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狐に嫁入り  作者: すい
お守り狐太刀
19/20

狐の涙

新月であった。

 こんな日は嫌でも思い出す。遠い日、己がカグヤによって封印された日のことを。

「はふー」

 社務所の奥の間で、赤の寝顔を見ながら、狐さまは僅かに微笑んだ。

 封印されてから目覚めた時、カグヤはもうこの世のものではなかった。納得できずに、黒狐に散々文句を言って、ついには家出されたのを覚えている。

 家出が何度か続いて、問い詰めた時、ようやく狐さまは黒狐の異変に気付いた。

(黒……)

 最近、黒狐の様子がおかしいことには気づいていた。しかし、狐さまには何が違うのかがよくわからなかった。

 尋ねてみても、賢しく話を反らされて終わりだ。

「あう」

 ぱちり、と赤の目が開いた。

「赤。まだ朝ではない」

「あーあ。あうー」

 ばたばた、と手足を動かして、赤は何かを狐さまに訴えていた。狐さまは赤を腕に抱いて、立ち上がる。

「外に行きたいのか?」

「あぅ!」

 元気な返事を受けて、狐さまは戸口から外に出た。

「外は星の明かりしかない。暗いぞ」

「ああぁ」

 赤の視線は、拝殿を通り過ぎて、まっすぐに本殿に向けられていた。本殿には御神体である封じの勾玉が安置されている。狐さまは狐姫の千里鏡が奪われたことを思い出し、僅かに警戒した。

