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狐に嫁入り  作者: すい
狐に嫁入り
3/20

代行者

  いらないものがある。この世にはそれが多すぎる。

 たとえば人間。野蛮に動物を追いかけまわし、木を切り倒して土地を奪っていく。己のためなら平気で他の人間を騙し、殺し、時には自ら死を選ぶ。

 たとえば人間びいきのどこかの神さん。祀りあげられて閉じ込められて、自由を奪われて打ち捨てられてなお、人間を愛することをやめない馬鹿な神さん。

 たとえば俺様。人間嫌いで神さん嫌いで、なのにいつまでたってもさよならできない未練がましさは、阿呆のようだと自分でも思う。

 いらないものばかりのこの世なら、屑かごに入れる屑は相当多い。

 いらないものを選別して、よりよい環境に身を置くために、身の回りを掃除するのは生きていくために必要なことだが、時としてそれができないお人よしというものが、いらないものと同じように多く存在する。

「しっかたねぇやつだなぁ」

 そんなお人よしの代表を、俺様は神さんと呼ぶ。

 ああ、やはり、この世はいらないものばかりだ。




―――――



 赤を背負ったまま、マツリは参道におい茂った草を抜いていた。狐さまは拝殿の前の黒い狐の像に寄りかかり、その様子をどこか面白そうに眺めている。

「どうして、今まで放っておいたんですか?」

 少しばかり非難を含んだマツリの言葉に、狐さまは何でもないことのように答えた。

「私には不便でないからだ」

 狐さまは宙に浮くことができるのだから、この言葉は少しも間違ってはいない。マツリは理不尽さを感じながら、黙々と草を引っこ抜いていった。

「赤をよこせ」

「……」

 マツリは聞こえていないふりをした。一向に手伝う気のない狐さまに目の前で遊ばれては、マツリとて心穏やかではいられない。

「私を無視するのか」

 言葉の中ににじみ出る怒りを感じ取ったマツリは、ため息をつきたくなるのを抑えて、身を起こした。

 赤を狐さまの腕に抱かせると、狐さまは満足そうに目を細めた。

 狐さまの神社で暮らし始めて七日。狐さまの無表情の中の感情の機微が、マツリにはようやくわかるようになってきた。

「あうー!」

 今日の赤は機嫌が悪い。狐さまの腕の中に渡るやいなや、いやいや、と身をよじって逃れようと暴れた。そんな赤を落とさないように支えながら、狐さまは少し落ち込んだように肩を落とした。

「赤は……私が嫌いか」

「う!」

 そうだ、と言わんばかりに狐さまをじとりと見やる赤と、その視線にさらに傷ついたらしい狐さまを、マツリはおろおろと交互に見やった。

「マツリ」

「は、はい!」

「私は本殿で昼寝する。しっかり赤の世話をしていろ」

 奪ったばかりの赤をマツリに突き返して、狐さまはとぼとぼと本殿へ帰っていった。

 マツリはその哀愁の漂う背中に憐みの視線をよこす。赤はマツリの腕に戻ったことで機嫌が直ったらしく、嬉しそうに笑っている。

「赤さま?あまり狐さまを苛めてはいけませんよ?」

「うう?」

 無垢な瞳に邪気などない。可愛らしい赤子は、本当にただ機嫌が悪かっただけのようだ。赤を溺愛している狐さまが気の毒だったが、それは赤子のすること。一人で立ち直っていただこうと、マツリは赤を背に負おうとした。

 黒いものが、腕の中の温もりとともに通り過ぎていく。ちゃり、と金属が擦り合う音がし、一瞬遅れて腕に走った軽い衝撃に驚いた。

「え……!」

 マツリの腕を蹴って、先ほどマツリが草を抜いた地面に軽やかに着地したのは、艶やかな黒い毛並みの狐だった。胴に絡まった鉛色の鎖がその存在の異質さを強調している。先程の金属の音はそれが擦れたものらしい。

「あ!」

 黒狐の口に、大切な赤子がくわえられてぶらぶらと揺れている。背に負うために巻きつけた襷をくわえられているために、苦しそうな様子はないが、大きな目を見開いてマツリに助けを求めていた。

「あうーあーうう!」

「あ、赤さま!」

 黒狐はマツリの顔を見ると、意地悪く青く光る目を細めて、赤をくわえたまま草の壁に身体をつっこんだ。

「待って!」

 マツリは自らも草をかき分けてその姿を追った。黒狐は神社の周りを覆う鎮守の森へ逃げていく。空を覆うほどの緑が視界を暗くし、獣たちが息を潜めるその森は、狐さまがけして入ってはならないと釘を刺した場所でもあった。

