俺はここに住んでいるらしいのだが……。
そうして自宅にもかかわらず、少なからずの緊張を持って、俺は玄関口の扉の内へと歩を進めた。
エントランスホールにはオートロック式の自動ドアがあり、持っていた鍵を使うと、扉が開いた―――一番質が良さそうな鍵を選んだのだが、案の定ここの鍵だったようだ。エレベーターで上へと上がり、階の端から順にまわっていったのだが、目的の部屋は最後の地点に居座っていた。
他の部屋と変わらぬ扉が、俺の目の前にあった。だが中央に印字された部屋番号が、ここが目的地と同一であることを示している。
……ごくり。
息を呑んで、鍵穴に手元の一つを差し込む。別にやましい気持ちはないのだが、この背徳感にも似た感情は、自分が空き巣にでもなったような気分にさせてくれる―――もっとも、空き巣ならば律儀に鍵など使わないだろうが……。鍵を回すと、当然ではあるのだが、ロックが外れる音がした。その小気味よい響きに、少しばかりの興奮を覚えながら、俺はドアをゆっくりと引き寄せる。
「お邪魔します」
それともただいま、というべきなのだろうか。音をたてぬように静かに扉を閉めつつ、小声でそうつぶやいた。いや自分の家なのだから、もっと堂々とするべきなのだろう。ましてや今の自分の振る舞いは、それこそ空き巣と大差ないではないか。そう考えて、俺はよそよそしい挙動を放り捨て、悠然と家の中を闊歩することとした。
室内はそれほど特徴がなく―――というよりも、物がほとんど置かれていないために、生活感を感じない装いとなっていた。廊下を抜けたリビングルームにも、テレビやカーペットの類がなく、がらんとした印象を与えている。およそ家具と呼べるものは、寝室のベッドと、リビングに置き去りにされたソファー、そしてキッチンに付属する冷蔵庫くらいであった。ある意味かなり整えられた部屋なのだが、どちらかといえば人のいない空間に、申し訳程度に家具を設置した、と表現するのが適切と思われる内装である。
「こりゃあ手がかり無くなったか?」
過度な期待をしていたわけではない。しかし自宅であれば、有益な情報を得られるとあてにするのはごく自然なことだと思う。要するに当て外れの結果に対して、俺は意気消沈していたのだった。そうしてリビングで一人、肩を落としていた俺は、わずかに聞こえる雑音をその耳にとらえた。
「……これは、水の音か?」
なにかが連続で打ち付けられているかのような音―――おそらくはシャワーだろう。人がいないと思っていたが、誰かが風呂場にいたようである。
しかし次の瞬間には音は止み、あたりに再び静寂が戻った。
そういえば、俺はまだ見ていない部屋を一つ残していた。おそらくそこが浴室で、今現在、誰かが入浴をしていたのだろう。だがそうなれば一体その人物は何者なのか、という疑問が浮上する。
ここは俺の自宅、………のはずであり、ならば俺の関係者が住んでいてもおかしくはない。それならば何の問題もないし、俺の失われた記憶に関しても話を聞くことができるだろう。
しかし問題はそれ以外の場合だ。例えばここが俺の自宅ではなくまったくの赤の他人の家であり、しかも今浴室にいるのが何の関係もない人間であれば、俺は単なる不法侵入者ということになる。
ぞっと、身体中に不安が走っていくのがわかる。さっきまで「知り合いに会えればいいや」程度に考えていたのが、今は最悪な方にしか思考が働かない。
記憶喪失の上に犯罪者扱いされるなど、まっぴら御免こうむりたいところだ。ならばここは一度撤退した方が身のためかもしれない。仮に他人の家だったとしても、一旦ここを脱出さえすれば、改めて堂々と尋ねれば良いだけの話なのだ。
そう決断し、即座に玄関口へ向かう。しかし廊下へと引き返そうとした矢先、浴室に通ずると思われる部屋の扉が開いた。
廊下を遮るように開け放たれた扉によって、俺は出端をくじかれてしまった。さらにそれに追い打ちをかけるように、部屋の内からもう一人の人間が現れた。
「……………………ッ!」
「……………………っ?」
とりあえずは目前の視覚情報を、ありのまま描写したいと思う。
引き締まった健康的な両足、ウエストラインを強調するくびれ、慎ましやかながらも膨らみを主張する胸部、腰にまでかかるつややかな茶髪、そして、頬に吸い付いた髪を顧みずに向けられる二つの光彩―――詰まるところ、少女が一糸まとわずの姿で立ち尽くしていた。
年は自分とあまり変わらないように見える。しかしその整った顔立ちは、年相応の愛らしさというよりは、美しいと評する方がしっくりとくる。
