ものうい狸
マツリは、井戸から汲んで来た水を白い米の入った窯に入れると、火種を起こして薪をくべた。米を炊いている間に、畑から採って来た野菜を切る。
昼餉の支度を終えてしまうと、家族を呼ぶために家と畑を往復する。畑仕事をしていた伯父とテツを呼んで家へ帰ると、勝手口で伯母さんと村の長の弥平が言い争っていた。いつものことだ。
「マツリ。しばらく見ないうちに綺麗になったじゃないか。さすが、ミノリさんの姪っこだねぇ」
「……はぁ」
伯父はまだ、畑から帰ってこない。弥平は蟇のような顔をにやつかせて、並んだ伯母と姪を眺めた。マツリはこの不躾な視線を送ってくる男が嫌いだったが、思えば、狐さまと己を引き合わせてくれたのは彼なのだ。
「その節は、仲人をしていただいてありがとうございました」
マツリには全く悪気がなかったのだが、弥平にとっては痛烈な皮肉だったらしい。それ以上何を言うわけでもなく、すごすごと己の屋敷に戻っていった。
「あんた、言うようになったじゃないか!」
伯母さんは上機嫌に言って、マツリの分の白飯を特別大盛りにしてくれた。
「あの蟇男、あたしに無断でマツリを売ったくせに、自分のおかげでいいものが食えるんだ着れるんだと言って、しつっこいったらありゃしない!あたしが今さらあんな蟇男になびくわけあるもんか!」
声高に言う伯母さんに、伯父さんは椀を受け取りながら苦笑した。
「あのお人も、懲りないねぇ」
気性の穏やかな伯父さんは、いつも激しい伯母さんの言動を和やかに見守っている。一見気の合わなそうな二人だが、実は十数年に及ぶ大恋愛の末に結ばれたおしどり夫婦だ。
初めてマツリが伯父さんに会った時、マツリは十にいくらか届かない子どもだった。伯母さんが昔から文を毎日受け取り、読めもしないのにその文字を楽しげに眺めているのを知っていたマツリは、子ども心に、伯母さんの相手はどんな豪傑かと夢想したものだ。その分、紹介された時の衝撃は凄まじかった。
「おっかあ、おかわり!」
テツが椀を差し出しながら大きな声を出した。やんちゃなテツの性格は伯母さんに似ているが、顔は伯父さんそっくりだ。
(弥平さんはああ言ったけど、あたしは誰にも似てないね)
マツリは自嘲するでもなく、そう思った。当たり前だ。伯母さんも伯父さんもマツリの親ではないし、テツはマツリの兄弟ではない。
以前はこのことで悩んだこともあった。しかし、今のマツリは違う。狐さまのお嫁になって、いくらかの心の余裕が生まれたのだ。
「いい面構えになったねぇ。あの臆病者のマツリが、強くなった」
伯母さんは嬉しそうだった。伯母さんが嬉しそうだと、マツリも嬉しい。
「幸せなのかい?」
伯母さんが聞いた。マツリは咀嚼していた漬けものを飲みこんで、はっきりと頷いた。
「うん。あたし、弥平さんにはほんとに感謝してるんだ」
それを聞いて、食卓は笑いに溢れかえった。
昼餉を終えて、伯父さんと伯母さんが連れだって、村の会合に出掛けて行った。留守を任されたマツリとテツは、二人で糸を輪にして、あやとりをして遊んでいた。テツは女の子の遊びも、マツリがやりたいと言えば喜んでしてくれた。たった七日間の里帰りなのだ。いつまた会えるかわからないことを、テツは承知していた。
「もし。こちらにマツリ様はおられますか」
涼やかな声が外から聞こえて、マツリは立ち上がった。戸を開けると、女房装束の美しい女が立っていた。一目見て、マツリは彼女が巫女狐の一人であるとわかった。
「みこぎつね!」
テツが大きな声を上げた。目をきらきらさせて、彼女の足元に駆け寄る。
「ひめさまはげんきか?」
「……ええ」
巫女狐は困ったように微笑んだ。
「里帰り中にお邪魔いたしまして、申し訳ありません。マツリ様にお聞きしたいことがあって参りました」
「聞きたいこと、ですか?」
「はい。サリを見かけませんでしたか」
マツリとテツは顔を見合わせた。
「サリはじんじゃのおやくめだぞ」
「サリくん、どこかへ行っちゃったんですか?」
巫女狐は言いにくそうに、答えた。
「それが、数日前から姿が見えないのです。東北の対の屋は荷物が全て無くなっていて……」
「よにげだ!」
「てっちゃん、ちょっと黙ってて?」
め、とマツリが軽く怒ると、テツは静かになった。
