狐の涙
新月であった。
こんな日は嫌でも思い出す。遠い日、己がカグヤによって封印された日のことを。
「はふー」
社務所の奥の間で、赤の寝顔を見ながら、狐さまは僅かに微笑んだ。
封印されてから目覚めた時、カグヤはもうこの世のものではなかった。納得できずに、黒狐に散々文句を言って、ついには家出されたのを覚えている。
家出が何度か続いて、問い詰めた時、ようやく狐さまは黒狐の異変に気付いた。
(黒……)
最近、黒狐の様子がおかしいことには気づいていた。しかし、狐さまには何が違うのかがよくわからなかった。
尋ねてみても、賢しく話を反らされて終わりだ。
「あう」
ぱちり、と赤の目が開いた。
「赤。まだ朝ではない」
「あーあ。あうー」
ばたばた、と手足を動かして、赤は何かを狐さまに訴えていた。狐さまは赤を腕に抱いて、立ち上がる。
「外に行きたいのか?」
「あぅ!」
元気な返事を受けて、狐さまは戸口から外に出た。
「外は星の明かりしかない。暗いぞ」
「ああぁ」
赤の視線は、拝殿を通り過ぎて、まっすぐに本殿に向けられていた。本殿には御神体である封じの勾玉が安置されている。狐さまは狐姫の千里鏡が奪われたことを思い出し、僅かに警戒した。
「誰か、いるのか?」
「う」
気配は感じない。だが、赤は確信を持って狐さまに訴えた。
「だぁ」
「わかった。ここで待っていろ」
「ぶふ!」
「お前も行くと言うのか。危険かもしれないぞ」
「だーう!」
「……そう言って、天狗の時も強請ったんだな」
「むぅ」
赤は狐さまの着物を握りしめて離さない。狐さまは諦めて、赤を抱いたまま本殿へ向かった。
「お前は不思議な赤子だな」
本殿に向かうわずかな距離で、狐さまは赤に語りかけた。
「お前を見つけてから、いいことばかり起きている気がする」
「だふ」
「……」
狐さまは足を止めて、赤を己の目線まで持ち上げた。
「お前が何者でも、私はお前を愛している」
赤は笑った。きゃ、きゃ、と声を上げる。狐さまの言葉を理解しているのだろう。狐さまは目を笑みの形に細めた。
「ほんっとに馬鹿だなぁ、お前さんは」
狐さまは赤を懐に収めて、本殿のほうから歩み寄って来た黒狐を見た。黒狐はいつも通りの下手糞な変化で、人間の姿になっていた。
黒い三角耳を見て、いつもなら楽しげに声を上げる赤は、黒狐の顔をじっと見るだけで何も言わない。狐さまは静かになった赤を抱きしめた。
「何をしている。黒」
「これ、なーんだ」
黒狐はわざとおどけたように、左手に持っていたものを見せつけた。
昔は首飾りとして、狐さまの腕に巻きついていたもの。封じの勾玉が、黒狐の手のひらの上に、ころんと存在していた。
「……。――黒、」
「俺様はこれを盗み出す」
黒狐は宣言して、狐さまに向かって挑戦的な微笑みを浮かべた。
「三つの神具を集めたら、この馬鹿げた日々も終わりだ」
その時、まるで蠅が耳元で飛んでいるような、不快な音が響いた。黒狐は腰の朱色の鞘を握って、忌々しげに舌打ちをする。
「これともオサラバしてやる。もうたくさんだ」
「やめろ。それを捨てるな」
「捨てねぇよ。願いが叶うまではな」
赤が身じろいだ。黒狐の瞳が危険な光を孕んだのを見て、狐さまは赤の姿を黒狐から隠すように抱き込んだ。黒狐はその様子を見て鼻で笑った。
「今は何もしねぇ。どうせ、すぐに死ぬんだからな」
「どういうことだ」
「俺様の願い事はこうだ。――人間なんぞ死に絶えろ」
さぁ、と狐さまは、己の血の気が引いていくのを感じた。
「千里鏡も、お前が?」
「いや。馬鹿な狸の仕業だ。退魔刀と勾玉を持って狸と落ち合い、殺して奪い取る」
黒狐の目はどこまでも冷酷な光を帯びていた。ぞくりと身が泡立つのを感じて、狐さまはそれに抗うべく、瞳を厳しくする。
「カグヤはそんなことをさせるために、退魔刀をお前に授けたのではない」
黒狐の耳がピクリと動いた。