「誰か、いるのか?」

「う」

 気配は感じない。だが、赤は確信を持って狐さまに訴えた。

「だぁ」

「わかった。ここで待っていろ」

「ぶふ!」

「お前も行くと言うのか。危険かもしれないぞ」

「だーう!」

「……そう言って、天狗の時も強請ったんだな」

「むぅ」

 赤は狐さまの着物を握りしめて離さない。狐さまは諦めて、赤を抱いたまま本殿へ向かった。

「お前は不思議な赤子だな」

 本殿に向かうわずかな距離で、狐さまは赤に語りかけた。

「お前を見つけてから、いいことばかり起きている気がする」

「だふ」

「……」

 狐さまは足を止めて、赤を己の目線まで持ち上げた。

「お前が何者でも、私はお前を愛している」

 赤は笑った。きゃ、きゃ、と声を上げる。狐さまの言葉を理解しているのだろう。狐さまは目を笑みの形に細めた。

「ほんっとに馬鹿だなぁ、お前さんは」

 狐さまは赤を懐に収めて、本殿のほうから歩み寄って来た黒狐を見た。黒狐はいつも通りの下手糞な変化で、人間の姿になっていた。

 黒い三角耳を見て、いつもなら楽しげに声を上げる赤は、黒狐の顔をじっと見るだけで何も言わない。狐さまは静かになった赤を抱きしめた。

「何をしている。黒」

「これ、なーんだ」

 黒狐はわざとおどけたように、左手に持っていたものを見せつけた。

 昔は首飾りとして、狐さまの腕に巻きついていたもの。封じの勾玉が、黒狐の手のひらの上に、ころんと存在していた。

「……。――黒、」

「俺様はこれを盗み出す」

 黒狐は宣言して、狐さまに向かって挑戦的な微笑みを浮かべた。

「三つの神具を集めたら、この馬鹿げた日々も終わりだ」

 その時、まるで蠅が耳元で飛んでいるような、不快な音が響いた。黒狐は腰の朱色の鞘を握って、忌々しげに舌打ちをする。

「これともオサラバしてやる。もうたくさんだ」

「やめろ。それを捨てるな」

「捨てねぇよ。願いが叶うまではな」

 赤が身じろいだ。黒狐の瞳が危険な光を孕んだのを見て、狐さまは赤の姿を黒狐から隠すように抱き込んだ。黒狐はその様子を見て鼻で笑った。

「今は何もしねぇ。どうせ、すぐに死ぬんだからな」

「どういうことだ」

「俺様の願い事はこうだ。――人間なんぞ死に絶えろ」

 さぁ、と狐さまは、己の血の気が引いていくのを感じた。

「千里鏡も、お前が?」

「いや。馬鹿な狸の仕業だ。退魔刀と勾玉を持って狸と落ち合い、殺して奪い取る」

 黒狐の目はどこまでも冷酷な光を帯びていた。ぞくりと身が泡立つのを感じて、狐さまはそれに抗うべく、瞳を厳しくする。

「カグヤはそんなことをさせるために、退魔刀をお前に授けたのではない」

 黒狐の耳がピクリと動いた。

「俺様は無理矢理押し付けられたんだ。どう使おうが俺様の勝手だ」

「……。どうしてしまったのだ、黒」

「俺様を責めるのか?元はと言えば人間が悪いんだろう。狸なんかに踊らされて。狐姫を担ぎあげて。俺様からお前さんも狐金も、自由まで奪っていった」

 狐さまは首を横に振った。

「私は間違っていたのだ。お前まで私と同じような道に行くことはない」

「お前さんは間違ってなんかなかった。お前さんは後もう一歩のところでカグヤに邪魔された。呪われたのさ」

「何故……」

 狐さまは肩を震わせた。赤が心配そうに見上げてくるのもかまわず、めったに出さない大きな声を出した。

「何故、わからない!何故、受け入れようとしない!カグヤが望み、赤がもたらしてくれた今の、この時の幸福を、私は失いたくないのだ!」

「今は幸せでも、いつかは裏切られるんだ!」

 黒狐も叫んだ。黒炎が怒りに呼応して、ゆらゆらと神社の敷地内に浮かび上がった。

「もっと考えろよ。共に生きよう、共に逝こうと言ったって、人間は俺様たちよりもはるかに早く死んじまう。お前さん、それに耐えられるのか。惚れて愛して、残されて!お前さんは知らないだろう。カグヤがどんな風に老いて、死んでいったか!」

 狐さまは言葉を失くした。

「マツリと赤が老いさらばえて死んだあと、お前さんはそれでも幸せだったと言えるのか!」

 狐さまは初めて、黒狐の本当の気持ちを知った気がした。彼が何に怒り、何に怯え、何を訴えようとしているのか。今更ながら、狐さまは思い知った。

 そうして、気付いた。己が常に感じていた不安――黒狐と同じく、狐さまも、まったく同じことを、無意識に危惧していた。

(残される。置いて行くのはいつも、人間)

 残されて、その時に果たして幸せだったと言えるのか。狐さまにはわからなかった。

「ほらな。お前さんには覚悟がない。だから俺様が、いらないものを排除するんだ。お前さんが悩まないように。お前さんが静かに暮らせるように。せめて俺様のできる範囲で……だが、もうたくさんだ!俺様は願いを叶えて、人からお前たちを解放する!」

「黒、」

「だからもう、ただの狐に戻ろう。森で静かに暮らすんだ。そうすれば、もう何も、不安に感じることなんてないんだ」

「……」

 黒狐の言葉は、狐さまの胸に突き刺さった。その思想は、かつて妖怪であった時の狐さまの思想と完全に重なっていた。

 狐さまは何を言うべきか迷った。

(どうしたらいい。何をすれば。――私は一体どうしたいんだ)