 狐さまを呼びに戻ろうかと一瞬迷った後、マツリはその森へ足を踏み入れる。今赤を見失えば、永遠に会えなくなってしまう気がした。




 昼間だというのに、森の中は夜のように暗かった。草や木が風をさえぎり、湿った空気を停滞させている。空を覆う木々の枝には無数の鴉がとまり、黒狐を追い掛けるマツリの姿を冷ややかに監視しているように見えた。

 足元を滑る蛇に怯え、蜘蛛の巣にかかりながら、マツリは時折見失いそうになる黒狐の姿を必死で追った。黒狐は複雑に絡み合う木々の根を軽々と飛び越え、森の奥へ奥へと逃げていく。

(駄目、追いつかない)

 ぬかるんだ土に足をとられて、マツリは草の上に転んだ。その際に擦り剥いた膝や腕を押さえつつ、慌てて立ち上がると、見失ったと思った黒狐が数歩離れたところでマツリを見ていた。

「っ……」

 捕まえようと手を伸ばしたが、黒狐はひらりと身を翻してすり抜けて行った。また少し離れて、マツリが追いかけてくるのを見ると走り出す。

(まるで、どこかに導かれているみたい)

 ぞ、と背筋が寒くなった。走ることで考えないようにしていた周囲の暗さと得体のしれない森の中に居るという事実が、マツリの臆病な心をあおる。

「ああ、やっとついた」

 どこからか声が聞こえた。マツリはびくりと肩を震わせた。声に気を取られている間に、黒狐はいずこかへ消えてしまった。

(嘘!赤さま!)

 黒狐の姿を探すと、少し進んだ先に開けた土地があることに気づいた。空を覆う木々によって洞窟のようになっているその空間は、マツリが狐さまの神社に初めて訪れたときに上った石段を思い出させた。

 開けた土地の中央にある苔むした岩の上に、黒狐がマツリのほうを向いて座っていた。揃った前足の下方、岩にもたれかかるようにして、赤がきょとんとした顔で草の上に座り込んでいた。

「赤さま!」

 マツリが駆け寄ると、赤はマツリの顔を見て顔を歪ませた。

「……ふぇ」

 マツリは地面に膝をつき、赤を抱き上げてその小さな体を胸に押し付けた。

「怖かったですね。もう大丈夫ですよ。マツリがおりますよ」

 赤は泣き声もあげずに、マツリにすがりついた。傷一つついていない様子に安堵して、マツリはため息をひとつつく。

「安心するのはちょいと早いぜ?」

 先程の声を同じ声が頭上で聞こえて、マツリは恐る恐る顔を上げた。

 顔の横に草履をはいた足が見えた。マツリは肝を冷やしながら、赤を抱く腕に力を込めて、その先を見ようと顔を仰向かせる。

「男前登場!てな」

 黒く長い髪に青い目、何故か鎖が絡んだ黒い着物に身を包んだ男が、先ほど黒狐が座っていた場所に片膝を立てて座っていた。

 狐さまとは別種の精悍な美しさを持つ顔は、不敵に歪められている。その腰に佩いた朱色の鞘を見て、マツリは戦慄した。

(いつの間に!)

「まぁ、待て」

 逃げ出そうと立ち上がろうとしたマツリの肩に、鞘がのってそれを止めた。立てた片膝に頬杖をついて、片手でマツリを押し込むその表情は笑みを浮かべていたが、狐さまの無表情以上に冷酷に見えた。