「マツリ様だから申し上げますが、先日、清廉神社で物盗りがあったのです。その時期と重なっているもので、サリが犯人ではないかと疑う者がいまして」
「そんなっ!サリくんはそんなことしません。コガネちゃんもそう思ってるんですか?」
巫女狐は慌てて首を横に振った。
「いいえ。普通の人間に姫様の目を欺くことはできません。姫様とわたくしも含めて、大多数の者はサリを信じています。わたくしどもはサリが子どものころから見ていますもの。多少ふざけすぎるところもありますが、根はまっすぐないい子ですわ」
そう言いながらも、巫女狐は不安そうだった。
「ただ――そう。あの子の生い立ちが一切わからないことが、少しだけ不思議なだけで」
「生い立ちが分からない?」
「あの子、テツ様くらいのお歳の時に、姫様がどこからか拾って来たんです。たぶん、捨て子だったのでしょう」
マツリは言葉を失った。幼馴染のはずなのに、初耳だ。彼が己と同じ、捨て子だなんて思いもよらなかった。
「お騒がせしてすみませんでした。サリを見かけたら、すぐに清廉神社に帰ってくるように言ってください」
申し訳なさそうに言って、巫女狐は帰っていった。
マツリとサリは奥の間に戻って、あやとりの続きを始める。テツは心ここにあらずな様子のマツリを見やって、あのさ、と言った。
「サリって、ふつうのにんげんじゃ、ないよな?」
「………。え?」
「だって、はっぱでようかいをつくってたんだ。このあいだ」
「………」
マツリは何も答えることができなかった。
その夜、マツリは物音を聞いて目を覚ました。隣にはテツがいて、ぐぅぐぅといびきをかいて眠っている。その向こうには伯母さんと伯父さんが、寄り添うようにして眠っていた。どうやら、物音を聞いたのはマツリだけだったようだ。
再度、音が聞こえた。勝手口を控えめに叩く音は、マツリにこっちにこいと促しているようだった。
マツリは煎餅布団から起き上がり、恐る恐る、勝手口に近づいた。
「マツリちゃん」
「……サリくん?」
戸を開けると、見知らぬ女が立っていて、マツリは驚いて大きな声をあげそうになった。女はそんなマツリの口を抑えて、外に引きずり出す。
マツリが暴れようとすると、女は顔を寄せて囁いた。
「マツリちゃん、僕だよ。サリだよ」
マツリは女の顔を凝視したが、少年とは似ても似つかない。
「信じて。僕の声でしょ?」
ぎゅ、と女はマツリの手を握って、困ったように微笑んだ。その手は暖かく、危険な人物には思えなかった。
マツリは女に手を引かれて、田んぼの脇のあぜ道に誘い出された。村は完全に寝静まっていて、外を歩いている者は一人もいない。見慣れた泥だまりの前に腰掛けて、女は無邪気に笑った。
「マツリちゃん、昔、ここで落ちたよね」
「……。そうだったね」
伯父さんと出会う前だった。少年と共に遊んでいて、足を踏み外したのだ。どろどろのマツリの姿を見て、伯母さんが金切り声を上げたのを覚えている。
「サリ、くん?」
マツリはまだ疑っていた。
「ごめんね。見つかったら大変なことになるから」
「清廉神社で物盗りがあったことと関係があるの?」
「……知ってるんだ」
女は俯いて、足元の泥を見つめる。マツリは何も言わず、女の顔を見ていた。
「盗人は僕だよ。千里鏡を盗んだ」
「千里鏡?」
マツリは思わず訊き返した。女は泥を見つめたまま、覚えたことをただ口から暗唱するように、答えた。
「狐姫ちゃんの千里鏡、白い狐さんの封じの勾玉、黒い狐さんの退魔刀は、この辺りで三つの神具っていわれてる。もともとはこの地を支配していた、狸の子を退治するために、カグヤという巫女さんが都から持ち出してきたものだよ」
「カグヤ、さま……」
マツリは昔、狐さまが愛したという巫女を思い出した。
狐さまが妖怪として村に報復していた二百年前、現れた赤髪の巫女。彼女は彼と心を通わせたが、その使命と村人のために、強い神気をもって狐さまを封じた。
話はそこで終わらず、彼女は一生をかけて狐さまを妖怪の身から救い、神として狐の神社に君臨させた。
それまではマツリも知っていたが、狸の子とは初耳である。問うような視線を向けると、女は続きを話し出した。