「俺様は無理矢理押し付けられたんだ。どう使おうが俺様の勝手だ」
「……。どうしてしまったのだ、黒」
「俺様を責めるのか?元はと言えば人間が悪いんだろう。狸なんかに踊らされて。狐姫を担ぎあげて。俺様からお前さんも狐金も、自由まで奪っていった」
狐さまは首を横に振った。
「私は間違っていたのだ。お前まで私と同じような道に行くことはない」
「お前さんは間違ってなんかなかった。お前さんは後もう一歩のところでカグヤに邪魔された。呪われたのさ」
「何故……」
狐さまは肩を震わせた。赤が心配そうに見上げてくるのもかまわず、めったに出さない大きな声を出した。
「何故、わからない!何故、受け入れようとしない!カグヤが望み、赤がもたらしてくれた今の、この時の幸福を、私は失いたくないのだ!」
「今は幸せでも、いつかは裏切られるんだ!」
黒狐も叫んだ。黒炎が怒りに呼応して、ゆらゆらと神社の敷地内に浮かび上がった。
「もっと考えろよ。共に生きよう、共に逝こうと言ったって、人間は俺様たちよりもはるかに早く死んじまう。お前さん、それに耐えられるのか。惚れて愛して、残されて!お前さんは知らないだろう。カグヤがどんな風に老いて、死んでいったか!」
狐さまは言葉を失くした。
「マツリと赤が老いさらばえて死んだあと、お前さんはそれでも幸せだったと言えるのか!」
狐さまは初めて、黒狐の本当の気持ちを知った気がした。彼が何に怒り、何に怯え、何を訴えようとしているのか。今更ながら、狐さまは思い知った。
そうして、気付いた。己が常に感じていた不安――黒狐と同じく、狐さまも、まったく同じことを、無意識に危惧していた。
(残される。置いて行くのはいつも、人間)
残されて、その時に果たして幸せだったと言えるのか。狐さまにはわからなかった。
「ほらな。お前さんには覚悟がない。だから俺様が、いらないものを排除するんだ。お前さんが悩まないように。お前さんが静かに暮らせるように。せめて俺様のできる範囲で……だが、もうたくさんだ!俺様は願いを叶えて、人からお前たちを解放する!」
「黒、」
「だからもう、ただの狐に戻ろう。森で静かに暮らすんだ。そうすれば、もう何も、不安に感じることなんてないんだ」
「……」
黒狐の言葉は、狐さまの胸に突き刺さった。その思想は、かつて妖怪であった時の狐さまの思想と完全に重なっていた。
狐さまは何を言うべきか迷った。
(どうしたらいい。何をすれば。――私は一体どうしたいんだ)
「だぁ!」
突然、赤が大きな声を上げた。狐さまは驚いて、腕の中の赤を見た。
「うーう、あう!」
しっかりしろ、と叱咤しているようだった。狐さまは赤の必死の様子を見て、頭が急速に冷めていくのを感じていた。
「未来のことを気にしていて、何になる」
「……あ?」
「これから何が起こるのかもわからないのに、恐れる必要がどこにある」
黒狐は眉を寄せた。狐さまはまっすぐに黒狐の目を見て、己の偽らざる思いを言葉に乗せた。
「確信はできない。マツリと赤が死んだあと、私は寂しさに狂ってしまうかもしれない。――だが、それでもいい」
「……なんだと?」
「この幸せを手放すくらいなら、未来の己のことなどどうでもいい!」
黒狐は目を見張った。口をわななかせて、震える声を出す。
「馬鹿、じゃねぇのか」
「馬鹿だ。だが、それでいい。黒、私はもう、ただの狐に戻る気はない。狐金も同じ気持ちのはずだ」
黒狐は一歩後ろに下がった。左手に勾玉を握りしめたまま、右手は腰の退魔刀に伸びる。その目は虚ろで、傷ついているようにも見えた。
「なんだよ。やっぱり、俺様が悪者か。独り善がりの道化だって?」
「わかってくれ。黒。お前も、今を受け入れてくれ」
「五月蠅ぇ!」
黒狐は鞘を抜きはらって、銀色に輝く退魔刀を構えた。
「お前らは、人間に呪われてる。そうだ。人間のせいだ!」
「黒!」
