幸福の形
朝まで狐姫と悶着していたマツリは、寝不足のくらくらする頭を掌で叩いて誤魔化しつつ、朝餉の膳を神さまたちの元へ届けた。
狐姫は一睡もしていないにも拘らず、元気に赤と遊んでいた。赤をとられた形の狐さまは、どこか不満そうに二人を見ていた。
「朝餉をお持ちしました」
「おお、マツリの作る食べ物はおいしいから大好きじゃ」
狐姫は嬉しそうに、赤を抱いたまま膳の前に腰を下ろした。もともと人懐こい性格らしい狐姫は、一晩中続いたマツリとのやり取りで、すっかり彼女を気に入ったようだった。箸を持って料理を口に運ぶたび、これはおいしい、これが気に入ったなどと感想を述べてマツリを喜ばせた。
対する狐さまと言えば、むっつりと黙ったまま黙々と箸を進め、二人の会話に入らずに、食べ終えるとすぐに本殿へと引っ込んでしまった。
そんな狐さまの態度を見て、狐姫はおかしそうに笑った。マツリは何故狐姫が笑っているのかわからず、膳を片付ける手を止めて狐姫に問いかけた。
「狐さまが拗ねているのが面白いんですか?」
「ああ、面白いとも。あやつ、マツリを妾にとられているのが悔しいのじゃな」
マツリは瞬いた。狐姫はその表情を意外そうに見やった。
「そなたとあやつは夫婦じゃろう。妻を一人占めにされて嫉妬しない夫がいるものか」
「そ、そんな!狐さまは赤さまが狐姫に懐いているのが気に入らないだけですよ」
「そうかのう?」
疑問形だったが、狐姫は自信ありげににやりと笑った。その笑みが人間の姿の黒狐を思い浮かべさせるものだったので、そうかこの人たちは幼馴染だったな、とマツリは実感した。
「さて。では最終決戦といこうかの」
狐姫がそう言って、マツリを外に連れ出した。
「ここまで、引き分けじゃったな」
マツリは昨日と今日の朝までの勝負を思い浮かべて、げんなりした。
「あの、まだやるんですか」
「勿論じゃ。まだ勝負はついてないぞ?身を引くとはいえ、明確な結果がなければ心残りができてしまうじゃろう」
狐姫の口からはっきりと「身を引く」という言葉が出て、マツリは心の中でほっとする自分がいることに驚いた。
「では……母親試験第三段。どっちが強いか、じゃ!」
「……え?」
マツリが異論を唱える前に、狐姫はくるりと身を回転させた。振り返ったその姿は、大きな金色の狐だった。
「あう……」
きらきらと輝く毛並みに目を奪われ、拝殿の階に座り込んでいた赤が呆けたような声を出した。
(昔の人が神さまだと信じた気持ちが分かる――なんて綺麗)
マツリも赤と同じく、美しい狐に見入っていた。
「ゆくぞ、マツリ!」
凛とした声が狐の口から発せられ、マツリが気付いた時には、地に仰向けに押し付けられていた。
尻もちをついて倒された形で、マツリはぽかんと口を開けた。両肩の上に狐姫の両前足が乗り、長い鼻面がマツリの顔の前で牙をむく。
身の危険を感じて、マツリは狐姫を振り払おうと身をよじる。狐姫は圧倒的な力でそれをねじ伏せた。
「どうした、マツリ。母親の強さを見せぬか!」
「何を無茶言ってんだよ」
マツリの気持ちを代弁して、狐姫をマツリから退かせたのは、いつからいたのか、人間の姿をした黒狐だった。
いつものように黒い髪と黒い着流し、朱色の鞘が鮮やかな刀を腰に佩いて、金色の大狐を掴まえているその姿は惚れ惚れするほどに逞しくも美しい。ただし、にょっきりと頭に生えた狐の耳と、尻尾を除けば。
マツリはやっと話の分かる人が来てくれた、と安堵して身を起こした。
「離せ黒狐!女子同士の勝負に水を差すでない!」
「へいへい。お前もこのナリなら可愛げもあるのになぁ」
黒狐は腕に狐の姿の狐姫を抱いて、よしよし、と頭を撫でた。
「馬鹿にしおって!なんだその耳と尻尾は!可愛がられたがりが!」
「うっせーな。俺様だってこれでも頑張って変化してんだぜ?こうでもしないと、お前さんにおもちゃにされてばっかりだからな」
「まずはそなたから黒焦げにしてくれる!」