「狸の子は、都に巣食う大狸の末っ子で、そりゃあ残酷で、人間や狸以外の動物――とりわけ、狐が大嫌いだった。人間をうまく操って狐を狩らせるのが大好きで、でも、結局はそのせいでその地位を狐姫ちゃんに奪われた。因果応報というやつかな?それまで狸に従っていた人間たちは狐姫ちゃんの威光に目を奪われて、狸のもとを離れて行った。狸の手下だった妖怪たちも、親玉の大狸のもとへ帰ってしまって、狸は一人、村に残された」
女の顔は寂しげだった。マツリは狐さまの横顔を思い出して、目を伏せる。
「狸の名前はね、茶狸っていうんだ」
伏せた目を見開いて、マツリは顔を上げた。女はそんなマツリの目を楽しそうに見やって、今度はちゃんと、マツリの顔を見ながら話しだした。
「はじめは落ち込んだけど、そう悪い生活じゃなかった。僕は人として、狸の化かす力を使いながら村人に紛れて暮らした。父さんには嫌われていたし、どこにも行くところは無かったから。そうして何年も暮らしていると、自分が本当は人間なんじゃないかとか、思ったり思わなかったり……早い話が、人間のことが大好きになっちゃったんだ」
えへへ、と笑う茶狸は、マツリの知っている少年の顔ではなかったが、見慣れた彼の笑い方そのままだった。
「ずっとこのままでいいと思ってたんだ。だけど、最近、気が変わった。三つの神具を神さまから奪って、追い落してやろうって――君が神さまのお嫁さんになっちゃったから」
「あたし?」
「うん。狐がまた僕から一つ、大切なものを奪っていくんだと思ったら、いても立ってもいられなくなった。この村の人間はみんな、僕のものだ。狐よりももっとずっと前から、僕が一番近くで見守っていたんだ。僕は神さまなんかいらないって思った……人間を、神さまから解放するんだ」
マツリは複雑な気持ちになった。
「あたしたち、べつに、神さまに捕らえられているわけじゃないよ?」
「でも、妄信的に信じているでしょ?神さまは裏切らない。困った時の神頼みだって」
マツリは言い返せなかった。
「理不尽じゃないか。神さまというだけで、親に無断で女の子を攫ってお嫁にして、許されてるんだ」
「あたしは、それでいいの。狐さまのことが、す、すき、だから」
顔を真っ赤にしながら言ったマツリを、茶狸はおもしろくなさそうに見やる。
「ほうら。よく手懐けられてる。てっちゃんの狐姫ちゃんを見る目、見た?完全に惚れてる。君に加えててっちゃんまでとられるなんて嫌になるよ」
「それは、狐さまもコガネちゃんも、魅力的だからだよ。神さまだからじゃないよ」
マツリは言ったが、茶狸は理解できないようだった。
「狐だから僕並みに人を化かすのがうまいんだよ。騙されちゃだめだ」
「騙されてなんかないよ」
「もう……」
茶狸は不貞腐れたように、頬を膨らませた。女の顔に、見慣れた少年の仕草が重なり合う。マツリは少し笑った。すでに、女の正体が幼馴染の少年であるということは疑いようもない。
マツリはこの奇妙な出来事を真っ向から受け止めることができるほど、いつのまにか不思議な出来事に慣れてしまっていた。
「サリくんは、昔から単純なんだから。それだけで神さまを追い落とそうなんて。しかも、盗みを働いてまで?」
「だって、三つ揃わなきゃ意味がないんだ。三つ揃ったら、願い事をひとつ叶えてもらえるんだって!」
「なぁに、それ」
マツリは笑った。二百年以上生きているという茶狸が、願い事が叶うという眉唾な話に瞳を輝かせ、子どものように喜んでいるのだから、とても微笑ましく思うのは仕方のないことだった。
「あ、信じてないでしょ。――僕の願い事、聞きたい?」
わくわくと瞳を輝かせる茶狸に、マツリは笑いながら頷いた。
「神さまなんていなくなっちゃえ。簡単でしょ?」
マツリは笑うのをやめた。
「サリくん……本当に、そう思ってるの?そうすれば、人間が解放されるって?」
「もちろ、あたっ」
頷いた茶狸の額を、マツリは手のひらで叩いた。
「サリくんは、あたしをこの歳で未亡人にさせたいの?」
「大丈夫。その時は僕がいい人を探してあげるよ。あたっ」
「怒るよ?」
「怒ってるじゃないか……」
むー、と茶狸は唸った。マツリはその顔を精いっぱい睨みつけた。
「サリくんは間違ってるよ」
きっぱりと言ってのけた。茶狸はきょとん、として、気まり悪げに頭を掻き、再び泥に顔を向けて目を伏せた。
「――やっぱり、そう思う?」
マツリは答えず、己も泥に目を向けた。