黒狐の叫びに呼応して、黒い狐火が広がっていく。村の方角に赤い光が見え、狐さまは焦燥に駆られた。
「黒、狐火を収めろ」
「嫌だ。――始めからこうすればよかったんだ。神具に頼らなくても、俺様が人里なんて焼き払ってやる」
頑なに言って、黒狐は退魔刀を振りかざした。
「ガキを渡せ!俺様がその呪い、断ち切ってやる!」
「ふざけるな!」
赤に殺気が放たれ、狐さまは怒髪天を衝いて怒鳴りつけた。
退魔刀が狐さまを襲う。狐さまは赤を庇って、それを受け止めようと腕をかざす。
「あぅあ―――!」
「!」
赤が叫ぶと同時に、朱色の光が辺りを包んだ。
さらり、と赤い何かが狐さまの視界を遮る。
白い腕が、狐さまを庇うように広げられた。
何が起こったのか、わからなかった。
狐さまの頭が、その現象を理解するために、過去の情景を繰っていく。
赤い髪。白い肌。巫女狐たちの女房装束とは似ても似つかない、正式な、神気を帯びて輝く巫女装束。
「カ、」
狐さまが名を呼ぶ前に、幻影は一瞬狐さまを振り返って微笑んだ。
『白狐さま』
「おま、え、」
『その子をよろしくお願いします』
幻影は一言そう言って、消えた。
夢を見たかのようだった。しばし、狐さまは呆然としてその場に立っていた。
「……くそっ」
黒狐がそう言って、地に膝をついたので、狐さまはやっと正気を取り戻した。
「今のは――」
狐さまの言葉は、何かが割れる音によって遮られた。
見ると、黒狐が勾玉に退魔刀を突きたて、それを破壊していた。
「行けよ」
黒狐の言葉の意味を考える狐さまを、黒狐は睨みつけた。
「行けよ。お前だけは自由だ。助けに行きたいんだろ」
は、と目を見張って、狐さまはその意味を理解した。
「黒……」
「なんだよ。早く行けって」
「赤を頼む」
虚をつかれたように、黒狐は瞬きを繰り返す。赤は先ほどとは一転して、嬉しげに笑った。
「だぁ、きゃ、きゃ」
「黒、赤はな、お前のことが好きなのだ」
「………」
黒狐は黙って、差し出された赤を受け取った。赤は身じろいで、喜びを全身で表現する。
「あーう!うう」
赤を抱く、黒狐の肩が震えた。
狐さまはそれ以上何も言わず、踵を返した。
参道を駆け、石段を降り、鳥居をくぐった狐さまは、久方ぶりの外の空気を味わう暇もなく、村へ急いだ。
村では、そこかしこで炎が上がっていた。二百年前の己の所業を思い出し、それを苦く思いながら、狐さまはマツリの姿を探した。
「マツリ、どこだ!マツリ!」
狐さまは叫びながら、煙がもうもうと立ちこむ村を走った。
(まだ早い。まだ私を置いていくな。マツリ)
焼けている家はいくつもあり、煙のせいでマツリの気配も追うことはできない。
「おい、マツリはどこだ。どの家だ!」
逃げ惑う村人の一人を捕まえて、狐さまは語気荒く問う。村人は狐さまの異様な美しさに驚いた後、一つの家を指さした。
「ミノリさんとこの娘かい?あ、あれだ。あの家だ。まだ誰も出てきてない、あ、兄さん!」
村人が言い終える前に、狐さまは駆け出していた。
「マツリ!」
家の前に立って、感覚を研ぎ澄ます。間違いない。マツリの気配と、それに近い人間の気配がする。焼け死んでいてもおかしくないほどに燃えている家の中で、奇跡的に生きている気配がした。
狐さまは集中して、手のひらを燃え盛る炎に向けた。消えろ、と念じる。炎は揺らめいて、勢いをなくす。しかし、さすが黒狐の放った狐火が起こした炎だと、狐さまは苦々しく思った。なかなか消えない炎に、しびれを切らして、狐さまは未だ燃えている家の中に飛び込んだ。
(マツリ、どこだ)
この煙では返事など期待できない。狐さまは弱まった炎をかき分けて、家の中を探した。
「マツ、」
その時、奥の間の一角の天井が崩れて落ちた。その下から小さな悲鳴が聞こえて、狐さまは青ざめる。
「マツリっ?」
燃え崩れた木材を持ち上げると、大きな釜のようなものが現れた。