わずかに髪のかかった色白の肩は、風呂上がりの名残で薄紅色を帯びていた。頭はまだ濡れたままで、そこからこぼれた水滴が火照った頬の間を駆け下り、鎖骨を伝って胸の谷間を滑り落ちていく。少女の足元にはそうした水滴が重なり、いくつもの水たまりとなって床を濡らしていた。
そんな少女の姿を、俺は視界から外すことができなかった。それはまるで何かに引き寄せられて目が離せないような、不可思議な魅力を彼女が持っていたからかもしれない。
ここまできてようやく、俺は自らの思考を取り戻した。人はあまりにも衝撃的な事態に陥ると、時間が止まったかのように錯覚してしまうらしい。そしていまさらながら、俺は今後の採るべき行動についての思案と選択を繰り広げる過程において、精神的に計り知れない動揺を持ちうる状況となった。端的にいうとテンパった。
ともかく状況は最悪であるということを根拠もなく理性が告げておりその決定は満場一致で可決され現在は本現状を可及的速やかに切り抜ける方法を模索するとしてひとまずはこの場所からの脱出を最優先項目として設定するとともに次いで彼女の誤認を解消し出歯亀という不名誉な称号を返上する必要がありそのためにはいかなる尊厳をも支払う覚悟でありひとまずは平身低頭こそが最善の解決策に繋がることを了承しこれを実行に移すべきだろう。うん、そうだろう。
そうして多大なる決意と覚悟をもって、俺は佇まいを直して彼女と向かい合う。
「……あー、そのー、あれです」
彼女の裸身への視線を制し、しかし誠意を伝えるために目だけを見つめるよう意識する。
膝と腰の曲がり具合を確認し、両手は親指を除いて揃える。
言葉だけでは伝わらない思いがある。だからこそ人は行動で示す。
記憶がなくなろうとも、人への謝り方を忘れるほど馬鹿ではない。
心の中で俺は高らかに叫ぶ。
そうだ、括目して見るがいい!
これが俺の、誠意!
俺の、全力の、土下座だああああああああああああああああああああああああぁァ!!!
「ごめn―――」
「会いたかった~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~‼」
「ぐぅえっ!」
俺の人生においておそらく最上級の、全力投球を持って行われた謝罪は、突如として抱きついてきた少女(しかも詫びるべき当の本人)によって防がれてしまった。
さらに状況だけを見れば、裸の少女に押し倒されている俺という、なんとも言い難い構図が出来上がっている。ちょっと待て、どうしてこうなってしまったのだ!
床に仰向けとなる姿勢で倒れこんだ俺と、その懐にうずくまるように沈む少女。その体を引き剥がそうとして、しかし両の手が俺の背に食い込まんばかりにがっちりとホールドされており、結局力技では無理だと悟った。濡れた髪から漂うシャンプーの香りも、俺の焦りをあおるばかりで、脱出のための何の役にも立ちはしない。
「あの、いろいろ聞きたいことが……。でもその前に服を―――」
そう言いかけた俺の口を覆うように、彼女の口が押し当てられた。俗にいう、キス、というやつだと思います。はい。それもわりかしディープな方の。
「―――っ!」
キャー! もう、ギャー!
口はふさがれていたので、俺は心の中だけでみっともない悲鳴を上げていた。
ただでさえ絶賛記憶喪失中だというのに、突如として裸の美少女に遭遇し、あまつさえ押し倒されキスまでされるというこの怒涛の展開を、俺はどう受け止めればよいのか。客観的に見ればただのうらやま展開なのかもしれないが、しかし当の本人からすればあまりに衝撃的過ぎて、悦ぶ余裕などありはしない。
そうしてむさぼるような濃厚なキスをたっぷりとした後、少女はゆっくりと顔を上げた。それでも俺の顔からすぐ近くの位置であり、結果として至近距離で見つめ合う形となった。
「ねえ。どうしていなくなったの?」
少女のその初めての会話らしい問いかけに、なぜか無性に嬉しさがこみあげてくる。
「こっちの方が聞きたいよ」
自分では見えないが、そこには呆れと戸惑い、期待と不安をないまぜにしたような、そんな笑みを俺は浮かべていたのだと思う。
「だからね、ユイはずぅ~っとお家で一人待ってたんだよ」
少女は俺がドライヤーで髪を乾かしてやっている間、俺がいないときのことを語っていた。その話によれば、どうやら俺と少女は二人でこの部屋に住んでいたらしい。一体、以前の俺はどのような生活をしていたのか、ますますわからなくなってしまった。しかし、目の前にはそれを知るための重要参考人がいるのだ。まあ、じっくりと聞かせてもらうとしよう。