「野盗の類じゃねぇよ。ちょいと俺様のご高説を聞いていかねぇか」

「……あなた、誰ですか」

 にや、と男は笑ってマツリを見下ろした。その笑みに何か含むものを感じたマツリは、赤を抱く腕の力をさらに強める。

「そんなに力を入れちゃぁ、赤子が窒息するぜ?」

「な、何のつもりですか。私はお金なんて持ってないです」

「だから盗賊じゃねぇって……この耳が見えねぇの?俺様はさっきの狐だよ」

 頬杖をついていた片手で男は己の頭を撫でる。黒髪の隙間から同色の三角形の耳がその存在を主張していた。

「……流行りの装飾品か何かかと」

「こんなもんが流行るかよ」

 呆れたように男――黒狐は胡乱な視線をマツリに送った。

「まぁいい。俺様は黒狐。狐の神社の神さんの使いで、同居人だ」

「コッコ、さん」

「あうー」

 鶏のような名前だと思ったが、赤と己の命のためにマツリは口をつぐんだ。

「辛気くせぇ神さんと一緒に居るのが嫌で家出してたんだが、真面目な俺様は自分のお役目が気になってな。何日か前に帰ってきたら――人間が俺様んちで暮らしてやがる」

「あ、はい。お世話になっています」

「………。俺様はな、人間が大っ嫌ぇなんだ。家に蚤がくっついてちゃぁ、おちおち寝ていられねぇだろう?掃除をしなくちゃぁな」

 ぐ、と肩を押さえる鞘の力が強くなった。走った痛みに眉を顰めるマツリの顔と不安げな赤を見て、黒狐は鼻をならす。

「でも俺様は腐っても神さんの使いだ。人間を殺していいはずがない。だからお前さんたち、自主的に消えてくんないかな?」

 マツリの肩を支点にして支えられた鞘に手を添え、黒狐はその上に顎を乗せた。その拍子に黒狐に絡んだ鎖が鳴った。より体重がかかり、鞘はマツリの肩にくい込んだ。

「別に死ねと言ってるんじゃねぇ。大人しく村に帰ればそれでいい」

「っ……」

「お前さんの優しい伯母さんなら、赤子の一人くらい引き取ってくれるだろ?」

「なんで、伯母さんのこと……っ」

 黒狐は片手で宙を撫でた。撫でた先から、黒い炎が噴き出て辺りの闇を濃くした。闇の中に見知った顔が浮かんだのを見て、マツリは目を見開く。

「狐火ってのは便利だろ?」



―――――



 上っても、上っても、まるで進んだ気がしない。ミノリは息を切らして、石段の上に蹲った。

「ミノリ、諦めよう。今日で八日目――悲しいけれど、マツリはもう、……」

「何を言ってるのさ!あたしは諦めないよ!子どもを見捨てるなんざ……マツリを捨てるなんざ、あたしは許さないよ!あたしの、あたしの子どもなんだ!」

 強い口調で返したものの、滲んだ涙はひとりでに流れる。夫はその細い体を支えて、一向に遠ざからない鳥居を振り返って見下ろした。そうして、また妻を思いやる。

「とりあえず、休もう。もう、諦めろとは言わないから。――マツリは、僕の子でもあるんだから」

 ミノリはその言葉で、わ、と声を上げて泣いた。

 無限の石段の先で、求める子どもが待っている。無力な自分が悲しかった。



―――――



 マツリは闇の中でむせび泣く伯母を呆然と眺めた。

「可哀そうになぁ。早く帰ってやらないと。そう思うだろ?」

 意地悪く、黒狐が笑う。

「これは幻影じゃない。現実に今、石段で起こっていることだ。神さんはお前さんと赤子を逃がすまいと、無限の石段を参道と鳥居の間に置いたのさ」

「狐さま、が……」

「優しそうに見えて、あいつは結構な悪だぜ?神さんと言っても、もとは狐の妖怪だ」

 その言葉にマツリは衝撃を受けた。

「お前さん、勘違いしてねぇか?今は優しくたって、いい飯食わせて太らせたらパクリ……かもしれねぇぜ?ここらで逃げたほうがいいんじゃねぇか?」

「そ、そんなこと、狐さまはしません」

「なんでそんなことが言える?お前さんは人間で、あいつは妖怪かぶれの神さんだ。生きる時間も考え方もまるで違う。それに……」

 黒狐はマツリの腕の中の赤を見た。

「その赤子……人間なら人間のもとで育つほうがそいつのためじゃないのか?」

「うーう?」

 赤は視線を向けられても意味がわからないのか、マツリに助けを求めるように見上げた。

「それ、は……」

「なぁ、わかんだろ?お前ら、場違いなんだよ。人里に戻ったほうが幸せになれるぜ?」

「………」

「特別に神さんの目を盗んで道をつくってやるからよ。それで帰れ」

 マツリは返す言葉が見つからなかった。

(伯母さんが悲しんでる。石段を細工して伯母さんに苦行を強いているのは狐さまで、狐さまはもとは妖怪で、あたしや赤さまとは違う時間を生きるお方で、あたしたちを神社に閉じ込めていて、)

 赤がマツリの顔を凝視している。マツリはその無垢な視線を見つめ返した。

(赤さまの未来は、人間の中でつくられるべきなんだろうか。狐さまと、お別れして?)