「どうしてかな。マツリちゃんならそう言ってくれるかもと思って、会いに来たんだ」
茶狸は身じろいで、おもむろに、懐から自身の頭ほどもある大きさの鏡を出した。マツリはそれを見て、もう一度、茶狸の横顔を見る。茶狸は眉を下げていた。
「千里鏡だよ。狐姫ちゃんはこれを使って、人里を眺めて、人々の顔を確認するんだ。ほら」
茶狸はマツリに鏡の面を向けた。
鏡はマツリの顔を映していなかった。それどころか、周りの景色さえも映していない。鏡の中では、緑に囲まれた村の人々が楽しげに暮らし、生き生きと生活している。
「二百年間の記憶が、この鏡には詰まってるんだ。――これは僕。この男も。この女の子も、赤ん坊も。ほら、ここには僕とマツリちゃんとてっちゃんがいる」
茶狸が手をかざすと、鏡の中の景色が変わっていく。マツリは見たことがないが、それは万華鏡に似ていた。
「二百年、ずっと、彼女は僕や他の人間を見守っていたんだ。誰一人として例外なく。……僕はこの鏡を盗んで、初めてこの景色を見て……今更、そのことに気付いたんだ。僕は――僕は、ずっと、どんな姿になっても、どんな時でも、彼女に見守られていたんだ」
茶狸は鏡を抱いて、頭を抱え込むように俯いた。茶狸の表情が見えなくなると、マツリは手を伸ばして、その頭を撫でてやった。
「コガネちゃんは優しい人だよ。だからきっと、許してくれるよ」
「……」
「返しに行こう?あたしも一緒に行ってあげる」
茶狸は頭を抱えたまま、首を横に振った。
「許されるわけないよ。僕は彼女にひどいことをたくさんした。殺させて、そのせいで祀りあげられて、二百年も拘束されて、騙して、今度は彼女のものを盗んだんだ。ゆる、許されるわけ、許してくれるわけ、ないんだっ」
茶狸は声を震わせた。マツリは小さな子供のような茶狸の頭を撫で続ける。
「きっと大丈夫。あたしも謝るから、行こう?」
「……」
「サリくん」
「もう、遅いよ」
茶狸は濡れた瞳で、マツリを見た。
「黒い狐さんが今さら許してくれるはずない。もう、僕は後戻りできない」
「コッコさん?」
突然、茶狸の瞳が赤く燃えた。マツリが振り返ると、あぜ道の草に炎が燃えていた。
「な、なに?」
「始まった……」
茶狸が呟いた。
見回すと、闇に溶けて、無数の黒い炎が村のあちこちに浮かびあがっているのが見えた。黒い炎はゆらゆらと揺らめき、草や木に触れては、赤い炎を生み出していく。建物に触れていくのを見て、マツリは立ち上がった。
「マツリちゃん!」
マツリは走った。伯母さんたちが眠っている家まで、全速力で駆けもどる。
「待って、マツリちゃん、危ないよ!」
茶狸がマツリの名を呼ぶが、マツリは止まらない。己の暮らす家に黒い炎が迫り、火を点けて行ったのを見て、心の中で悲鳴を上げた。
(まだ皆眠ってるはず。早く知らせなくちゃ!)
日は瞬く間に大きくなり、火事に気付いた村人が騒いでいた。
「狐さまの呪いだ!」
すれ違う村人に引きとめられながら、マツリは炎に包まれた家に辿りついた。
(怖い、でも――)
伯母さんたちは家から出ていない。逃げ遅れているのだ。
(行かなきゃ!)
マツリは戸を開けて、煙の中に入っていった。
―――――
「狐姫様、大変です!」
巫女狐が血相を変えて几帳の向こうから現れる。
「村から火の手が、――姫様?」
狐姫は縫い針を操る手を止めて、立ち上がった。薄紅色の布地が畳に広がる。
(黒狐……サリ)
心の中で名を呼んだ。
(妾はそなたらを救ってはやれなんだ)
巫女狐が困惑しているのを見やって、瞳を厳しくする。
『僕、サリっていうんだ。あなたのお家に住まわせて』
上目遣いに、小首を傾げた小さな少年。
誰にも言わなかったが、狐姫には一目見てわかっていた。サリは人間ではない。いつか、こんな日が来るとわかっていた。それを放って、村人を危険に曝したのは己の責任であると、狐姫は思った。
「妾は神じゃ。人を救いに行くぞ」
「はい!」
巫女狐は慌ただしく出て行った。残された狐姫は瞳を伏せる。
狐姫を殺され、彼女を取り返すために妖怪となった白狐。
夜毎、退魔刀の囁きを聞きながら、白狐と狐姫のために、阿修羅のごとく戦う黒狐。
何年か前、己もそうとは知らぬまま、寂しさに耐えかねて、狐姫に縋った茶狸。
(本当に救いたいものを――妾はいつも、救えない)