狐の姿の時とは打って変わって、飄々とした黒狐の態度に、狐姫は怒髪天を衝いてその腕から逃げ出すと、宙返りして地面に降り立った。一声吠えると、その姿が数倍に大きくなった。
黒狐は口端を上げて、右手を腰に佩いた朱色の鞘に添える。
「五十年前と同じと思うなよ?」
険悪な様子に、マツリは立ち上がって一歩退いた。その足音を皮切りに、狐姫が跳躍する。黒狐は刀を抜いて、黒狐の頭を噛み砕こうと迫った牙を食い止める。
「女だから年下だからと馬鹿にしおって!この変化下手!」
「俺様はお前らのおもちゃじゃねぇ!この異人もどき!」
拮抗した力を跳ねのけた後、互いにそう罵った後、「そなたこそ目が青いではないか、そなたには溝色がお似合いじゃ!」「溝色って何色だよ、ばーかばーか!」と続き、どんどん聞くに堪えない罵詈雑言になっていく。
マツリはいつでも逃げられるように赤を抱いた。赤はきょとん、として争う二人の姿を見つめていた。
黒狐の白刃が狐姫の体毛を掠り、金糸が空を舞った。このままでは怪我では済まないと思い、マツリは意を決して二人を止めようと息を吸った。
「お二人とも、おやめ下さいっ」
いつこちらに牙を剥くか分からない状態で彼らを止めようとするのは、マツリにはとても勇気のいることだった。しかし、二人はマツリの言葉を意に介することなく、争い続けた。
おろおろとしていると、騒ぎを聞きつけた狐さまがやってきて、争う二人を見るなり溜息をついた。
「狐さま、お二人を止めてください」
「放っておけ。あの二人は昔からああなのだ」
赤は狐さまの顔を見て、にこにこと笑った。狐さまはそんな赤の頭を優しく撫でて、マツリに二人から離れるようにと促した。
「ここにいては巻き添えを食うぞ」
大人しく引っ込もうとしたマツリの背を爆風が強く押した。赤を庇いながら狐さまの胸にぶつかるようにして飛び込むと、狐さまはマツリを抱きとめ、む、と二人を睥睨した。
狐さまが現れたことに気づいているのかいないのか、黒狐が青い目を怒りに燃やして咆哮した。
「だいたい俺様は、前々から気に入らなかったんだ。人間のためにいい子ぶって、縛り付けられて……白いのと一緒に居たいなら、神さまなんてもうやめちまえ!」
「――そなたこそ、少し粘着過ぎるのではないか?いくら裏切られたからと言って、もう二百年もたつというのに、いつまでも人間人間と、」
「うるせぇ!俺様の気持ちがお前にわかるか!」
「ならば、妾の気持ちだって、そなたにわかるはずもなかろう!妾が一体どんな気持ちで、神として人間たちを守っていたか……!」
狐姫は唸り声を上げた。
「妾は、人間に殺されたが、人間が好きじゃ。妾が許しておるというのに――白狐が許しておるというのに、そなたは何故許してやれないのじゃ。白狐が動けぬ間、そなたはあの娘と長い時間を二人きりで暮らしていたのではないのか。何故、カ――」
黒狐の姿が消えた。
「!」
瞬きの間だった。黒い羽根が舞ったかと思うと、羽根に紛れて白刃が狐姫の頭めがけて振り下ろされる。
マツリは悲鳴を上げそうになった。その後に起こる悲惨な光景を瞳に映したくなくて、蹲る。赤にも絶対に見せてはいけないと、さらに胸に押し込むように抱きすくめた。
しばしの無音の後、赤が小さく呻いた。恐る恐る視線を上げたマツリは、信じられない光景に瞠目した。
傍にいたはずの狐さまが、狐姫と黒狐の間に立っている。両腕を広げて、片方を狐姫の牙に、片方を黒狐の刀の刃に添えて、微動だにしない。
マツリは狐さまが怪我でもしたかと思ったが、それは無用の心配だった。
「いい加減にしろ」
美しい声でそう言われ、狐姫はむき出しだった牙をしまい、しゅん、と金色の両耳を伏せた。対照的に、黒狐はぎり、と歯ぎしりして狐さまに支配されている刀を放りだした。
「この、お人よしどもが!」
何度も聞いた言葉だった。それでもマツリには、その言葉が黒狐の魂の悲鳴のように聞こえた。
「黒――私に報告があって帰って来たのではないのか」
狐さまは黒狐の苛立ちに溢れた様子に気を留めず、そう問うた。黒狐は狐さまを見つめて沈黙したが、ち、と舌打ちして、精悍な顔に歪んだ笑みを見せた。