 マツリは何を信じていいのか分からなくなった。マツリの不安が分かったのか、赤は大きく顔を歪めた。

「ふぇ、え」

「赤さま」

「ふぇええ、ああああ、あああああん」

 赤は森中に聞こえるのではないかという大音量で泣いた。途端、黒狐が鞘を放り出して、岩の上に立ちあがった。

「まずい!あいつが……白いのが来る!」

「え?」

 風が唸り、木々が悲鳴を上げた。空を覆っていた鴉たちが一斉に飛び立ち、姿を黒い羽根に変えて黒狐の肩に降りてきた。羽根は連なり、羽毛の羽織となって黒狐の肩を覆った。

「俺の鴉を消し飛ばしやがった!」

 黒狐は舌打ちした。マツリは何が起こったのか理解できず、なおも泣きわめく赤を宥めようと四苦八苦していた。

「赤さま、大丈夫です。泣かないで」

「ふわああぁん、わあああああ」

 その時、冷たい風とともに、木々の奥から白い大狐が現れた。大狐はどこかで見たような薄紫色の布を纏っていて、金色の瞳の下瞼の縁には、これまた見覚えのある模様があった。

「私の子を泣かせたのはお前か。黒狐」

 大狐の口から聞こえたのは、聞き慣れた狐さまの声だった。その声に反応して、赤が泣くのをやめてその姿を探すような仕草をした。大狐はそんな赤に近づき、大きく首を振った。

 一瞬大狐の姿が霞んだかと思うと、次の瞬間にそこに居たのは、いつも通り白い髪、白い着物を着た、美しい容姿の狐さまだった。その姿を確認して、赤はその腕に抱かれようと、マツリの腕の中でもがいた。

「あーあ!ううー!」

「………」

 狐さまは赤から離れ、マツリと赤を守るように背にかばって岩の上の黒狐を見やった。

「下手糞な変化でマツリを惑わしたか。久しぶりに帰って来たなり、一体何のつもりだ」

「なんのつもりだぁ?それは俺様が聞きたいね!人間なんか住まわせやがって。俺様が人間嫌いなの知ってて、嫌がらせか!」

「あの神社は私のものだ。誰を住まわせようが私の勝手だろう」

「この人間びいき!」

 黒狐は先ほどマツリ相手に見せた余裕の態度を捨てて、狐さまに咬みつかんばかりに吠えたてた。

「お前が小娘とガキを逃がすまいとしてやったことを教えてやったぞ。お前が元は残忍な妖怪だったことも!こいつらは人里に戻りたいんだとよ!人里に戻ったほうが幸せなんだと、俺様が教えてやったんだ!」