「だぁ!」

 突然、赤が大きな声を上げた。狐さまは驚いて、腕の中の赤を見た。

「うーう、あう!」

 しっかりしろ、と叱咤しているようだった。狐さまは赤の必死の様子を見て、頭が急速に冷めていくのを感じていた。

「未来のことを気にしていて、何になる」

「……あ?」

「これから何が起こるのかもわからないのに、恐れる必要がどこにある」

 黒狐は眉を寄せた。狐さまはまっすぐに黒狐の目を見て、己の偽らざる思いを言葉に乗せた。

「確信はできない。マツリと赤が死んだあと、私は寂しさに狂ってしまうかもしれない。――だが、それでもいい」

「……なんだと?」

「この幸せを手放すくらいなら、未来の己のことなどどうでもいい!」

 黒狐は目を見張った。口をわななかせて、震える声を出す。

「馬鹿、じゃねぇのか」

「馬鹿だ。だが、それでいい。黒、私はもう、ただの狐に戻る気はない。狐金も同じ気持ちのはずだ」

 黒狐は一歩後ろに下がった。左手に勾玉を握りしめたまま、右手は腰の退魔刀に伸びる。その目は虚ろで、傷ついているようにも見えた。

「なんだよ。やっぱり、俺様が悪者か。独り善がりの道化だって?」

「わかってくれ。黒。お前も、今を受け入れてくれ」

「五月蠅ぇ!」

 黒狐は鞘を抜きはらって、銀色に輝く退魔刀を構えた。

「お前らは、人間に呪われてる。そうだ。人間のせいだ!」

「黒!」

 黒狐の叫びに呼応して、黒い狐火が広がっていく。村の方角に赤い光が見え、狐さまは焦燥に駆られた。

「黒、狐火を収めろ」

「嫌だ。――始めからこうすればよかったんだ。神具に頼らなくても、俺様が人里なんて焼き払ってやる」

 頑なに言って、黒狐は退魔刀を振りかざした。

「ガキを渡せ!俺様がその呪い、断ち切ってやる!」

「ふざけるな!」

 赤に殺気が放たれ、狐さまは怒髪天を衝いて怒鳴りつけた。

 退魔刀が狐さまを襲う。狐さまは赤を庇って、それを受け止めようと腕をかざす。

「あぅあ―――!」

「!」

 赤が叫ぶと同時に、朱色の光が辺りを包んだ。

 さらり、と赤い何かが狐さまの視界を遮る。

 白い腕が、狐さまを庇うように広げられた。

 何が起こったのか、わからなかった。

 狐さまの頭が、その現象を理解するために、過去の情景を繰っていく。

 赤い髪。白い肌。巫女狐たちの女房装束とは似ても似つかない、正式な、神気を帯びて輝く巫女装束。

「カ、」

 狐さまが名を呼ぶ前に、幻影は一瞬狐さまを振り返って微笑んだ。

『白狐さま』

「おま、え、」

『その子をよろしくお願いします』

 幻影は一言そう言って、消えた。

 夢を見たかのようだった。しばし、狐さまは呆然としてその場に立っていた。

「……くそっ」

 黒狐がそう言って、地に膝をついたので、狐さまはやっと正気を取り戻した。

「今のは――」

 狐さまの言葉は、何かが割れる音によって遮られた。

 見ると、黒狐が勾玉に退魔刀を突きたて、それを破壊していた。

「行けよ」

 黒狐の言葉の意味を考える狐さまを、黒狐は睨みつけた。

「行けよ。お前だけは自由だ。助けに行きたいんだろ」

 は、と目を見張って、狐さまはその意味を理解した。

「黒……」

「なんだよ。早く行けって」

「赤を頼む」

 虚をつかれたように、黒狐は瞬きを繰り返す。赤は先ほどとは一転して、嬉しげに笑った。

「だぁ、きゃ、きゃ」

「黒、赤はな、お前のことが好きなのだ」

「………」

 黒狐は黙って、差し出された赤を受け取った。赤は身じろいで、喜びを全身で表現する。

「あーう!うう」

 赤を抱く、黒狐の肩が震えた。

 狐さまはそれ以上何も言わず、踵を返した。

 参道を駆け、石段を降り、鳥居をくぐった狐さまは、久方ぶりの外の空気を味わう暇もなく、村へ急いだ。

 村では、そこかしこで炎が上がっていた。二百年前の己の所業を思い出し、それを苦く思いながら、狐さまはマツリの姿を探した。

「マツリ、どこだ!マツリ!」

 狐さまは叫びながら、煙がもうもうと立ちこむ村を走った。

(まだ早い。まだ私を置いていくな。マツリ)

 焼けている家はいくつもあり、煙のせいでマツリの気配も追うことはできない。

「おい、マツリはどこだ。どの家だ!」

 逃げ惑う村人の一人を捕まえて、狐さまは語気荒く問う。村人は狐さまの異様な美しさに驚いた後、一つの家を指さした。

「ミノリさんとこの娘かい?あ、あれだ。あの家だ。まだ誰も出てきてない、あ、兄さん!」

 村人が言い終える前に、狐さまは駆け出していた。

「マツリ!」

 家の前に立って、感覚を研ぎ澄ます。間違いない。マツリの気配と、それに近い人間の気配がする。焼け死んでいてもおかしくないほどに燃えている家の中で、奇跡的に生きている気配がした。

 狐さまは集中して、手のひらを燃え盛る炎に向けた。消えろ、と念じる。炎は揺らめいて、勢いをなくす。しかし、さすが黒狐の放った狐火が起こした炎だと、狐さまは苦々しく思った。なかなか消えない炎に、しびれを切らして、狐さまは未だ燃えている家の中に飛び込んだ。

(マツリ、どこだ)