「……白い狐さん?」
釜が喋ったので、狐さまは状況も忘れて面食らった。
「な、釜が、」
「お願い。僕を外に運んで。……僕の力じゃ、こうして皆を護ることで精一杯なんだ」
お願い、と呟いて、釜は沈黙した。狐さまは釜の中に人の気配を感じ、確信した。
「今、助ける」
狐さまは釜に手を触れずに、持ち上げた。そのまま外に出して、地に下ろす。
「外だぞ。釜」
「良かった……」
釜は呟いて、輪郭を蕩けさせた。釜の姿が見覚えのある少年の姿に変わり、微笑んだ。
釜のあったところには、マツリと、見知らぬ男女と子どもが横たわっていた。狐さまは迷わずマツリを抱き起し、頬を叩いた。
「マツリ。マツリ、目を覚ませ!」
「………。う……」
マツリは煤けた顔を歪ませて、僅かに瞼を上げた。
「きつね、さま……?」
「ああ、私だ」
「ゆめ、ですね。あたし、しぬんだ」
「死んでいない!」
狐さまは声を荒げた。マツリは驚いて、完全に意識を覚醒させた。
「狐さま、どうして。伯母さんと伯父さんは、てっちゃんは、」
「一緒に居た者たちなら無事だ。安心しろ」
マツリは涙を滲ませた。
「よか、よかった」
「馬鹿者。私の台詞だ」
狐さまはそう言って、マツリの体を痛いほどに抱きしめた。
少年がその様子を見やって、微笑む。ふらり、と身体が傾いだ。
「サリ!」
少年の身体を支えたのは、火事場に相応しくない、姫装束の狐姫だった。
「サリ、しっかりしろ。無茶しおって!」
「狐姫ちゃん……」
「ひどい火傷じゃ。はよう横になれ!」
茶狸は狐姫の腕から逃れて、地に腰を下ろした。懐から千里鏡を取り出し、彼女に差し出す。
「サリ……」
「ごめんね。狐姫ちゃん。許してもらえないと思うけど――返す。だから、雨を降らせて。村を救ってよ、神さま」
「………」
狐さまとマツリはその様子を見守っていた。狐姫は茶狸の前に跪き、千里鏡を受け取ると、ぎゅう、と彼の体を抱きしめた。
「き、狐姫ちゃん」
「良かった」
狐姫が呟いた。
「そなたも、――……そなたが無事で、良かった……」
それを聞いて、茶狸の顔が泣きそうに歪んだ。
狐姫は立ち上がって、千里鏡を空に掲げた。
狐姫の身体が夜空に溶けていく。
「これぞ、狐姫の真髄じゃ!」
宣言と同時に、炎をかき消す大雨が降りだした。
―――――
雨が、狐の社にも降り注いだ。
腕の中でうとうととしている赤を、雨が当たらないように隠して、黒狐は御神木の前に立った。
「わかってたんだ」
黒狐は、ぼそりと呟いた。なんだなんだと、赤が黒狐の懐の中から顔を出す。御神木の枝葉に助けられ、雨粒は彼らには降り注がない。
「中途半端な俺様の存在を確定しようとして、あいつは退魔刀で俺を縛り付けた。そうすれば、消えることはないから。あいつは、俺様を白いののもとにずっといられるようにしてくれたんだ」
「だー」
黒狐は赤の赤髪を撫でた。
「それを裏切ったと言ったのは、俺様が、俺様の中の恐怖を隠すためだ」
赤は大きな瞳を黒狐に向けて、微動だにしない。
「もう二度と、あんな思いはしたくなかった。残されたくなかった」
黒狐は赤の身体を抱きしめた。図らずも、狐さまがマツリに、狐姫が茶狸に、そうしたように。
「ごめんな。怖かったろう。お前さんはなんにも悪くねぇのにな」
「うーう」
「さっき、あいつ、俺様になんて言ったと思う?」
「う?」
「あんまり白いのやお前さんを苛めるな、だってよ」
黒狐は久方、誰にも見せていないような柔らかな微笑みを、赤に向けた。赤は嬉しそうに笑い返す。
「かなわねぇな。いつまでたっても。一年たっても、十年たっても、あいつが死んでも。俺様はいつも、あいつには勝てないんだな」
「だぁ」
赤は黒狐の胸にすり寄った。黒狐はそれに笑って、御神木を見上げた。
不安は尽きない。けれど、今はそれでいいのだと。
初めて黒狐は思い、少しだけ、涙をこぼした。