 狐さまが黒狐の言葉を受けて、マツリに視線を移した。マツリは戸惑って、下を向く。

「マツリ。本当か。聞いたのか」

「………聞きました」

 狐さまはしばし黙って、口を開いた。

「すまなかった」

「!」

 マツリは勢いよく顔を上げた。狐さまは相も変わらず無表情で、感情を読み取るのが難しい。けれどマツリにははっきりと、狐さまの想いが読み取れた。

「帰りたいならば帰ればいい。この上ここに留まってくれとは言わん。やはり――人と交わって生きるなど、無理だったのだ」

 狐さまの顔に浮かぶのは、寂しいという感情だった。

「あう、ああー!」

 赤が切なげに、狐さまに手を伸ばした。狐さまはその手を取らず、背を向ける。

「赤を頼む」

「ああああん、うああああ!」

 赤が再び泣き出した。狐さまにこちらを向いてもらおうと必死で声を張り上げる。

「狐さま――赤さま……」

 泣き続ける赤を抱きしめて、マツリは立ち上がった。鞘で押さえつけられていた肩がわずかに痛んだが、それを表情には出さない。

「あたし、帰りません」

 振り向いた狐さまの目が大きく開かれた。狐さまが大きく表情を変えるのを、マツリは初めて見た。

「狐さまが悪いお方には、あたしは到底思えません。伯母さんには、悪いことをするけれど……」

 赤が泣き疲れて小さなしゃっくりをした。親を求めてやまない赤子を、どうして引き離せられるだろう。

「あたしたちは、狐さまのお傍に居たいです」

「……マツリ」

 ぼそりと、狐さまはマツリの名を呼んだ。その声がわずかに震えているのがわかって、マツリは切なくなる。

「なんだよそれ!」

 黒狐が岩から飛び降りた。姿が闇に溶けて、狐の本性を現した。たた、と助走をつけて、高く跳躍する。

 肉球がマツリの顔面に食い込むのを阻止したのは、狐さまだった。

「なんだよなんだよ!俺様が悪者みたいじゃねぇかよ!折角逃がしてやろうと思ったのに!」

「実際悪者だろう。まったく余計な事ばかりする使いだな」

 狐さまは黒狐の首根っこを掴んで持ち上げた。じたばたと暴れる黒狐を呆れた眼差しで見やる。

「だってお前!俺様はお前の代わりにお前の身辺を整えるのが役目なんだ!人間なんか傍に置いてたって、また騙されるだけだ!こんなやつらいらないやつだ!」

「あたしも赤さまも、狐さまを騙したりなんかしません」

 黒狐が抵抗するのをやめて、ふん、と鼻を鳴らす。

「人間は嘘をつくのがうまいんだ。信じられるか!」

「それにしたってお前。赤子まで疑う必要もあるまい」

「赤子だって成長したら人間なんだ!お人よしめ!」

 耳を尖らせてふんふんと怒る黒狐は、人間の姿の時よりもずっと可愛らしい。マツリは頬を赤らめて、黒狐に手を伸ばした。

「コッコさん……」

「な、なんだ小娘」

「マツリです。あの、頭を撫で撫でしてもいいですか?」

「あ、頭をなでなで?」

 返事を聞く前に、マツリは黒狐の頭に触れた。黒狐は驚いて暴れ、狐さまの手から抜け出した。

「お、おぼえてろ、バカ娘!」

 捨て台詞を残して、黒狐は茂みの中に逃げ出した。黒狐の気配が完全になくなると、狐さまがふうと息を吐いた。

「騒がしい馬鹿ですまない、マツリ」

「え……い、いいえ」

「あうー……」

 赤がじ、と狐さまを見ながら声を上げた。すん、と鼻をすすり、小さな手のひらを狐さまに向け、抱いてくれと言わんばかりに身を乗り出す。

「………」

 狐さまはそんな赤に触れるのを躊躇い、硬直した。

「?」

「ああう?」

「………赤は、私のことが嫌いなのだろう」

 まだ立ち直っていなかったらしい。マツリはおかしくなって、噴き出すのを堪えられなかった。じろりと睨む狐さまに、マツリは赤を差し出す。

「ねぇ、赤さま。赤さまは狐さまのことが大好きですよね?」

 狐さまが瞬いた。赤はきょとんとして、狐さまをじ、と大きな瞳で見つめた。

「あ、赤……」

 狐さまが、恐る恐る、声を出した。

「赤は、私のことが好きか?」

「だぁ!」

 赤は花咲くような笑顔を浮かべた。狐さまは一瞬固まって、とても、とても嬉しそうに、赤を受け取って抱き上げた。優しげな微笑みを見て、マツリは胸が高鳴り、心が温かくなるのを感じた。

(ああ、やっぱり、ここがいい。ここがあたしの、居場所だ)




 社務所に帰ると、マツリは狐さまに頼んで、手紙の代筆をしてもらった。マツリは字を読むことができないが、伯母さんの夫は読むことができたはずだ。

 家に帰ることはできないこと。それでも自分は幸せであることを短くしたためてもらって、マツリは自らの手で手紙を石段の一番下の段に置いた。

 狐さまの置いた無限の石段は、置いたままにしてもらった。里帰りをしたらどうだと言われたが、マツリは丁重に断った。一度村に帰ってしまったら、狐さまの神社での生活が夢になって消えてしまいそうで怖かった。



―――――




 夢の中で、マツリは石段を上ろうとしていた。洞窟のような薄闇の中を進むのは、ここ数日ですっかり日課となってしまった。

 すると、石段を軽やかに下ってくる黒い狐と出会った。狐はもの言いたげにこちらを見ると、地面をふんふんと嗅ぎだした。

 狐が匂いを嗅いでいたのは、上質な紙でできた手紙だった。それを拾い、中を検めてみる。隣にいた夫が驚きの声を上げた。


 求めるものはすでにこの手をすり抜けて行ったらしい。

 胸に小さな寂しさを抱えながら、マツリは微笑んだ。傍に居たはずの狐は、すでにいずこかへと消えていた。
















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