「……ところで、君はいったい何者なんだ?」
会話の節目を見つけて、俺はついに核心を問いかけた。まずは彼女の素性を知ること―――それが記憶を取り戻すための最初のステップとなるだろう。
「ん~? 私はユイだよ~」
「いやそういうことじゃなくて……。じゃあ聞くが、俺と君はどういった関係なんだ? いいや言わずもがな、さっきの君の行動を見ればおおよそ見当はつくのだが、しかしやはり明確に言葉として確認したい。というのも―――」
俺は言葉を区切って、少しの躊躇を持ちながらもその続きを口にした。
「俺は君が誰なのか憶えていないんだ。そして、自分のことすらも……」
その決定的事実を告白する。そこにためらいを覚えたのは、先ほどの彼女の行動から推測するに、俺と彼女は少なからずの親密な関係を持っていて、にもかかわらず俺にはその記憶がないという事態は、彼女にとって大きなショックになりえると思ったからだ。
彼女がくるり振り返ると、俺の両手のドライヤーとタオルは行き場を失った。スイッチを切り、腰かけていたソファーの上にそれらを置いて彼女と向かい合う。
彼女は床の上に座っていたので、必然的に俺の視点の方が高くなる。すると彼女は上目づかいで俺を見上げることとなり、その仕草に思わず心が騒ぐ自身を認めてあきれてしまった。こんなことを考えている場合ではないというのに。
そんな俺の心情を知ってか知らずか、彼女の反応はとてもシンプルなものだった。
「ふ~ん、そうなんだ」
その予想外のリアクションに、思わず拍子抜けしてしまう。俺と彼女は、いわゆるそういう関係だと思っていたので、もっと感情的な返答がくると予想していたのだが。それともこういった淡白な反応は、許容範囲内ということなのだろうか。
「……すまない。どうやら早とちりをしていたようだ。やはり君の口から教えてもらえないだろうか? 俺と君との関係について」
「カン、ケイ? う~ん、……わかんない」
わからない? 言葉では語りつくせいほど複雑な間柄ということなのだろうか。いや、彼女の不思議そうに小首をかしげている様から察するに、どうやら質問自体がよくわかっていないような、そんな印象ではある。
「わかった。では聞き方を変えよう。君は、どうして俺と一緒にいるんだ?」
「それならわかるよ~。吟が誰よりも強いからだよ」
「吟? それは俺のことか?」
「うん」
彼女は立ち上がると、踊るようにくるくると歩き回り、そして改めて俺と向き直る。余談ではあるのだが、彼女は白のワイシャツを着ていて、おそらく俺が着ていた服であるからひとまわりほど大きく、それはもうぶかぶかであり、要は下を穿いていないように見えてしまう―――もちろん下着は穿かせたのだが、緊急時だったとはいえ、もう少し考えて着せればと反省した。
「俺が、誰よりも強いって?」
「うん。サイキョーなのですよ」
「……最強、ね。それが俺といる理由?」
「うん。だから、ユイは吟と一緒にいる」
正直なところ彼女の言動の真意は、はかりかねる。そしてこれ以上は、俺が期待する情報も得られないだろう。にもかかわらず、俺の心は不思議なまでに平静で、落ち着き払っていた。それは「一緒にいる」という、根拠がないけれども力強い彼女の言葉に助けられたからだろう。
目覚めたとき、俺は一人きりだった。自身の過去もなく、内心ではどう生きていけばいいのかもわからず、途方に暮れていた。でも、今は彼女が隣にいてくれる。自分は彼女のことがわからないけれど、少なくとも彼女は自分のことを知っていてくれる―――たったそれだけのことが、こんなにも心強いとは思いもしなかった。
「ユイ」
「ん~?」
嬉しそうにはにかみながら答えるユイ。そういえば、ここに来て彼女の名を呼んだのは、今が初めてだったかもしれない。
「ありがとな」
その言葉の真意を、彼女は理解できないだろう。しかし、それでいい。ただ単純に、俺がその言葉を言いたかっただけだのだから。
「いいよ~。じゃあキスしよ」
「待て、どうしてそうなるんだ!」
「いいじゃ~ん」
俺に抱きつきながら唇を近づけてくるユイを、必死に押しとどめながら、自身の口元がゆるんでいることに気が付いた。そういえば、記憶がなくなってから、『楽しい』と思ったのはこれが初めてかもしれない。
それは過去を持たない俺でも、今という時間を確かに重ねているという証なのだろう。
「ぶちゅ~」
「だからしないって!」
そんなやり取りは、夜になるまで繰り広げられた。
2015/01/09:誤字訂正
2015/02/02:ルビ修正