「南の空をようく見てみろ」
そう言って、黒狐は狐の姿に戻った。
振り向かずに鎮守の森へ消えていく黒狐を見る、狐さまの目がとても悲しげに見えたマツリは、声をかけようと口を開いた。
「き、」
「まさか、そんなっ!」
マツリの声は、狐姫の悲鳴によってかき消された。狐姫は上を見上げて体を大きく震わせていた。マツリも狐姫にならって空を見上げた。
煙だった。木々に隠れてはっきりとは確認できないが、薄い煙が、村の方向から上がっているのが見える。
「火事……?」
マツリが呟くと、狐さまの肩がびくりと揺れた。それに構わず、マツリは石段へと駆けだした。人の姿に戻った狐姫が、マツリの袖を掴んでそれを止めた。
「マツリ、何を考えておる!」
「火事は、火事は駄目なんです!お、伯母さんも、村の人も、火が苦手で、だから、怯えて逃げ出せないかもしれなくて――」
「だからと言ってそなたが行って何になる!」
「で、でも……!」
「あーう!」
マツリが反論しようとすると、腕の中の赤が存在を主張するかのように声を上げた。は、とマツリは正気に返る。
「そなた、赤を連れて煙の中に突っ込むつもりだったのか?」
「あ……」
「心配するでない。妾が火を消してくるからの」
マツリは信じられない気持で狐姫の顔を見上げた。
「妾を誰だと思うておる。水を司る清廉神社の狐姫とは妾のことじゃぞ?」
だから、泣くでない。狐姫は知らず流れていたマツリの涙を白く綺麗な指先で拭い、笑顔を見せた。
「狐姫の真髄、とくとその目で見るが良い」
ふわりと狐姫の体が宙に浮いた。
マツリは思わず、風に揺らめく狐姫の衣装を掴もうと手を伸ばした。しかし、それは空をつかんだ。
狐姫の姿は、青い空に溶けるように消えた。
赤がきょとん、と狐姫が消えた空を見つめる。狐姫の姿を探すようにきょろきょろと周りを見回し、姿がないのを確認すると、ふぇ、と声を上げた。
「わーぅ、ああああああ」
「あ、赤さま」
泣きわめく赤をあやそうとマツリが赤を揺らしていると、ぽつ、と赤の頬に水滴が落ちた。涙とは違うそれに、赤も気づいて空を見つめる。マツリは赤を抱きしめながら、空から落ちる涙を見上げた。
「……狐金」
小さく、狐さまが呟いた。マツリが狐さまを見ると、狐さまは目を細めて、顔に水滴を受けていた。
マツリにはそれが、狐さまが泣いているように見えた。
「あーう、ああー!」
見つけた。赤が嬉しそうに笑って、空へ向かって手を伸ばした。
―――――
黒い狐は岩の上に座って、顔から雨を浴びていた。
天を仰ぐ鼻先から濡れていく感触と目の中に飛び込む水滴が不快だったが、黒い狐は微動だにせずに、それを甘んじて受けていた。
ふと視線を感じて、目をそちらに向ける。そこには、この国の人間にしては珍しい、淡く茶色い髪をした少年が佇んでいた。
黒い狐と視線を交わした少年は、ふわりと穏やかに笑って、岩の上に登って来た。
「ねぇ、黒い狐さん」
黒い狐は逃げ出しもせずに、少年を無視して空を見上げた。
「神さまって、可哀そうだよね。こんなことのために、ずっと、縛り付けられて」
村から見えていた煙は消えていた。もともと大きな火ではなかったから、この雨ですぐに消火したのだろう。
「人の身勝手のせいで、いつも僕らは損をしてばかりだ。縛り付けられていることを幸福と思うなんて、獣の本能から逸脱していると思わない?」
まるで愛玩動物だ。そう低く言って、少年は同意を求めるように黒い狐の顔を見た。黒い狐はぴくりとも動かない。少年は気にせずに、にこにこと笑った。
「ねぇ、そろそろ僕とオトモダチにならない?」
黒い狐はふん、と鼻を鳴らした。少年は苦笑する。
「まったくもう。頑固者なんだから」
「人里に帰れ。――『人間』」
黒い狐が言葉を発したことが意外だったのか、少年は目を見開いた。しかし、すぐに笑みを浮かべる。
「良いほうに受け取っておくね」
少年は甘くそう言って、岩から降りて、人里へと帰っていった。