 この煙では返事など期待できない。狐さまは弱まった炎をかき分けて、家の中を探した。

「マツ、」

 その時、奥の間の一角の天井が崩れて落ちた。その下から小さな悲鳴が聞こえて、狐さまは青ざめる。

「マツリっ?」

 燃え崩れた木材を持ち上げると、大きな釜のようなものが現れた。

「……白い狐さん?」

 釜が喋ったので、狐さまは状況も忘れて面食らった。

「な、釜が、」

「お願い。僕を外に運んで。……僕の力じゃ、こうして皆を護ることで精一杯なんだ」

 お願い、と呟いて、釜は沈黙した。狐さまは釜の中に人の気配を感じ、確信した。

「今、助ける」

 狐さまは釜に手を触れずに、持ち上げた。そのまま外に出して、地に下ろす。

「外だぞ。釜」

「良かった……」

 釜は呟いて、輪郭を蕩けさせた。釜の姿が見覚えのある少年の姿に変わり、微笑んだ。

 釜のあったところには、マツリと、見知らぬ男女と子どもが横たわっていた。狐さまは迷わずマツリを抱き起し、頬を叩いた。

「マツリ。マツリ、目を覚ませ!」

「………。う……」

 マツリは煤けた顔を歪ませて、僅かに瞼を上げた。

「きつね、さま……?」

「ああ、私だ」

「ゆめ、ですね。あたし、しぬんだ」

「死んでいない!」

 狐さまは声を荒げた。マツリは驚いて、完全に意識を覚醒させた。

「狐さま、どうして。伯母さんと伯父さんは、てっちゃんは、」

「一緒に居た者たちなら無事だ。安心しろ」

 マツリは涙を滲ませた。

「よか、よかった」

「馬鹿者。私の台詞だ」

 狐さまはそう言って、マツリの体を痛いほどに抱きしめた。

 少年がその様子を見やって、微笑む。ふらり、と身体が傾いだ。

「サリ!」

 少年の身体を支えたのは、火事場に相応しくない、姫装束の狐姫だった。

「サリ、しっかりしろ。無茶しおって!」

「狐姫ちゃん……」

「ひどい火傷じゃ。はよう横になれ!」

 茶狸は狐姫の腕から逃れて、地に腰を下ろした。懐から千里鏡を取り出し、彼女に差し出す。

「サリ……」

「ごめんね。狐姫ちゃん。許してもらえないと思うけど――返す。だから、雨を降らせて。村を救ってよ、神さま」

「………」

 狐さまとマツリはその様子を見守っていた。狐姫は茶狸の前に跪き、千里鏡を受け取ると、ぎゅう、と彼の体を抱きしめた。

「き、狐姫ちゃん」

「良かった」

 狐姫が呟いた。

「そなたも、――……そなたが無事で、良かった……」

 それを聞いて、茶狸の顔が泣きそうに歪んだ。

 狐姫は立ち上がって、千里鏡を空に掲げた。

 狐姫の身体が夜空に溶けていく。

「これぞ、狐姫の真髄じゃ!」

 宣言と同時に、炎をかき消す大雨が降りだした。

―――――

 雨が、狐の社にも降り注いだ。

 腕の中でうとうととしている赤を、雨が当たらないように隠して、黒狐は御神木の前に立った。

「わかってたんだ」

 黒狐は、ぼそりと呟いた。なんだなんだと、赤が黒狐の懐の中から顔を出す。御神木の枝葉に助けられ、雨粒は彼らには降り注がない。

「中途半端な俺様の存在を確定しようとして、あいつは退魔刀で俺を縛り付けた。そうすれば、消えることはないから。あいつは、俺様を白いののもとにずっといられるようにしてくれたんだ」

「だー」

 黒狐は赤の赤髪を撫でた。

「それを裏切ったと言ったのは、俺様が、俺様の中の恐怖を隠すためだ」

 赤は大きな瞳を黒狐に向けて、微動だにしない。

「もう二度と、あんな思いはしたくなかった。残されたくなかった」

 黒狐は赤の身体を抱きしめた。図らずも、狐さまがマツリに、狐姫が茶狸に、そうしたように。

「ごめんな。怖かったろう。お前さんはなんにも悪くねぇのにな」

「うーう」

「さっき、あいつ、俺様になんて言ったと思う?」

「う?」

「あんまり白いのやお前さんを苛めるな、だってよ」

 黒狐は久方、誰にも見せていないような柔らかな微笑みを、赤に向けた。赤は嬉しそうに笑い返す。

「かなわねぇな。いつまでたっても。一年たっても、十年たっても、あいつが死んでも。俺様はいつも、あいつには勝てないんだな」

「だぁ」

 赤は黒狐の胸にすり寄った。黒狐はそれに笑って、御神木を見上げた。

 不安は尽きない。けれど、今はそれでいいのだと。

 初めて黒狐は思い、少しだけ、涙をこぼした。


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