01 プロローグ
目覚めて最初に視界に映ったのは、光の届かない薄暗い空間だった。
いや薄暗いと知覚しているのだから、光はあるのだろう―――ただ自分がいつ瞼を開けたのか、その判別がつかなかったに過ぎない。
ぼんやりと辺りを見回して、暗順応したらしき眼球がわずかな光を捉える。
そこは建物の間を縫うようにして作られた小路で、すぐ手前には長身の壁が左右に広がってそびえ立っている。頭上はビニールシートで覆われているようで、わずかに透けて見える太陽光を除き、外界からの光線をすべて遮断していた。
この時点になってようやく自らの体へと意識が及んだ。すると不思議なことに、今まで感じなかった感覚が襲い、俺は反射的に飛び上がっていた。
慌てて動いたせいで近くの壁にぶつかりそうになったのだが、寸前で回避することができた。鼻を手で覆いつつ、先刻まで自らが倒れていた場所へと視線を向ける。
そこには真ん丸に膨らんだいくつもの袋が乱雑に敷かれていた。その口元から垣間見えるそれが、腐臭の源泉だと理解した瞬間、吐き気を催して思わずうずくまってしまう。
しばらくの間、胃から込み上げてくるものをこらえるのに意識の大半を動員した。やがて落ち着くと、俺は足早にその場を後にする。
一方通行の通路を進み、すぐさま出口へと到達する。幾筋の光芒の中を突き抜け、俺は光の中へと飛び込んだ。
「………っ」
あまりの眩しさに思わず手をかざしてしまう。網膜は突然の刺激には対応できず、細目でもってこれに対処する。やっとのことで機能を取り戻した両眼で、俺は初めて外界を眺めた。
そこは小さな商店街だった。
子売店が列をなすように並び、その一部は時間帯のせいなのか、まだシャッターを下ろしたままである。大して広くもない道路を、今は学生や会社員たちが一方向へと流れている。道行く人の数は少なくないが、それはこの地帯の賑わいを示す指標とはなりえず、あくまで駅への通行手段としての役割を担っているようだった。
この地域の活気はさておき、これがこの街の日常の一風景であることは疑いようがない。人々はこの商店街となんらかの関わりを持ち、あるいは持たずに日々の生活を送り、そうして生きていく。そんな営みが毎日繰り返されていき、たとえ記録に残ることがなくとも、彼らが生きた痕跡は、時間とともに確実に堆積していく。
すなわち生きるということは、何かを重ねていくということ。それこそが人生で変わることのない、普遍的な光景なのだろう。ならば―――、
俺は人の流れの中を動くことなく、ただただ立ち尽くしていた。通行人からは奇異の視線が向けられていることがわかる。往来で何をするでもなく佇む者が珍しいと思ったのかもしれない。あるいは俺の身なりが浮浪者を思わせるほど薄汚れていたのかもしれない。しかし、いずれにしても彼らは足を止めることなく歩み続け、俺の傍らを何事もなく通り過ぎていく。それを視界の隅で捉えて、見送ることなく足元に視線を落とす俺は、世界に置き去りにされてしまったようだった。
いや、事実それは比喩ではないのだろう。
胸元の衣服を握りしめ、俺は自身へと問いかける。
日常という名の一コマ―――見慣れているはずのその景色を、俺はなぜか知らない。
……いや違う。そうじゃない。
この街の地理や立ち並ぶ店の名前を、その情報を、俺は知識として確かに把握している。しかし自分がどうやって生活していたのか、どのように関係していたのか―――それがわからない。
知識としてのデータはある。だがそれはどこから得た? 俺はどのようにしてこの場所と繋がっていた? いや、そもそも―――、
「………俺は、誰だ?」
根本的な問題に突き当たり、思考が真っ白に塗りつぶされていくのを自覚する。
気付けば周りに人はいなくなり、通り道には俺一人だけが取り残されていた。
それは奇しくも、今の俺の状況を指し示すのにもっともふさわしい光景だった。
生きるということは、何か重ねていくということ。ならば―――、
ならば―――、積み重ねるべき過去を持たない人間は、一体どうやって生きればいいのだろうか?